令宣には昨夜の大夫人の言葉が喉に小骨が刺さったかのように感じられていた。


婚礼前夜、令宣は福寿院に呼び出された。

令宣が居間に入ってゆくと大夫人は杜乳母に目配せをした。

杜乳母は居間から使用人を全て追い出して人払いをした。

「母上…お呼びですか」

大夫人は諭すように話し掛けた。

「令宣や…」

「はい、母上」

「明日はいよいよだな…」

令宣はこの期に及んで母親が何を言い出すのかと不審に思った。

「はい」

「令宣…お前には私の本音を言うよ。私はな今でもこの婚礼に心からの賛成をしてる訳じゃないんだよ」

「・・・」

令宣はチラと目を上げたがそのまま黙って耳を傾けた

大夫人は令宣の沈黙をどう受け取ったのか更に続けた。

「お前に云うまでもない。この婚姻は元娘が望んでそれを当主たるお前が承諾したものだ。あの場に居た大勢の者が証人だ。徐家の名誉の為にもそれを覆す事は許されない」

令宣は黙って頷いた。

「私が言いたいのはな、令宣。お前が元娘の遺言通りにあの娘を娶るのは致し方ない。けれど蓮房の事はどうするの?」

「母上…」

「何時まで蓮房を放っておくの?」

蓮房の居所に夫の訪れがない事は誰でも知っている。それがどれ程彼女を辱めている事か令宣には分からないのか?

令宣は令宣で苦い思いを噛み締めていた。

愛が自由自在になるのなら彼とてとうに母の希望通りに蓮房の元へ通っていた筈だ。

愛は思い通りにならない。

それを母にどう伝えれば分かって貰えるのか、彼には言葉が見つからなかった。

重たい沈黙を続ける令宣に大夫人は畳み掛けた。

「明日やって来る羅十一娘…蓮房が妾の座に堕とされたのはあの子にも責任があるのじゃないかい?」

令宣は母親に冷静になって貰いたいと望んだ。

「母上。それは分かりません。確かにあの局面は元娘が作り出したものです。けれど羅十一娘が加担していると決めつけるのは余りに早計です」

大夫人は眉根を寄せて片方の手で額を覆った。

「お前がそう思いたいのは分かる。けれどな…よく考えてみるんだよ…誰が一番お前を愛しているのかを」


令宣は母の憂いを解いてやりたい。

そして嫡子である諄にも温かい家庭を与えてやりたい。

その為には羅十一娘と出来れば信頼関係を築いて、波風を立てずに平穏な暮らしを送る事が望ましい。

たとえ十一娘が母の云う通り元娘の策略に加担していたとしても主導権は元娘にあった。

彼女は恐らく元娘に上手く利用されただけだろう。

十一娘には釘を差して以降波風を立てないよう私から説得すれば良い。

そうすれば今後母の杞憂を解いてやれるのではないかと令宣は堅く信じていた。


ふと気付くと目の前の馬車から侍女に手を取られ羅十一娘が降り立ったのが見えた。

羅十一娘は

不本意だが私に対して警戒心を持っている気がする。

埠頭に居た時の憤った様子から見てどうも彼女は私に対して誤解があるのではないか?

だとすると彼女はどんなつもりで嫁いで来たのか?

令宣の逡巡などお構いなしに婚礼の儀式は始まった。


(はっ!)

親族一同がうち揃った婚礼の儀式の場に入ろうとしたその時、十一娘は敷居に躓いた。

その手を咄嗟に繋いだので彼女は転ばずに済んだ。

掴んだその手首から波立つ脈が伝わって来た。

気丈な娘だが婚礼となると話は別なのだな。
平然としているようで足元が乱れたのも本当は緊張している証しだ。
令宣は素知らぬふりを続けたが心の裡で笑みを零した。
互いを拝礼する時も彼女は一呼吸遅れた。
彼に対する小生意気な態度は癪に障るがやはりまだまだ若輩じゃないかと令宣は溜飲が下がった。

儀式が済むと夕闇が迫っている。
花嫁は西跨院に下がりそのまま夫である私を待つ事になる。
祝いの酒席に徐家は大勢の客を招いた。
大方の男客の祝福は若い継室を娶って羨ましいだのあやかりたいだのと羨望の声ばかりだ。
確かにそれは事実なのだ。
妾を持つ者は大勢居ても令宣は今居る妾より若い妻を娶ったのだ。
令宣は苦笑してそれを受け取った。

十一娘は花嫁姿のまま私を待っている筈だ。
紅蓋頭を被ったまま同じ姿勢で長時間待つのは辛いだろう。
だから早く行ってやりたいのだが先輩同僚達がしつこく絡んで来てなかなか前へは進めない。

彼女は今一人でどんな思いで居るのだろうか。
食事は摂っただろうか。
侍女はちゃんと勤めを果たしているのか?
彼女が慣れない広い屋敷の一遇で一人にされているかと思うと令宣は彼女が哀れに思えて来た。

やっとの事で男客から解放され西跨院に辿り着いた令宣は寝室の寝台にぽつねんと座っている十一娘を見た。
侍女達は令宣の姿を認めると速やかに去って行った。