
それからのあたしは陳腐な言い方だけど
寝ても覚めても旦那様の事が頭から離れなかった。
旦那様のあの声ときりりとした横顔。
真っ直ぐな背筋。
何度も頭に浮かべてまるで牛みたいに反芻してるんだもの。恥ずかしいったらない。
でもそれは自分の中に幸せな気持ちを運んで来てくれた。
優しい気持ちになれるってこんな事なのかな?
あれからひと月ほど経ったのに遠くからでも旦那様を見掛けたのは数えるほどしかない。
あちこちのお屋敷を転々として掃除をして廻ってるから行き違いになるのかな。
でも偶然見掛けた時は凄くときめいて嬉しかった。
梅香さんに気付かれたらからかわれると思って表には出さないように気を付けてたつもりだ。
一度梅香さんに連れられて西跨院に行った。
旦那様の奥様が住んで居られる所だ。
どんな女の人だろう…
奥様はお出かけになっていてお留守だった。
梅香さんは残念そうにしていた。
奥様が居られたら大抵お菓子を下さるそうだ。
…と云う事はお優しい人なのかも…。
西跨院には大小の刺繍台があった。
机の上の籠には綺麗な色の糸が沢山巻かれて置かれていた。
こう見えてあたしは刺繍が好きだ。
こんなに綺麗な絹糸は使った事がないけれど。
ふと触ろうと手を伸ばしたら梅香さんに止められた。
「奥様の物に触ったらいけないんだよ!」
あたしはハッとして手を引っ込めた。
「あ!つい…ごめんなさい」
近くに居た侍女の明々さんが気付いた。
「刺繍に興味があるの?」
「…はい。村の実家に居た時はあれこれ作っていました」
明々さんは微笑んだ。
「そうなの?」
怒られなかったのでホッとした。
侍女が優しいと云う事は奥様も優しいって事なんだろうか。
そして奥様が優しいって事はつまり旦那様も優しいに決まってる。
梅香さんが時々教えてくれる旦那様の噂。
すごく奥様を愛しているんだとか。
妾を持たないくらい奥様一筋だとか。
あの旦那様がすごく愛しているという奥様が物凄く羨ましかった。
暫く針を持つ機会がなかった。
けど昼前見た西跨院の綺麗な色の糸があたしの心を刺激した。
その夜、蝋燭の灯を頼りにあたしは懸命に針を動かした。
隣で横になっていた梅香さんが眠たげな目を向けた
「あんた、こんな暗いとこで針仕事なんかしたら目が悪くなるよ」
「あ、もう終わります」
「ふぅん…早く寝なよ…」
針仕事なんか大嫌いだと言ってた梅香さんは何の興味も湧かないのかそのままぐうすか寝てしまった。
薄暗い部屋の中
掌で咲いてゆく蘭の花は灯の僅かな光を受けて銀色に輝いていた。
我ながらいい出来だと最後に返し縫いをしながらあたしは満足だった。
何故こんな大それた事を思いついたのか。
今となっては思い出せない。
あたしは出来上がった手巾を胸に忍ばせて半月溿へと急いだ。
旦那様がお留守なのは承知だ。
照影という付き人も居ないからか扉は閉じられひと気がない。
鍵は掛けられていなかった。
あたしはそっと辺りを見廻して人が居ないのを確かめるとこっそりと扉を開けて忍び込んだ。
書斎はひっそりとして窓からの光が線条に差し込んでいた。
焚かれた香の香りが部屋に充満している。
何という香なのか清らかで男らしい香りだ。
旦那様の香り…そう思うと胸が高鳴った。
宝児は上座に位置する書き物机に近付いた。
旦那様の筆や書類…硯に墨、水滴。
ここに旦那様の手が触れた。
そう思うと目にする物全てに宝児は魅了された。
だが浸っている暇はない。
宝児は胸元から取り出した手巾をそっと机の上に置いた。
そして見つからないように念じ乍ら書斎を抜け出し急いで半月溿を後にした。
翌日の事だ。
女中差配役の鄭乳母から呼び出された。
鄭乳母は初日に会った時と打って変わって冷たかった
「誰が勝手に半月溿に行って部屋に入っていいと
言った!」
あたしは真っ青になった。
口から心臓が飛び出すかも知れない。
「あたし…あたし…」
「旦那様がご存知なくとも家の者達は何処からでも見てるんだよ!」
見られていたのか…!?
「……」
「お前が何をしたのか知らないが…お前の処分は旦那様がなさる…ともかくお前のした事は重大だ」
頭が真っ白になった。
此処から追い出されるのだろうか…。
そしたら、そしたら、
村の者は何と云うだろうか。
うちの親はどんなに哀しむだろうか…。
「今から半月溿に行くんだ。旦那様が待っておられる」
あんなに憧れた旦那様のいらっしゃる半月溿。
其処へ行けと言われたのに嬉しくも何ともない。
鄭乳母の後を従いて歩きながら絶望の感情だけが心を支配していた。
書斎の入り口で鄭乳母が頭を下げた。
「旦那様、宝児を連れて参りました」
旦那様の声は聞こえず
照影という付き人が入れという仕草をした。
「お前のものか?」
旦那様は手巾を指した。
あたしは黙って頷いた。
「今朝話を聞いて調べさせたが何も無くなっては居ない。何が目的で忍び込んだ?」
黙っていると鄭乳母に小突かれた。
「は、はい…旦那様が私達のような被災者を助ける為に雇って下さったと聞きました…有り難くて…だから…だから…お礼を、、と…一昨日夜鍋をして作りました」
旦那様は黙って手巾をじっと見下ろしておられた。
「だからと言って無断で主の居ない書斎に通って良いと云う事にはならない」
鄭乳母がははーっと膝をついて座った。
「旦那様!その通りです。私の監督不行き届きです!」
「分かればいい」
旦那様に言われて鄭乳母は更に土下座の体勢になった
「今回限りだ。次は故郷に帰らせる。鄭乳母はしっかりしつけをするように」
「有難うございます!」
鄭乳母は私の後頭部を押さえると一緒に頭を下げさせた。
「この手巾は持って帰りなさい。私には妻の作ってくれた手巾が沢山ある」
あたしは涙になった目で頭を上げた。
「気持ちだけ貰っておく。…二人とも行きなさい」
しおしおと立ち上がって出て行こうとしたら表から何とも言えず可愛らしい声が聴こえた。
「お父ちゃま〜…」
「暖々!来たのか!」
途端に旦那様の目尻が下がった。
旦那様はその三つくらいの幼い少女を抱き上げると嬉しそうに頬ずりをなさった。
私達はしょんぼりと半月溿を後にした。
少し歩きかけたところで先程の幼い少女が駆けて来て追いついた。
「お姉ちゃん!」
あたしが振り向くと少女は綺麗な笑みを浮かべて花園で摘んだらしき野の花を差し出した。
「お姉ちゃんに上げる!」
私は少し涙ぐんだ目で少女に笑いかけるのが精一杯だった。
少女は私が受け取ると無邪気な笑顔を見せ、そしてまたくるりと書斎へと駈け戻って行った。