西跨院の若奥様を尹清が診脈に訪れる日がやって来た。

暫く十一娘の脈を診たり身体中を触診していた尹清がきっぱりと断言した。

「変わりありませんね。異常は見当たりません」

「先生、ありがとうございます」

十一娘は着物の襟を正すと明々に茶を出すよう命じた。

「あのバカはやって来る?」

十一娘は思わず笑った。

「もしや劉毅先生の事ですか?」

尹清がフンと鼻を鳴らした。

「そう」

「此処へは来られませんね。定期的に福寿院の義母上の所へ往診下さっていますが…」

「そうなの?」

十一娘は劉毅とは会えば喧嘩腰のくせにこうして近況を尋ねる尹清の態度が可笑しかった。

「はい、尹清先生…ところで折角劉毅先生と同期であられたなら此処で出会われたのもまたご縁です。積もるお話もあるでしょう。一度ゆっくりとお話なさったら如何でしょう?」

その気があるなら二人を屋敷にお招きしても良い。

尹清は明々が運んで来た茶を啜った。

「は〜〜〜っ!此処のお茶はいつ飲んでも美味しいわね〜。茶葉が特別なのかしら?」

十一娘の問いには答えず「美味しい」を繰り返した。

明々が誇らしげに答えた。

「若奥様は茶処の余杭の出身でらっしゃいます。お茶にはかなりお詳しいのです」

「あら、そうなの!だからなのね」

明々が気を効かせた。

「先生、お代わりをお持ちします」

「嬉しい。ありがとう」

十一娘は応じようとしない尹清が残念だった。


明々が水屋に去ると今度は徐ろに尹清が尋ねた。

「一度聞きたかったんだけど…」

「先生、何でしょうか」

「昔、侯爵が負傷した時に看護した侍女が居たのよ…大夫人が随分と気を許して侯爵に仕えさせてたと思うんだけど…それからどうなったのかな?と思って。今も屋敷で令宣…じゃなかった侯爵に仕えてるの?」

十一娘は益々確信した。

尹清はやはり大昔から旦那様の事がお好きなのだ。

だから旦那様の側近くで仕えた秦姨娘の事が気になっているのだわ。

「いいえ…話せば長くなります。その侍女は妾となって長年旦那様にお仕えしました」

「やっぱりね…随分大奥様に信頼されてたもの」

「はい、ただ訳あって数年前に亡くなりました」

「まあ、そうなのね。物静かで賢い人だったからきっと見初められたに違いないと思ってたわ」

尹清先生は粛々と旦那様のお世話をする秦姨娘が羨ましかったのだろうか。

そのもの静かな表情の裏で復讐に燃え区励行の間者として徐家全体を陥れ翻弄していたと知れば驚く事だろう。

「妾…と云うものは悲しいものなんです…幸せにはなれません」

尹清は怪訝な顔をした。

「私の母は羅家の妾でした。身分が低い故に都から余杭へ送られたのも事件に巻き込まれて亡くなったのも私を護ろうとしたからなのです。」

尹清は途端に申し訳無さそうな表情になった。

「そうだったんだ…ごめんなさい…私が余計な質問をしたせいで悲しい事を思い出させたわ」

私の事を何も知らない者が見たら深窓の令嬢が裕福な侯爵家に嫁いで何不自由なく暮らしていると思うのかも知れない。

私には徐令宣という特別な人と巡り合えた幸運があったに過ぎない。

「いいえ…」

明々が茶のお代わりを置いた。

「じゃあ、今徐侯爵に妾は何人居るの?」

明々が又もや自慢した。

「先生!旦那様は妾をお持ちにはなりません。若奥様一筋です!」

尹清は度々驚かされる事になった。

尹清が知る限り官位を持つ男は皆屋敷に妾を持っていた。

「ええっ…そうなの?」

「はい!妾が居たのは昔の事です。旦那様は奥様を娶られてから奥様しか目に入らないのでどなたも居なくなってしまいました」

十一娘が照れた。

「もう、明々ったら…」


尹清は令宣という一人の男に徹底的に愛されている十一娘が羨ましかった。

見透かしたように十一娘が提案した。

「劉毅先生が来られる日にお茶を飲みにいらっしゃいませんか?今度はまた別の特別な新茶を何種類か用意します。尹清先生と劉毅先生どちらが味の違いに気がつかれるか競争なさっては?」

「あらっ!劉毅なんかに負けないわよ!」

「はい。では決まりですね…楽しみです」


何だか徐若奥様に乗せられた気がしないでもないけれど・・・。

その誘いが尹清の心の中で特別な約束になった事は否定出来なかった。