[区家]
区励行は父親の前にうなだれて報告するしかなかった。
「父上、本日戸部の王子川は逮捕され刑部に移送されました」
王子川は戸部の責任者で靖遠公の子飼いだった。
靖遠公は長男の愚かさに激怒していた。

「私に何の関係があるんだ、え?区殿よ・・・今日、米の件を一介の宦官から聞かされるとは」

「お許し下さい。その件は私のせいです。決して父上を疎かにした訳ではありません。区家の為、父の為にと思い」
「何処で間違ったか言え!」
励行には言い訳の言葉も見つからなかった。
「・・分かりません」

「必ず殺す自信がなければ簡単に刀を抜くな!・・お前が徐家にあの米を渡さなかったら奴は軍の食糧庫に気付かなかったろう」

「黴米の在りか、奴に気付かれたのですか!?」

「王子川は私が捨てた!陛下が陳閣老にこの件を調査せよと命令されたのでお前の為に奴を捨てるしかなかった!」

「お怒りはごもっともですが・・父上は東南軍事を管理し、海禁人事の維持に大金が必要です。私は父上の憂いを共にしたかったのです」

靖遠公は息子に筆を投げ付けた「馬鹿者っ!」

励行は慌てて床に平伏した。

靖遠候は頭を床にこすりつけた励行を睨みつけた。

「戸部はとうに徐令宣の陣営に降ったぞ!・・王子川を引き入れる為どれほどの代償を払ったと思うんだ。・・この件で戸部は我が区家を敵と見なすだろう


ここまで一気に怒りを爆発させた後、励行に投げ付けた筆を拾わせ、靖遠公は突然話の方向を変えた。
「・・彦行は家を出てもう一年経つが、文すらくれなかった」

区彦行とは励行の腹違いの庶子弟で、かつては父親の気に入りの息子だった。

頭脳明晰で容姿に優れ人当たりも良かったがここ暫く父に反発して志官もせず家を出て久しい。

供を連れ舟で各地を巡って商いをして家には寄り付かない。

何故突然話題にするのか、励行は疑った。
「あれの行方を知っているか?」
「詳しく知りませんが北の方へ向かっていると聞きました。もう都に戻ってくると思います」
「そうか・・帰ったらすぐ私に知らせてくれ。・・下がれ」
「はい、父上・・」

励行の妻は三つの宝石箱にそれぞれ首飾りや腕輪などの宝飾品を詰め終えた。
「見て、綺麗でしょ?」
「はい、奥様」
「後でこれを、寧国公夫人、中山公夫人、左安伯夫人に届けてちょうだい。これは珍宝斎の新商品で贈り物だと伝えて」
「はい、奥様」
珍宝斎とは励行のこの妻が経営する宝飾店であり都の名士夫人達がよく通っていた。
そこへ浮かない面持ちの励行が戻って来た。
「あなたお帰りなさい。・・どうなさいました?」
「米の件がバレた」
「・・義父上は」
「この件で父上に実力を見せようとしたが、まさか徐令宣に嵌められしてやられるとはな」
「上手くいっていると仰ってたじゃありませんか。何処が駄目だったのですか?」
「徐令宣の後妻だ。あの女のせいで失敗した」
「羅家の庶女の事ですか?彼女に一体何が出来ると言うのです?」
「救済日にあの後妻が事態を収拾しなければ徐令宣が帰るまで粥棚は持たなかったはずだ。令宣がそれで軍の食糧倉庫を怪しんで調べあげた。父上が思い切って戸部に送り込んだ腹心を捨てなかったらどんな結果を招いていたか分からない」
「そんな事を言われると永平候爵夫人に会ってみたいわね」
励行はそれより気掛かりな事を打ち明けた。
「父上がまた彦行の事を口にした」
それはまた妻の不機嫌を招いた。
「義父上は何故あんな庶子を気に掛けるんです?区家の事にも無関心でほっつき歩き、商売もちっぽけなものばかり。義父上はどうしてあんな子を!」
「父上は彦行が可愛いのだ。都の公家で嫡男が世子でないのは私くらいだ!そもそも区家の土台は兵部にあるのに私を礼部に送り込んだ。一体何故なんだ!」
「あなた、それはあまり心配しなくて良いと思います。世子の座は、私の父の手前もあります。彼に渡す筈がありません」
「正直に言うと、今頼れるのはお前と義父上だけだ」
妻は弱気な夫の手を握りさすった。

[徐家の花園]
令宣が帰宅して花園にさしかかると向こうから十一娘がやって来るのが見えた。
令宣は慌てた。
十一娘の存在は今や令宣の意識のかなりの部分を占めていた。
彼女を意識すればするほど何と話しかけたら良いのか、何をきっかけにすべきか分からなくなる。
つまりは挙動不審になる。
十一娘が令宣に気づいて歩み寄ってきた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「うん」令宣はぎこちない。
「旦那様、お仕事がお忙しいようですがお身体に気を付けて下さい。では、お先に失礼します」
あっさり自分から去って行こうとする。
令宣は十一娘を引き止める言葉を必死に探した。
咄嗟に出たのが
「あ~、十一娘。カビ米の件だが・・あれは区家の仕掛けた罠だった、、と、これは言ったか・・」
仕事絡みの話題だった。
「それは知っていたな・・区家は軍隊の食糧にまで手をつけていた事が発覚して陛下が激怒されている。靖遠候はその為に仲間を切り捨てなければならなくなった」
「それは良かったです。この件カビ米から始まりましたが単に朝廷の争いだけではなく旦那様は徐家を守られました。逆に言えば、旦那様は陛下をお助けして逆臣を粛清されました。事は社稷に関わっています」(社稷=広い意味での国家)
令宣が遭えて説明せずとも十一娘がこの黴米事件を単なる徐家の災難としてだけ捉えず鋭く総括しているところに感心した。
「都の難民達の手配がまだ出来ていない。この機に乗じて邪魔をする者が出てくるかも知れない。ところで最近よく外出しているようだが、何かあったのか?」
(仙綾閣で難民の女性達に刺繍の手ほどきをしている事を旦那様に打ち明けようか・・でももし止められたら・・)
十一娘は俯いた。
「特にありません。お気遣いありがとうございます」
令宣は十一娘との距離を縮めた。
「よく出掛けるなら、武芸に強い万大顕を護衛に付ける。万が一があってもお前を護れる」
(どうして私にこんな事を?もしかして仙綾閣の事がバレたの?本当の事を言ったらどうなる?)
「ありがとうございます。・・旦那様、実は私・・」
その時
「旦那様!」
声をかけてきたのは喬姨娘だった。
たまたま通り掛かったら令宣と十一娘が親しく話しているではないか。
二人の距離は近く令宣は十一娘だけを見ていた。
激しい嫉妬心に駆られた蓮房が礼儀も弁えずに割り込んで来た。
「旦那様、奥様・・今大奥様にご挨拶して来たところです」
相変わらず大夫人孝行を宣伝するのは忘れない。
「わたくし旦那様にお話があります・・」
十一娘を無視して令宣にだけ視線を定めた。
「それでは私はこれで失礼します・・」
簡単に引く十一娘が恨めしい。
喬姨娘は彼女の後ろ姿を見送る令宣の前に立ちはだかり視線を強引に遮った。
「旦那様、今日は何の日かお忘れですか?」
去って行く十一娘に気を取られていた令宣には何の記憶もない。
「何の日だ?」
喬姨娘は拗ねた声を出した。
「やはりお忘れなのですね。今日は蓮房の誕生日です」
「ああ、すまない」
「蓮房がお食事を用意しますので旦那様に来て頂きたいのです」
「悪いが一人で食べてくれ」
その気のない令宣はそのまま立ち去ろうと後ろを向いた。
「旦那様!」蓮房は食い下がった。
令宣の袖を掴んだ上に離さなかった。
そして甘えた声で再び訴えた。
「蓮房が徐家に嫁いで来てもうすぐ二年になりますが蓮房はずっと一人で寂しいです。
先程大奥様から誕生日の事を言われ、旦那様に来て頂くようにとおっしゃいましたし・・私は」
行きたくはないが、令宣は基本的に親に忠実だった。
前に母から令宣が妾に冷た過ぎると注意を受けた事が頭を過ぎった。
妾達は令宣だけが頼りだとも。
永遠に冷たくしてはいけないとまで言われた。
令宣は内心ため息をついた。
「分かった」
「良かったです!これから準備致します!旦那様のお越しをお待ちしております」
粘り勝った蓮房はいそいそと離れて行った。

庭石の陰からその様子を伺っていた人物がいた。陶乳母である。

その夜、陶乳母は使用人達の部屋の前で下働きの少女を待ち構えていた。
喬姨娘の部屋を見張らせていたのだ。
少女が帰って来ると勢い込んで尋ねた「どうだった?」
「旦那様は喬姨娘の部屋に一時間以上居ました」
「それで?帰ったの?西袴院のほうへ?」
「半月畔に戻られました」
「ああ~もう何て事だ。折角旦那様と奥様が仲良くなったと言うのに数日でまた元に戻るなんて~」
あの呑気者の奥様に任せておいたら、喬姨娘に先に子供が出来かねない。
そうしたら奥様はもう終わりじゃないか。
喬姨娘には大奥様の贔屓だけではない。
喬家がついている。男子が生まれれば大奥様と喬家の後押しで奥様は追い出され蓮房が正室に成り代わる事だってありうる。
そうなれば諄様は世子の座から追われてしまう。
駄目だ駄目だ。
奥様はどうでもいいが、諄様だけはお守りせねば。
陶乳母は危機感を募らせた。
「だめだ、だめだ、大変だ。琥珀からは最近報告が来ないし・・そうだ、やはりこれは羅大奥様に知らせなければ!そう、知らせないと!」

陶乳母が気を揉んでいる頃、半月冸では臨波が令宣に茶を煎れていた。
「今日、遠回しに十一娘に仄めかしてみたが、仙綾閣のこと依然として口をつぐんでいた・・道理に通じない人ではないのに。難民に刺繍を教えていること、どうして正直に言ってくれないんだ。反対などしないのに・・」
「まだ言ってるんですか?逆に考えたらいかがです?」
「逆にとは?」
「候殿が既に知っていると言うことをどうして奥様に言わないのですか?
言わないとまるで奥様には伝わらないし、奥様の考えを知りたければ二人で話し合えばいいんです。
一つだけ言える事は奥様の心を知りたければ、まず候殿がご自分の心を打ち明けないといけませんよ。
でないと、今奥様との間にある見えない壁は永遠にそのままですよ」