回転寿司やうどん屋さんやでの「テロ」行為。
こりゃ、まあ、なんといっていいか。

食べ物を大事にしなさい、とか、他人の迷惑を考えなさいとか、そんな言葉が全部宙に浮いてしまうような虚しさ。
そんなこと、当人たちだってわかってるに違いないのだ。

じゃあ、なんなんだこの行為は。
この出口のないさもしいエネルギーは。
醤油ビン(今はプラスチック)を片手に、口に入れた寿司のあと、それを流し込む映像など、怒りとかを超えて、寒々しく、悲しく、そんなことをした本人も周りも、きっと誰一人幸せな気持ちになどならないことが想像できてしまう。
砂をかむ、という表現がいいかどうかはわからないが、じゃりじゃりと飲み込めない気持ちが湧いてくる。
彼らが食べているのは、寿司じゃなく砂だ。

だから、どこまでも暗い絶望感がつきまとう。
生まれた時代、生きている時代。時代のせいになどできないけど、やはり時代は、この若者たちを産んでいる。
ますます締め付けの厳しい学校現場や、コロナや、家庭や、八方ふさがりにも見えるこの国の状況や。

食べ物にも困る時代だってあったよ、とその時代を生きた人たちは憤慨するが、それは説得力を持たない。
若者に、時代はつねに「今」しかない。


そうかと思うと、ネットの買い物情報で、ヤクルト1000が3000円を超す値段で売られている。
見間違いかと思ったら、そうじゃない。
たったの7本での値段だ。
ちなみに、母親のところに毎週来るヤクルトさんは、正規値段で、1本あたり130円くらい。
この頃、それを飲んでいるが、それまでのヤクルトと違いもわからない。
睡眠もストレスもお腹も、同じ。
違うのは、量が多いこと。

いやいや効能はどうでも(効き目は人しだいだろうし)この値段で売るという構造がさもしい。
需要と供給のバランス、と言われればそうだが、やっぱりさもしい。

こうして見渡すと「さもしい」ことばかり。
昔、人形劇だかで「さもしい浪人さもじろう」ってのがいたなあと思い出した。
知ってる人いるかなあ。