1924年(大正13年) - 東京・日比谷野外音楽堂で日本初のボクシングタイトルマッチである、『第一回日本軽体重級拳闘選手権試合』が開催された日になります。

渡辺勇次郎は、旧制真岡中を中退し語学を学び貿易商を志して単身渡米。
サンフランシスコでボクシングの心得のある白人の不良に喧嘩で倒されたことがきっかけでボクシングに興味を持ったのだという。

本格的にボクシングを学ぼうとボクシングジムを物色したが、有色人種差別主義の白人社会では、なかなか入門場所が無く、黒人のターナー師範が経営するボクシングジムに入門することができ、本格的にボクシングを学ぶこととなった。

熱血大和男児の渡辺は、持ち前のガッツでみるみる頭角を現し、1908年にカリフォルニア州にてデビュー。

いきなりメインの4回戦に出場して見事判定勝利を飾る。
勢いに乗って一年半の間に16連勝無敗の快進撃を見せた。

渡辺の人気は高まり、「キング・オブ・フォアラウンド」のニックネームまでついた。

1910年1月にはカリフォルニア州ライト級王者ウィリー・ハッパーに挑戦。

善戦したものの惜しくも判定負けで初敗北を喫する。

負けじ魂に火がついた渡辺は、同年7月に再びハッパーに挑戦し判定勝利した。

異国の地でボクシングのタイトルを手に入れることに成功した。 



1921年、帰国。同年、東京目黒に日本初の本格的ボクシングジム「日本拳闘倶楽部」(通称「日倶」)を創設。

これが日本ボクシングの幕開けとなった。


1922年5月7日、靖国神社境内の野外相撲場でボクシングの興行「日米拳闘大試合」を主催。

それまでプロボクシングの試合は見世物興行のみでしか行われていなかったため、これが日本初の正式なプロボクシング興行とされる。

1926年7月14日に、神田ブラジルにて、「全國学生拳闘連盟」とともに(JABF日本ボクシング連盟の前身)「全日本アマチュア拳闘連盟」の発会式がおこなわれた。

学生連盟の会長は渡辺勇次郎が、アマチュア連盟の会長は大日本帝国陸軍中将の堀内文次郎が就任した。

更に渡辺勇次郎は日本体育協会理事にも就任。

1926年(大正15年)11月27日と28日に、第1回全日本アマチュア拳闘選手権大会を開催した。

1928年アムステルダムオリンピックにはウェルター級の臼田金太郎とバンタム級の岡本不二が出場した。
監督は渡辺勇次郎で、臼田はベスト8に進出した。

1931年現在の日本プロボクシング協会の前身たる全日本プロフェッショナル拳闘協会結成に参加。