1912年(明治45年) - 豪華客船タイタニック号がニューファンドランド島沖で氷山に衝突した日になります。

英国郵便客船タイタニック号(正式名称:Royal Mail Ship Titanic、ロイヤル・メール・シップ・タイタニック)は、20世紀初頭に建造された郵便客船である。
オリンピック級3姉妹船の次女として処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。

当時の細野正文

生還者の細野正文は鉄道院副参事を務めていた1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路にてタイタニック号に乗船していた唯一の日本人だった。
もっとも死亡率が高かった二等船室の男性乗客であったが、細野は10号ボートに乗って生還を果たした。

細野はその時の状況を雑誌『冒険世界』(1912年7月号)において次のように語っている。
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ふと舷側を見ると今や最後のボート卸ろされるところで中には45人分の女子供が乗って居たが、スルスルと1ヤードか2ヤード程卸した。
ところが何か滑車に故障があったと見えてピタリと止まった。
ふと聞くともなしに聞くと『何にまだまだ3人位ゆっくり乗れるじゃないか』と船員同士の話声がした。
私は立ち止った。
すると私の側に居った一人の船員がヒラリとばかりにボートに飛び下りた。
見るとボートは元の儘、舳のところが空いて誰も居ない。
これなら飛込んでも誰れにも危害を与えまいと思ったので、いきなり飛び下りた。
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生還者の一人であるイギリス人ローレンス・ビーズリーが1912年に出版した著作『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』の中で「他人を押しのけて13号ボートに乗った嫌な日本人がいた」と証言したことが日本国内で広まり、唯一の日本人だったことにより、細野は当時の新聞などから批判に晒された。

しかし「タイタニック・エキシビション・ジャパン」の代表マット・テイラーが、細野の手記や他の乗客の記録と照らし合わせた調査から、ビーズリーと細野は別の救命ボートに乗っており人違いであることを確認した。

記録では細野が乗り込んだ10号ボートにはアルメニア人男性と女性しか乗っていなかったことになっているが、事故当時、細野はひげをはやしていたためアルメニア人と誤記されたのである。
一方ビーズリーの乗った13号ボートには中国人がおり、ビーズリーはこの中国人を細野と勘違いしていた。
これによって細野は「名誉回復」された。

また、イエロー・マジック・オーケストラの細野晴臣は正文の孫にあたる。