1932年(昭和7年) - 第1回東京優駿大競走(現・日本ダービー)が目黒競馬場で開催された日になります。

明治後期に盛んになった競馬には「軍馬改良」という大義名分があった。

1894年(明治27年)の日清戦争。
1899年(明治32年)の北清事変で日本馬が西洋列強のウマに著しく劣ることが明らかになった。
1904年(明治37年)の日露戦争でもそれが改善されていないことが問題となった。
日露戦争時、日本騎兵の名将 秋山好古は、騎馬での戦いでは、日本軍がコサック騎兵に勝てるわけがない。と断言した。コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、機関銃で馬ごとなぎ倒す戦法で戦った。
戦闘には勝ったものの軍馬の性能差を痛感した。
これを受けて政府によって国内では産馬育成が奨励された。

1906年(明治39年)に明治天皇が勅令を発し、内閣に馬政局を設けて馬産を推進した。


馬券を最初に発売したのは幕末から外国人が治外法権下で行っていた横浜競馬場だが、明治政府は長い間、これを事実上黙認してきた。
1906年(明治39年)に始まった各地の競馬も同様に「政府は馬券の発売を黙認する(黙許競馬)」ことで成り立っていた。
国会でもしばしば馬券は違法であると指摘する議員がいたが、軍馬育成の大義名分の前に黙殺されてきた。

1908年(明治41年)、社会の風潮が馬券の取り締まりに向かう中で、当時の第1次西園寺内閣から黙許を得て競馬が行われたのだが、7月に内閣が総辞職し、第2次桂内閣に変わった。
この時入閣した岡部長職司法大臣は馬券反対派で、兵庫県で開催中の鳴尾競馬場へ官憲を派遣して馬券販売係を逮捕させた。
今秋に実施される刑法大改定に合わせて、岡部司法大臣は競馬に対して強硬策をとり、陸軍を押し切って馬券の非合法として禁止することに成功した。
軍や競馬界を背景にもつ議員には、馬券禁止は政府の不法行為だと論陣を敷いたものもあり、1909年(明治42年)には馬券を合法とする法案が衆議院で可決されたが、貴族院の特別委員会で廃案とされてしまった。


この後、馬券が許可になるまでは長い年月がかかることになった。



馬券の発売が禁止されるとすぐに、各地の競馬倶楽部は開催中止を余儀なくされ、馬産地は空前の経営難に陥った。



大正時代中期より産馬業者から東京競馬倶楽部会長の安田伊左衛門に対し「イギリスのクラシック競走であるダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という意見はあった。

かねてからの自身の構想と合致すると考えた安田は、馬産の衰退を食い止める手段としてイギリスのエプソム競馬場のダービーステークスを範して、

・4歳 牡馬・牝馬の最高の能力試験であること。
・競走距離が2400m、又は2400mに限り無く近いこと。
・開催国競馬の最高賞金額を設定すること。
・2歳 秋から4回の出走登録を出走資格の条件とすること。
・負担重量は馬齢重量とすること。
・施行時期は原則的に春季とすること。
・以上1から6を満たす競走は国内において本競走のみとすること。

という7つの原則のもと、4歳 牡馬・牝馬限定の「東京優駿大競走」を創設することを1930年 (昭和5年)4月24日に発表した。


初回登録は同年10月に行われ、牡92頭・牝76頭の計168頭が登録。

第1回は1932年 (昭和7年)4月24日に目黒競馬場の芝2400mで施行された。

競走の模様は発走前の下見所の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継された。

優勝馬の賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯と付加賞13530円が与えられ合わせて2万5000円(米相場換算で今の6205万円相当)ほどとなった。
従来の国内最高の賞金が連合二哩の6000円であったから賞金の額も飛び抜けて破格であった。
優駿の大成功が呼び水となって幼駒の取引価格が跳ね上がり、好景気に沸き立った。

第1回東京優駿大競走 1932年4月24日     
目黒競馬場 距離2400m
優勝馬 ワカタカ 牡3歳   
優勝騎手 函館 孫作
馬主 乾 鼎一     
管理調教師 東原 玉造