「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」という短編小説があります。
宇野浩二という人の作品です。
中学生の教材になっているらしく、教育研修などで利用されているようです。
引用します。
聞く地蔵と聞かぬ地蔵
(岡崎市教育委員会ホームページ)
昔々、ある村にどこからともなく現れた老僧が、荒れ果てたお寺にこもってコツコツと何かやっていましたが、ある日村人を集めて言いました。「ここに2つのお地蔵様ができております。この1体は、村の西のはずれの峠道に、もう1体は東のはずれの峠道に立てなさい。そして、東のお地蔵様は願いをかければ、なんでもたちどころにかなえて下さいますが、西のお地蔵様は願いをかけてもなかなかかなえてくれません。しかし、皆は西のお地蔵様に参ったほうがよいぞ」そう言ったかと思うと、老僧はいつの間にか姿を消していました。
これを聞いた村人は、お参りなさいと言われても、願いをかけても、すぐにかなえてくれない西のお地蔵様にお参りするものはなく、先を争って東のお地蔵様にお参りしました。「病気を治して……」とか「金持ちに……」と願いをかけると、たちどころにかなえられるので、村中の人が競争でお参りするようになりました。1年・2年と日が経つにつれて、村中皆金持ちになり、病気の人は1人もいなくなりました。
ところが、村人達の欲望はエスカレートする一方で、「私を村一番の金持ちに……」「村で一番立派な家を建てて……」とみんなが願いをかけるので、村中金持ちだらけになって、誰も汗水流して働く者はいなくなりました。そのうちに自分だけが幸せになりたいと「誰を不幸にして……」「誰を病気にして……」「誰の目を見えなく……」などと、そんな願いをかけても、東のお地蔵様は即座にかなえてやるので、だんだん貧乏な人が多くなり、病気の人が増えて、村はすっかり荒れ果ててしまいました。
そんなある日、いつかの老僧がひょっこり村に現れて、「それ見なさい。だから私が最初に言ったように、願い事を聞いてくれない西のお地蔵様に参るがよいぞ」と言ったかと思うと、また姿を消してしまいました。
西のお地蔵様は、願い事を聞いて下さるわけではないので、村人はお参りしてもただ拝むだけでした。そして、村人は勝手な願掛けをやめ、欲張るのをやめて皆一生懸命働くようになりました。やがて村は、、もとのように平和な村になったということです。
創価学会では、よく折伏のときにこんな言い方で相手を入信させます。
__願いとして叶わないものはない。どんな病気でも貧乏でも、悩みは解決する。
病気や貧乏でどん底にいる人は、ワラをもつかむ気持ちで入信する。
そして、初信の功徳をもらい、信心に励むようになる。
しかし、中には、どんなに信心を頑張っても悩みが解決しない場合がある。
あるいは、末期のガンで、本人や周りの人が何時間も題目をあげたのにあっけなく死んでしまうこともある。
その時に、ご本尊に怒りをぶつけて信心を棄ててしまう人もいれば、亡くなった人の成仏を信じて、信仰心を強める人もいるでしょう。
私自身、悪性度の高いスキルス胃がんと診断されたとき、ご本尊に真剣に祈りました。
幸い手術は成功し、ご本尊に感謝していますが、たとえ手遅れで死期が早まったとしても、ご本尊を恨むことはしなかったと思います。
願いをかなえてもらえないとご本尊を恨み、「何の効力もない題目」などという人は、何か勘違いをしているのではないかと、私には思えるのです。
ご本尊さまを、「東の地蔵」と同じように考えて、なんでも祈りをかなえてくれるとでも思ったのでしょうか。
そんなはずないでしょう。
__願いとして叶わないものはない。どんな病気でも貧乏でも、悩みは解決する。
そういって入信させる創価学会も良くないのかもしれませんが、そこは宗教の持つレトリックなのです。
ご本尊といっても所詮は文字を書いた紙きれ。
非科学的な奇跡など起こせるはずがありません。
しかし、そこに日蓮の魂が込められているという物語を信じ、真剣に祈るとき、心のざわめきがおさまり、問題に正面から立ち向かう勇気が湧いてくるのです。
以前、こんな記事を書きました。
みーちゃんが教えてくれた体験談(2021-08-22)
祈っても祈っても病を克服できなかった場合(2021-08-23)
祈っても祈っても新たな困難にぶち当たることもあります。
それでも、さらに祈って挑戦していく勇気を与えてくれるところに、この信仰のだいご味があるのではないでしょうか。
誤解を恐れずにいえば、私たちの信仰の対象は、どちらかといえば「西の地蔵」と同じです。
プラセボ効果を超えるような奇跡を起こしてくれるわけではありません。