帰宅した令宣を普段着に着替えさせた十一娘が袂を確かめて令宣に催促した。
「旦那様、手巾を出して下さい。洗いますので」
「いや、まだよい。殆ど使っておらぬから汚れていない」
令宣は残った仕事を片付けてくると半月溿に行ってしまった。
明々が令宣の後ろ姿を不思議そうな目で見た。
「奥様〜、旦那様は綺麗好きな方なのにもうかれこれ四、五日も同じ手巾を持ち歩いてらっしゃいますよ」
十一娘は俯いて笑いを堪えていた。
「そうなのよ」
桔梗が尋ねた。
「何か深い事情でもあるんですか?」
十一娘はぷっと吹いた。
「事情も何も・・あの手巾は暖々が旦那様の誕辰祝いに上げたものなのよ」
侍女二人は一斉に頷いた。
「なあ〜るほど!!」
「暖々が一生懸命に刺繍したものだから…手放せないのね」
桔梗が急に思い出した。
「あっ!そういえば暖々様は、塾の先輩御曹子にも香袋を差し上げてましたよね!」
十一娘よりも先に明々が目を三角にして桔梗の口を塞いだ。
「ダメっ!それは禁句よ!」
十一娘は笑いを堪えるのに苦労していた。
「そうそう、旦那様は暖々が初めて刺した刺繍を貰ったと信じてらっしゃるのよ」
桔梗は明々の手を外しては〜っとため息をついた。
「はあ〜なんてお気の毒な旦那様だろう。ご自分が二番手なんて知ったら…」
明々は桔梗を睨んだ。
「面目丸潰れですね!桔梗、口が裂けても言わないでよ」
「云う訳ないでしょ!これは西跨院の重大機密です!」
「あたしもこの秘密は墓場まで持って行きます!」
十一娘は又もや吹いた。
「もう…二人とも大袈裟なんだから〜」
大夫人が怡眞と慈安寺に月参りに出掛けて行った。
それ故普段大夫人と食事を摂っている暖々が夕食の食卓に加わった。
十一娘が夫の椀に菜を乗せた。
箸を進め乍ら令宣は娘に尋ねた。
「暖々、近頃学問は進んでいるのか?」
暖々はしたり顔をした。
「ちちち…お父様、お食事の時は固い話をすると消化に悪いとお祖母様がおっしゃいました」
令宣はニヤリとした。
「そうか…?お祖母様がそんな事を?誤魔化すなよ」
暖々は頭を搔いた。
「てへへ、バレましたか…」
「学問より悪知恵のほうが前進しているようだな…」
十一娘が助け舟を出した。
「旦那様、先日お迎えに行きましたら曹先生からお褒めの言葉を頂きました。一番の若年者だが熱心に皆さんに着いて行っていると」
「そうか、それなら良い。塾に行かせるのは学問を修める為。識見を高めて格物の性質と世の道理を知り云々…」
「ふわアアア・・・」
暖々が欠伸をしたので十一娘が慌てて叱った。
「暖々、お父様の前で無作法よ」
「お父様ごめんなさい…暖々急に眠くなっちゃいました」
令宣は苦笑した。
「呆れた奴だな。都合が悪くなると睡魔が襲うのか」
十一娘は暖々付きの侍女牡丹を振り返った。
「この子今朝は早かったらしいの。もう連れて帰って休ませてやって」
「はい、若奥様。暖々様参りましょう」
暖々は立ち上がるとゆるりと挨拶した。
「お父様お母様、お休みなさいませ」
令宣は頷いた。
「眠くても歯はきっちりと磨くんだぞ…」
「は〜い」
暖々は目を擦りながら福寿院に戻って行った。
「旦那様、あのひょうきんさは誰に似たんでしょう」
「誰って…お前に決まってるだろう」
十一娘は心外だった。
「え?そうですか?」
「帰寧日に私が西跨院に戻るとお前と来たら大欠伸をしていたぞ」
十一娘は呆れた。
「まあ…よくもそんな古い話を覚えてらっしゃいますね」
「朝参を終えて帰宅した夫の前で大欠伸とは失礼な奴だと思ったから記憶に残っている」
本当は無防備で無邪気な可愛い顔をしていると内心微笑ましく感じていたのだ。
「あ、あれは前日暖閣の固い床で寝たのでなかなか寝付かれなかったからです」
令宣の目が悪戯っぽく光った。
「そうだな。お前と結婚して以来私も暖閣で寝ると言う新鮮な体験をさせて貰った」
十一娘は嫌みを云う夫を睨んだ。
「旦那様〜…それじゃあの頃を思い出して今夜は暖閣で寝てみます?」
「それもいいな。ただしお前も一緒に寝るんだぞ」
「えっ!?」
その夜、固い床で愛し合い翌日仕事に差し支えた令宣であった。
参考本編

