桔梗と明々は小雪の破れた着物の裾と擦り剥けた膝小僧を痛々しそうな目で見つめた。

盆の上に載った奥様の訪問着も泥が着いている。


「痛そう…」

明々は小雪を西跨院の井戸端まで連れてゆき膝小僧の泥と血を綺麗な水で洗ってやった。

部屋に戻って傷薬を塗ってやりながら尋ねた。

「何処でコケたのよ」

小雪は頭を下げながら呟いた。

「此処へ来る途中、足を引っ掛けられました…」

暴力沙汰には過剰に反応する桔梗である。

「何いっ!?引っ掛けられた〜っ??」

明々も驚いて桔梗に負けず劣らず叫んだ。

「誰にやられたのよ!?」

小雪は普段から大人しくて人を敵に回すように見えない。

小雪はおどおどと口ごもった。

「滅多な事は言えませんが…あの後ろ姿は…」

桔梗と明々は身を乗り出した。

「後ろ姿は!?」

「厨房で賄いの手伝いをしてる…素芳じゃないかと…」

桔梗が声を荒げた。

「あの女か!」

素芳は気の強い質だ。

一度食事内容の事で桔梗とやり合った事がある。

明々が首を傾げた。

「それにしても、なんであんたを害するのよ?何かあんたに恨みでもあんの?」

それには小雪も口籠らざるを得なかった。

「いいえ…何も思い当たりません…」


小雪が帰った後桔梗と明々は顔を見合わせた。

「絶対原因がある筈だよね〜」

明々の言葉に桔梗は頷いた。

「うん、素芳ってさ気の強い奴だから…」

奥様の訪問着は小雪に持って帰らせた。

また洗い直しだ。

奥様に泥の付いた着物は見せられない。

桔梗は腕は立つが暴力は否定する。

「どんな理由があろうと仲間の足を引っ掛けるなんて許されない!」

明々も頷いた。

「それに問題は奥様のお着物に被害が及んだ事だよ…これは西跨院に対する挑戦状よ!」

「言えてる…西跨院の名誉をかけて此処は泣き寝入りしちゃ女が廃るよ」

ボルテージの上がった二人は西跨院を出ると母屋の厨房目指してずんずんと歩いて行った。

主・十一娘は冬青や萬大顕と共に仙綾閣へ出掛けているので止める者が居ない。


厨房にズカズカと入って来た二人の形相に厨師の周も腰が引けていた。

「な…なんか文句がありそうだな、西跨院」

桔梗が腕まくりをした。

「素芳を出しなさいよ!」

二人の剣幕に周厨師は背後の中庭を指差した。

「外で野菜の掃除をしてる…してるが、西跨院、穏やかじゃないな…落ち着け」

両掌を下に向ける仕草で大人の威厳を示そうとしたが二人は完璧に無視して中庭に出て行った。

「俺を無視か…西跨院」


「素芳!」

白菜をむしっていた素芳が顔を上げて二人を見つめた。

「なんで小雪を虐めた!?」

素芳はプイとそっぽを向いた。

「虐めてなんかない」

桔梗は腰に片手を当てて素芳を指差し詰った。

「脚を引っ掛けておいてその言い草はなんだ!」

すると素芳は開き直ったのか正面切って歯向かった。

「お二人に何の関係があるんですか?」

明々がずいと出た。

「大有りよ!そのせいで若奥様の訪問着が台無しになったじゃないの!」

それには素芳もギクリとしたらしく半歩下がった。

あの盆に載ってたのは若奥様の着物だったのか…。

「そ、それは申し訳ないけど…わざとじゃないもん」

桔梗は更に前に出た。

「わざとであってたまるものか!この始末はどうしてくれるんだよ!素芳、お前西跨院をナメてるのか?」

「ナメてません!仕事の邪魔は止めて下さい」

明々は素芳の言い草に怒り心頭に発した。

「素芳!あんたそんな態度じゃ厨房には置いておけないわ!鍋に何か汚いものでも入れてんじゃないの?!心配で任せられない!奥様に忠言してあんたを此処から追い出す」

「えっ!!」

追い出す…その言葉に素芳は吃りながら激しく反応した。

「や、止めて…お願いだから、そ、そんな酷い仕打ち」

「どこが酷いのよ」

素芳はがっくりと肩を落としその場に崩れ落ちた。

「此処を追い出されたら行くとこなんかない…そうなったらあたしの家族はどうなるの?うう…あたしの稼ぎで家族三人やっと暮らしてるのに…」

その憐れっぽさに桔梗と明々のトーンは下がった。

「なんで小雪を虐めたのか言いなさいよ」

素芳は今や完全に小さくなっていた。

「悔しかったんだ…小雪は…あの女は…」

涙が溢れて芝生に滴り落ち声まで小さくなってゆく。

「皆は気付いてないだろうけど…小雪は魏博とねんごろなんだ…アタシより不細工だし、平凡な顔のくせして…何でなのよ…だから…悔しくって…うう…それで今日嬉しそうに歩いてる小雪を見てたら腹が立って…それで、それで〜…ご、ごめんなさい、うう〜っ…」


厨師に肩をポンポン叩かれて慰められている素芳を置いて桔梗と明々は厨房を退散した。


「そんな事があったの…」

十一娘は桔梗と明々の報告に耳を傾けた。

桔梗はまだ半ば悔しそうにしていた。

「奥様〜、このまま放って置いていいんでしょうか?」

十一娘は笑っていた。

「恋の恨みは厄介だわね…」

明々は逆に興味が湧いた。

「奥様も何かお有りだったんですか?」

十一娘はしみじみと答えた。

「そりゃあねえ…この徐家に妾が居た頃はね色々あったわよ…命を狙われた事も一度や二度じゃあ無かったわ」

「えっ!」

何か耐え難い出来事が奥様を巡るこの西跨院にあったとは聞いているがまさか命まで狙われていたとは…。

十一娘は不敵に笑った。

「追々あなた達にも話して上げるわ…だからね、今聞いた話位じゃ慌てる気にもならないのよ」

「じゃあ…どうすれば…」

「放っておきなさい。厨房の事は周厨師に任せておけばいいの。彼は厨房の主よ。厨房で悪い事を許す筈がないし、今聞いた限りでは素芳もあなた達にお灸をすえられて改心したと思うわよ…家族が飢える苦しみは私にもよく分かるもの」

桔梗も明々も流石奥様だと黙って頷いた。


翌日、厨房から届けられたご馳走には素芳の詫び状が添えられていた。

材料は素芳が厳選し周厨師が腕を振るったとある。

同じご馳走と詫び状を被服係りにも届けたらしい。

目を瞠るような彩りの食事に西跨院の会話は大いに弾んだ。