「困った教師」と官僚主義(2007年8月3日,教育失敗学から教育創造学へ)より


 教育現場しか知らない教師から見ると、行政というところは官僚主義お役所主義の固まりのように思えてしまうかもしれませんが、行政から教育現場を見ると、これがなかなかお役所主義的な部分をかなりもっています。
 現場も行政も信用できない一般の人は、その原因を解明して、安心して子どもを預けられる教育をしてほしいと願っているかもしれません。
 ただ、安易な解決方法・・・最も手っ取り早いのは、カリスマによる支配ですが・・・は、より大きな犠牲を強いることになる場合があるので、結論を急がないでほしいですね。冒険主義ラジカリズムのような非日常の理想郷を求めることではなく、日常の中の現実を見すえ、問題の本質を探らなければなりません。
 一見合理的に思えた「実力主義」「成果主義」は、評価のコストが高くつきすぎるなどの問題があり、教育現場で活用するには十分な知恵や配慮が必要です。学力調査の問題性は教育ブログで話題になっていますが、これは別の機会に考えることにします。


 さて、現場の教師ですが、校内では最大で5つのセクトに属しています。
 教科学年分掌部活動組合です。(実質的に1つのセクトにしか属していない教師もいます。)
 小学校では、ここに学級という一人しか構成員のいない困ったセクトも存在します。
 普通の小中学校では、学年セクトが最も強力です。それは、移動教室などの行事を運営するためにプロジェクトとしての機能が必要だからです。ある学年だけ特別なことを実行しようとすると、他学年からストップがかかったりします。他に、教務部と生徒部(生活指導部)がいがみあうこともあります。高校では、教科セクトが強くなります。
 それぞれのセクトでは、自己の利益を主張する場面があり、行政と同じ図式になることがあります。
 規則や慣例をたてに、プロジェクトの邪魔をする教条主義者、やるべき指導・監督をおこたる事なかれ主義者、ころころと主張を変えるご都合主義者、カリスマをたよる権威主義者、機嫌取りばかりの事大主義者、新しいことだけにやけにはりきる冒険主義者、担任のクラスや受け持ちのクラブの都合しか考えないセクショナリスト、細かいことばかりにこだわって水をさしてばかりいる瑣末主義者、前年度のまるうつししかしないマンネリスト・・・1校当たり、それぞれ最低1人ずつはいるのではないでしょうか。そういう教師ばかりなんていう学校はないでしょうか。


 ただ、官僚制のもとでは、教師たちのそのような行動は必ずしも「困ったもの」ではありません。だからことが進む、という判断の結果であったりします。官僚制は非効率の面ももちながら、大きな不公正や失敗を回避するよさももっています。
 「お役所仕事」という言葉のニュアンスはマイナスのイメージが強いわけですが、そこには確実で公正な仕事という当たり前のプラスの価値が隠れていることを認識すべきかもしれません。


 以上のことをふまえて、学校教育で最も大きな課題は、「十分な学力を身に付けさせていない」ことでしょうか。
 官僚制を、「与えられた目的を遂行するために組織された、権限と責任が明確にされた専門職のシステムのこと」と定義づけすると、学力をつけるという学校の最大の目的、その権限とは何か。責任とは何かを明確にしなければなりませんね。また、そのための学校という組織に課題があるとすれば、それをどうしなければならないか、追究する必要があるということです。

 グローバリズムは思想ではなく世界的な潮流,経済的・社会的な実態(実体)であり,ここで語るのにはふさわしくなさそうな言葉ですが,たとえば外国語学習がどのような根拠で学校教育のカリキュラムに入れられているのか,などというテーマとからめて考えることはできます。


 それでも,「英語を苦労して学んだが,全く活用する場面がないプンプン」という大人が少なくない(私自身も今のところ,全くその通り)ことも事実。


 どのような説明が成り立つのでしょうか。


 小学校の英語学習は必要なのか,というテーマにもかかわります。


 私の個人的な解釈は,外国語=「コミュニケーション練習のためのツール」であり,「コミュニケーション能力を高めること」が,その学習のねらいである,ということです。


 なぜ日本語ではだめなのか?・・・という当然の疑問がわいてきます。

 

 その答えは,「グローバリズムという流れに乗るため」・・・ではありません。


 村上龍の「無趣味のすすめ」(幻冬舎)に,こんな一節があります。


 不可視の流れであるグローバリズムのうねりに単に「乗ろう」としても,地図も海図もないのでやがては振り落とされて沈んでしまうだろう。

 グローバリズムに適応するときにもっとも重要なのは,言うまでもなくコミュニケーションだと思う。

 (中略)<友人とは密に,敵とはもっと密にち,彼(父親)に教わった>

 映画『ゴッドファーザーPARTⅡ』におけるマイケル・コルレオーネの台詞だが,シシリーから新大陸にやってきた「ビジネスマン」の言葉として受け取ると,示唆に富んでいる。


 自分の本当の言いたいこと,伝えたいことを表現するときには,やはり母語に頼るしかありません。


 しかし,日本の文化には,以心伝心という「美徳」があり,わざわざ「言わなくても伝わることは言う必要がない」ことを認めてしまう一面があります。

 

 問題は,これがグローバリズムの潮流からは振り落とされる可能性のある「ウィークポイント」になっており,「簡単に誤解する(される)」「真意をはかれずだまされる」結果を招く原因になっているということです。


 相手が自分の期待通りのことを考えてくれているというのは世界の常識ではなく,むしろ非常識な行動であると考えてよいでしょう。「何も考えていない」というのが「美徳」と勘違いされる珍しい国でもあります。

 教育の世界にも,これに似た「ご都合主義」が蔓延しており,「説明不足」「閉鎖的」という癖がどうにも抜けません。


 子どもたちには,「日本語で(表現するの)は恥ずかしい」ことも「外国語では恥ずかしがる必要がない」という意識を徹底的に植え付けてもらいたいのが小学校英語であり,それを受けての中学校英語も,「当たり前のこともあえて言葉で表現する」ことが苦にならないように工夫してほしい教科になります。


 担任教師による道徳や特別活動等による「学級経営」だけでなく,教科担任の教科指導による「学級集団経営」も,「よい学級集団づくり」には欠かせない営みであると私は確信しており,その筆頭として中学校では音楽保健体育を重視していましたが,ここにはっきりと英語も加えることを宣言しなければなりません。


 なお,新しい学習指導要領では「言語活動の充実」を重視していますが,単に論理的思考だけでなく,コミュニケーションや感性・情緒の基盤になるものとして,「言語に関する能力を高めていくことが求められている」としています。

 昭和30年に発行された中学校の社会科(歴史)教科書が手元にあります。


 この教科書には,


 「社会科がどのように変わることになったのか


 「どのようなきっかけで変わることになったのか


 「残そうとしたことは何か


 がよく分かる「あとがき」がありますので,引用しておきます。


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      あ と が き

     (PTAの方々へ)


 本書は,中学生諸君が,歴史を学習する際,座右に置くものとして編集してある。内容は,中学生の能力に応じた教材を選び,これをその興味に適合するように配列し,特に,自発的学習に重点を置いた。大筋として,系統的な日本史の知識を中心とし,これに世界史の流れを配してあるが,生徒が自ら考えるように,多くの問題を配した。PTAの方々は,この点に留意せられ,一つの挿画がなぜそこにあるかということまで,生徒の興味を触発していただきたい。全体の構成は,時代を追っているが,巻頭と巻末を比較すれば気づかれるごとく,遡及式の学習も,大いに歓迎する所である。


            著  者


 『中学の社会科 歴史的内容を主とするもの』(昇龍堂出版)216ページより


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 キーワードは,中学生の「能力に応じた教材」「興味に適合」「自発的学習」です。


 社会科成立時の理念を引き継ぎながらも,「系統的な日本史の知識を中心」とした教科書が誕生しました。


 これは,当時の世論の影響を強く受けたものであることが分かっています。


 今の教科書でも,,「PTAの方々へ」・・・これは「保護者の方々へ」が正しいのでしょうね・・・というメッセージが入れられたら斬新でよい感じですが・・・。しかしおもしろい「あとがき」です。


 保護者に「興味を触発」する任務を課す?ことができた時代だったようです。


 ただ,内容や構成をみると,今の系統主義的な教科書とほとんど同じなので驚きです。


 「まえがき」で,「読みだしたら,一気に読み終えずにはおられないよう,なるべく興味ぶかく書いたつもりですが,そこここに,研究してほしいと思うことがらがありますから,すみずみまで,ていねいに読んでもらいたいと思います。」という一文があります。「が」の前後がうまくつながっていないことが気がかりであるのと同時に,「研究してほしいと思うことがら」というのも気になります。


 上記の教科書の章末にある「整理」「研究課題」は,今の歴史学習でも参考になりそうなものがありますので,別のブログ「学習失敗学から学習創造学へ 」で紹介いたします。

 昭和22年(1947年)に「試案」として示された学習指導要領の第1回改訂は,昭和26年に行われました。


 昭和26年(1951年)の「新学習指導要領」では,


 ○ 経験主義教育思想で一貫した教育課程編成原理を示したこと


 ○ 「社会科を中心教科とする」コア・カリキュラム的な構成であること


 などが特色となっています。


 しかし,当時の世論調査で「社会科批判」が厳しいものとなり,早くも昭和30年には社会科のみの部分改訂が行われました。この時期が,「経験主義から系統主義へ」のターニングポイントになっています・・・というが,戦後の混乱期にスタートした経験主義教育が国民の信頼を得られずにあっという間に消え去った・・・という印象が強い出来事でした。


 当時の保護者の声は,○○も知らない,××も知らないでは困る。社会科は何をやっているのか。

 早く修身や地理,歴史に戻してほしい・・・というものでした。


 今回の学習指導要領の改訂と似たような反応ですが・・・。


 経験主義教育思想家は,「問題解決学習」を重視するのですが,ここでの「問題」が「問題」の一つだったわけです。


 アメリカで経験主義と言えばデューイですが,アメリカ教育界における経験主義への反省を,実は日本が先取りしていたとも言われています。昭和32年(1957年)のスプートニク・ショック後,アメリカの教育も変わりました。


 問題解決学習が全く役に立たないものであるとは言いませんが,それは「家でもできる」こと,実際の生活の中で学ぶことなのです。


 何も系統主義教育100%にする必要はありませんが,教科書も上手く使えないほどの経験主義教育は,教師の方もNOと言わざるを得なかったようです。

 ビジネス書を読むと,たとえば楽天の三木谷社長の『成功の法則 92ヶ条』(幻冬舎)の中には,「社員全員が経営者意識をもつ」という「条文」が掲げられています。


 学校に当てはめて言えば,「すべての教師が管理職と同じ意識をもつ」ということになるのでしょうが,これはほとんど不可能な相談かもしれません。


 企業だと,いい成績を上げたりすると,昇進や昇給が見込めるのでしょうが,教育公務員にはこういう仕組みがありません。ただ経験年数が増えていくだけで給料は増えていきますし,年収を増やそうとしたら,給与体系が異なる管理職になるしかないのです。


 しかし,給料を増やそうとする目的だけで管理職を希望し,試験を受ける人はまずいないでしょう。・・・というか,それだけの話なら,ますます教育現場への信頼が揺らいでいきます。


 もともと学校現場への成果主義の導入は,高いパフォーマンスを示している人に給与面で優遇を,そして課題が多い人には・・・という発想は確かにあったでしょう。


 そして現在の人事考課制度では,ごくごく一部の教師に,それが適用される場合があります。

 ただ,それは人数も昇給の程度も企業とは比較にならないものであって,そもそも教師は全体として給与が高めに設定されていることに,非難が集中してきそうな「恐れ」を勘のいい人なら持っているはずなのです。


 成果主義の導入に反対している人の気持ちもわからないではないですが,今のような各学校単位の話ではなくて,教育界全体にそれが適用されることへの漠然とした不安が,いつか本当の怖れに変わらないことを祈っています。


 話がそれたような,本筋に入ったような,変な流れですが,最初の話に戻ると,学校現場の管理職が,どういう意識をもっているのかというが,そもそも公立学校では不明である,・・・という問題も浮上してきます。


 実はそこが公立学校の最大の弱点だったのかもしれません。


 中学校では,管理職は完全に先が詰まっており,「便秘状態」が続いています(なりたくてもなれない)が,団塊の世代の一斉退職後は,「飢餓状態」が訪れる(なり手がいなくなる)危険性が指摘されています。


 もし一般の教師たちの資質・能力に対して,一定の責任を管理職が負うことになるとすれば,公立学校にとってまさに本物の危機が間近に迫っているといえます。成果主義どころの話ではありません。