今日から10日連続で連載始めます。
5/11㈭にshibuya O-EASTで開催するVIVA YOUNG! スペシャルに関連して、VIVA YOUNG!の主宰者である私・クラヤマンVIVA YOUNG!について初めて主観的にあれこれ語ってみます。
第1夜:VIVA YOUNG! 事始め
1994年11月23日(祝)
今から23年前のこの日、下北沢のCLUB Queで、
DJ市山クンの選曲で踊る客が溢れる中、
マーブルダイヤモンド
エバーレディ プレイシングス
フェイブレイブス
ザ・ディーズメイト
このラインナップでVIVA YOUNG!は始まりました。
最初はMODテイストのイベントを志向していました。
実は言い出しっぺで企画者・主宰の私クラヤマンは、
当時東京MODの波をザブと受け、
ここに集まる人達やそこに流れる音楽、
ファッション等にかなりイカレてました。
この1994年、もっといえば1990年あたりが最高潮だった気がしますが、The Hairのメジャーデビューが決まった頃ですね。(最終的にはあれこれあってメジャーでの活動は無かったんですが…)
このシーンの動きがどのジャンルよりも、
東京のヒップだと感じていました。
もともとは私のバンド・マーブルダイヤモンドの活動の場を広げ、力をつけるために始めたVIVA YOUNG!は、当時から私がバンドをブッキングして、企画内容が確定してからライブハウスに持ち込んで開催していました。
当時マーブルはR&B+GS+サイケ+MOD+和田アキ子のテイストで活動していました。
*1992年リリースのマーブル・ア・ゴーゴー!!
面白いものは ど真ん中にはない
しかし、マーブルダイヤモンドは和のテイストやアッコ風味は残しつつも、最終的にはハードコアパンクバンドの形を志向して行く事になります。そのあたりは今後の回で書きますが、バンドの変化によってVIVA YOUNG!の内容もどんどん変わっていきます。時代を追って新ためて見て行くと、本当に様々なジャンルのバンド達が顔をそろえている事に気がつきます。これも後述していきます。
さて、一見節操のないブッキング、時代によって売りの軸が変わっていくように見える。それはなぜか。
移り気とも、MOD感覚とも言えますが、
「私にとって面白いものは、その時代のど真ん中にはない」という想いが、小さい頃から自分の中にあります。
しかもこれには註が付くのですが、「ただ、私の興味はその時代に皆が躍起になっている近くにある」のです。
VIVA YOUNG!は私から見て時代の真ん中、多くの人から注目を集めるコトやモノ・ヒトの近くにあって、そこから若干ズレた所を目指すのです。
つまり、VIVA YOUNG!は一見内容やブッキングは絶えず時代の気分によって刻々と変わって行く。ただ、私が実際に行う枠組みや、組み立ての基本は変わらないのです。
バレーボールとDOLLと
遡って昔話を2つします。
ちょっと付き合って下さい。
私は静岡県の伊豆地方出身です。小学生達の人気のスポーツと言えば野球、もちろんサッカーです。でも私はバレーボールを選びました。それはもう夢中でした。
ただ、静岡の男子の人気スポーツからは外れています。
しかし、小学校5年生時の1977年に、バレーワールドカップがフジテレビ系で放送され、男子が銀メダルを取ると私の周りの少年達も、世間もバレーは一躍大ブームになりました。もっというとバレーボール男子は、72年のミュンヘンオリンピックの金メダルを取ったあたりから、実写+アニメの番組になるほどに注目されたスポーツだったのです。
でも、バレー部員が飛躍的に増える事も、
同じ地区でチームが急増する事もありませんでした。
世間の中心はやはり野球・サッカーで変わりませんでした。
もう一つ。
2009年までDOLLというPUNK雑誌がありました。
私が初めて手にした1981~82年ごろはまだ隔月刊で、アンダーグラウンドのバンドやインディーズというよりも、自主制作レコードを作って売っているバンドの情報が満載だった、という記憶があります。
当時テレビは取り上げないものの、他のメディア・特に感度の高い紙媒体(一部のァッション誌・マンガ雑誌・週刊誌など)がいち早く取り上げていた、新しいタイプのバンドが世間的に話題になりつつありました。
そんな中、私も好きになっていったバンドが、アナーキー、ARB、ロッカーズ、ルースターズ、モッズ等々でした。
DOLLにはこうしたバンドの情報や、広告も普通に載っていたため、その記事を目当てに購入を始めました。
これを地元の書店で見つけた私は、この雑誌に夢中になります。
上記のバンドの情報はもちろんの事、それ以外にもっと多くの、見た事もない聞いた事もないのに、非常に興味をそそるUKや、東京のアンダーグラウンドのバンドの情報が満載だったからです。雑誌掲載の広告で即、DISCHARGEの『FIGHT BACK』のレコードを通販で買いましたしました。
ただやはり、私の周りには、DOLLの話題も、UKや日本のハードコアバンドの話題も殆ど沸き上がりませんでした。
多くの人が気になったり、
人気を集めている事柄の中心から、
ちょっと横、ちょっと端っこ、またはもっと奥の方、
もっと軸をずらしたあたり。
まったく知られていないわけではないが、
多くの人はまだあまり知らない。
どうしてもそこに気持ちや、
興味・関心が行ってしまう。
それを止められない私のクセ・質なのです。
それがVIVA YOUNG!のベース・背骨にあります。
1991年の東京のライブハウス
現在、30代後半より上の方は、覚えている人が多いと思います。1989年からTBS系列で放送されていた『三宅裕司のいかすバンド天国』の事を。
すごいスピードで一気にバンドブームが世間を席巻していきます。当時大学生でバンドサークルにいた私は、バンドが話題になる事や番組になる事は嬉しかった半面、世間が騒げば騒ぐほど興味が失せていきました。
一方で普通にライブハウスで自由に活動しているバンドや、アンダーグラウンドで独自路線で面白い活動をしているバンドが好きで、よく見に、騒ぎに、踊りに行きました。
しかし、1990年頃には、イカ天に出演して客を増やしたイカ天バンドが、ライブハウスの出演枠を侵食し、私の好みのバンド達の活躍の場所を隅に押し込み、小さくして行きました。
そして、番組が1990年の12月で終了した翌年1991年。
ライブハウスはそれまでの騒ぎが夢だったように、そのブームに絡んだバンドも客も話題も一気に消え去りました。
何やらお祭り騒ぎだった街が、いきなり砂漠になっってまったかの様でした。
音楽ムーブメントの様でいて、
結局は実は流行りの動きの一環だったんです。
音楽の流行はクラブに移りました。
JAZZ、アシッドジャズで客を躍らせるDJチームや、
HIPHOPのシーンに客が集中していきました。
本当に根こそぎやられたっていう感じでした。
バンドやろうぜ!
ただ、そんな砂漠のようなライブハウスの状況の中、
オモロくて、興味深い、ナイスなバンドのいくつかはしっかりと生き残っていました。もちろん数は少ないのですが、確かにギラリとそこにいました。
小滝橋にあった新宿ロフトは、それでもビックネームが出演したりして一人気をはいていましたが、新宿JAMや新宿アンチノック、下北沢屋根裏など、もっと小さい小屋ほど、消えない炎が脈々と燈っていました。
小さくなってしまって、世間の目は離れつつあるけど、目の前にはこっそり宝物がしっかりと生息していて、そうした音楽が私に手招きしていました。
まさしく私の性がムクムクと頭をもたげ始める、ワクワクするような状況がそこにはあったのです。
「側道を本道だと勘違いして、猛スピードで駆け抜ける」と言ったのは先輩のスマイリー原島さんですが、まさしく私もこんな気持ちで、ワクワクしながら全速力で音楽活動を本格化し始めたのです。
「バンドやろうぜ!」はバンドブームの時に宝島から出た雑誌でした。でも私はブームが終わった時にこそ、「今こそオモロイやつは、バンドやろうぜ!」と思いました。そしてその感じがアンダーグラウンドに息づいて、新たな時代をまた創って行ったたんだから、若者の勢いっていうのはコワイです。
こうしたあれこれがVIVA YOUNG!を始める背景として、1990年近辺に東京にあったのです。
また明日。



