先ず、実はアマ小説の読者様に教えて貰い、動画拾って見た2017年放送の「ウソでしょ ヒストリー」2分弱見て2点ツッコミたい。
2017年なのでリアルで見た方は内容覚えてないと思うんですが、1点目は蘭丸の肖像画と紹介されていたのは明治頃に描かれた単なるイメージ画。
もう1点は小姓の美白を守る為に従者が傘を差すという話。
これは小草履取り(調べてみて下さい)の話だと思います。
バラエティーの歴史系番組って結構適当な事言ってますからね。
戦国鍋と戦国炒飯
戦国鍋はリアタイでは見てないんですが、YouTubeで見ました。
信長と蘭丸の関係が何となく分かる。
鍋では、まだ薄い感じ。信長蘭丸入門編って感じかな。
細かく突っ込めば歌詞に誤りはありますが。
「長の一字を頂いて森長定と名乗ります」は、間違いです。
長定と言う名は蘭丸死後、森家が付けた名と思われます。
炒飯では「うつけ坂49」っていうのが出てきますが、かなりマニアックな史実を何となーく意識してる気がします。
(黒い小姓の歌詞は初心者向けの内容です。)
先ず天下5は蘭丸だけが現役の小姓で、その他大勢は本能寺で討ち死に小姓というメンバー
本能寺討死小姓達は殆んどが年齢未詳、でも恐らくルイス・フロイスの記述からすると十代。哀れ。
そして金森義入、信長公記は○○家本と何冊かありますが、そのどれかでは二条城で討死となってるらしい。って事は彼は信忠の小姓だった可能性もある。池田家本、ネットで見れるから見てみようかな。
名字から恐らく、誰それの縁戚と知れるぐらいで森兄弟以外の小姓達については良く分かっていません。

うつけ坂のトークって歴史と関係ないじゃんと思いがちですが、人間関係と成り立ちでマニアックな史実を入れてるような。
蘭丸と利家の仲が良い理由は触れられてましたが、スパイは誰?
普通に考えたら久々利亀の筈ですが、種田亀が怪しかったような。そこは史実とは違うんかな。あれ、久々利亀は始めから蘭丸派閥だっけ。
久々利亀は美濃の久々利城主の一族なので森家の与力で金山(岩村?)城主となった蘭丸の家臣扱いになります。
因みに本能寺の変後、久々利は森を裏切り、久々利家は兄の長可に殺られてます。
うつけ坂の成り立ちドキュメンタリーでは後から入った蘭丸が堀を押し退けセンターという点が史実かな。
史実で、堀が蘭丸に押し退けられたとは一概には言えないと思うんですが、そう捉える人もいるようです。
センターとは例えるなら信長の一番側という立ち位置。
堀は蘭丸より13歳も年上で武将としても幅広い活躍をしているので信長から離れて仕事をする機会が多かったとも取れます。
但し、祿高という点でも蘭丸は堀を抜いて近習トップに立ってますから、信長の心のセンターを蘭丸が占めていた事は間違いないでしょう。
但し、これはワンマン信長の独断と寵愛によるもので蘭丸は堀には実績では及びません
鍋と炒飯って意外と凄いですね。
緩く何となくなので厳しいツッコミ所が意外と無い。
あ、でも小姓と全員寝ていたというのは流石にないかな。

うつけ坂の中で薄田与五郎、大塚又一郎、落合小八郎は馬廻り衆なので年齢は史実では高めではないかな
拾阿弥を敢えて入れたのは利家とバトルさせる為かも。

「蘭丸は信長から小姓として重用されながらも、与えられた領地はわずか近江国内に500石しか与えられなかったという(『尊経閣文庫所蔵文書』)。」

五百石貰ったのは1581年の17歳の時です。

前の文で、「蘭丸の初見史料は天正7年(1579)4月のもので、信長から摂津の塩川長満のもとへ使者として派遣されたことが記されている」と書いてるのに。15歳の時には働いてます。

17歳になるまで無綠だったとでも言うのでしょうか?

③織田家の男達の男色事情(蘭丸への依怙贔屓)

で上げた織田武鑑
本能寺で討死の小姓のうち、蘭丸除いて誰が一番石高が多かったか
狩野又九郎2千5百石
小川愛平 2千石
後は千石くらいで、恐らく新参小姓の初任給は千石くらいなんじゃないでしょうか。
蘭丸が17歳で500石加増される前は数千石は貰ってたと思います。
五万石で上書きされてるので、その前の石高が分からないだけでしょう。
後は、「蘭丸は、信長の寵愛(ちょうあい)を受けていた。一説によると、蘭丸は信長と衆道(男色)の関係にあったといわれているが、確固たる証拠があるわけではない。」
これは上手い書き方ですかね。
でも桶狭間の両軍の規模信蘭の男色関係について同じ土俵で語るものではないですから。
男色だの美少年だっただのは、8割の確信が持てれば、そうだったんじゃない?程度で済む内容の話しでしょう。
だって確固たる証拠もない代わりに、男色関係にあったという「記述」がある以上、それを否定する確固たる根拠を示さなければ無かった事には出来ないよね。
それに一次史料に無くても、時代を越えて伝わってしまうものってある訳で。
男色に限らず、例えば書状からは記述者の心情、性格まで浮かび上がってくる。
正確である事は重要だけど、やはり歴史は数学ではなく文学の分野だと思う。

蘭丸の人物像に対して入りは否定的だったにも関わらず、最終的に私が一番納得出来る結論に辿り着いた信長研究の第一人者の谷口克広という研究家?は凄い。

たまにネットで見掛ける「森蘭丸は本当に美少年で信長とはそういう関係だったんですか?」という質問は、私は見なかった事にしますね。だって「知らね○よ」でしょ?
そしてガチムチ男さんとムキムキさん(私が勝手に名付けました)が質問に答えてくれる訳です。
「蘭丸は実はガチムチだったらしい」とww
彼等はそういう質問をする人を腐女子と認定し、夢を打ち砕きたいんでしょうね。
ガチムチ男さん達の気持ちも分からなくはないですけど。
だって蘭丸が好き?なのに、彼の仕事内容や人柄、彼の人生ではなく、ひたすら興味あるのは容姿と下世話な関係の事だけ?って思ってしまうから。
男同士に興味あるだけなのか、男色に対して誤解があって、時代背景も理解してなさそうだし、その人物の一部だけ切り取って、ネットで質問して、誰かも知らない人から男色関係にあったという答えを得れば、それで満足なのかな、とは思ってしまう。

所詮、400年前に確固たるものを求めるには限界があります。
でも、調べていく中で自分なりの確証を得て、こういう人間だったんじゃないか?という像が形作られれば良いのでは?
まあ、私は追求した結果99.5%の確信を得ましたけど。(男色も含めてね)
はっきり言って、男色関係を否定してたら蘭丸という人物を捉える事は不可能でしょうね。
なので、相当の反論は出来る自信はあります。
冷静に考えれば誰でも反論出来ますよ。
何故かと言えば、男色関係と美少年という記述は沢山あるのに、男色関係ではない美少年ではないというのは永久に証明する手立てがないからです。
男色関係と美少年であったにも確固たる証拠は無いって?
でも記述がありますから。否定するならば、それを覆すだけの史料か強い根拠を提示しなければなりません。
蘭丸に会った事がある訳無いんだから。
父兄がガチムチとかいうのは完全に嘘ですよ。
主張するなら一次史料で示して欲しいですね。

私な一次史料ならぬ遺品で父兄弟はガチムチwwでは無かったと示してますけどね。
何故、保守的な一部の主に男性歴史研究家特に蘭丸美少年説を否定したがるのか?まで分析した上で彼等の発する情報を受け止めた方が良いと思います。
所詮、歴史研究家も一人の人間に過ぎません。
その裏にある根強い女性差別から繋がる女々しい男に対する嫌悪感情まで読み解けますから。
後は、彼等が思うミーハーな歴女に神聖な男性主体の英雄達の歴史を荒らされたくないという感情でしょうね。

利家の笄斬りについては、小さな問題や私的な内容であればある程、史料の数は少なく、無い場合もあるので難しい。
前田家史料にしかないから「本当にあったのか?」とも言われてるみたいですが、大袈裟に疑われてる訳でもないみたい。
本能寺の変が6月2日という認識は大事変だから多くの立場の違う人間が記した記録によって明らかな訳です。
どうでも良い事、書く必要がない事は記されない。
笄斬りのような事は利家にとっては大きな事ですが所詮若気の至りで殺したのは茶坊主一人。
笄斬りが本当にあった事なのか怪しいとすれば拾阿弥の正体がイマイチ分からない事かな。

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