うおっほん、と大きなクシャミの音がする。
午後の静かな室内に、響き渡る。
そこにいる老人たちは、不快な顔をする。
「大きな声ねえ」と、あからさまに不快を表した女性は、105歳になったばかり。

うおっほん、とまた大きなクシャミ。
父親も、その大きな音のほうに顔を向け。
「どの人だろう」

クシャミは収まり、また静寂が戻る。
認知症というと、どうもピンとこない。
ボケという言葉が失礼かどうかわからないが、私にはこの言葉が温かい。
小ボケ、中ボケ、大ボケ。
ざっとこんなふうに分かれる。気がする。
そして、その方々はさまざまな様子で一日を過ごす。

うちの父はおそらく、この中にあっては中ボケくらいか。いや、小ボケかもしれない。
まだ人と接触を試みる。
おおと片手を上げ親愛の情を示す。
それが受け取ってもらえるかは別だが。

ずっと何も言わずにただ座っている人も多い。
何かぶつぶつ言いながら、ただ座っている人も多い。
同じテーブルで、一人が何か言いながら、もう一人が何も言わず一緒にいる。
同じ席で同じように、いる。

部屋にこもりっきりの人もいる。
オヤツをさささと食べ、すぐに引き上げる。
一言もない。

車椅子で、同じ方向を見ている数人もいる。
その間を分け入って、食べ物の介助をするスタッフ。
時は、静かに流れる。
時も、静けさも、いわゆるシャバのそれと同質とは思えない。
それを思うと胸がきゅんとする。
どうしていいか、どう考えたらいいか、わからない。

なので、ただ父親の手を温める。
その目の奥を覗く。

コロナ明けで出入り自由になった、ホームの食堂兼居間。
そうか、父親はここにずっといたのだなあ。
この「静けさ」の中にいたのだなあ。
涙が出そうになるので、あわててまた手を温める。