昨日、浅見帆帆子さんの本を買おうと決めたのは、
彼女の言葉の選び方が心地よかったからです。
出来事にはいろんな側面があって、それをどう見るか、どう受け取るかは見る人の価値観にもよるし、状況にもよるし、立場やその時の精神状態、身体の状態その他で、いろんな感じ方が出来ます。どういう風にも見えるし、どういう風にも言える。
その出来事自体がいろんな要素で構成されている、とも言えるし、
その出来事自体は空で、見る人の意識の状態で違って見える、とも言える。
どんな物事にも、心地よく感じられる側面があり、
自分にも、その物事を心地よく感じられる側面がある。
つい、完璧を求め、嫌だと思う面を払拭したくて、
ネガティブな部分に注目したくなるけれど、
それを払拭した、と思えたところで、果たして心地よい感覚になるだろうか?
確かに、払拭することが大事な場合もあるけれど、
広大な大地の草を全部抜いてから、自分の畑の分の種を撒く、
ということに、とりあえずあまり意味は無いように、
払拭したいと注目しているネガティブな側面が、
自分の望む人生のうちの大事な部分を占めているだろうか?
大事な部分にどっかりと根を張っていたり、広い面積を占めているのなら、
そりゃ抜かなきゃさ、だけど。とっとと抜かなきゃ種撒けないっしょ。
・・・あはは。^^;;
そういうことが書きたかったわけではないのに。全然。(苦笑)
これもクセかも?^^;
つまり、言いたかったのは、
あることを言い表そうとした時、自分だったら、若干ネガティブな表現や、批判的な表現、あきらめも入った表現をするかも知れない、
でも、状況が同じでも彼女は、
「ああ、そうも言えるね!」
「そう思うことも出来るよね」
「そう思えば、この出来事も可哀想じゃない」
「そう思えば、この出来事も喜ぶよ」
と思えるような表現をしてくれるんです。
しかも、自然な表現で。
それが心地よかった。
だから手元に置いておきたいと思った。
きっと、常日頃からそういう思いを繰り返しているから、
彼女は今の彼女のような状態になったんでしょう。
最近、思いグセについて考えていたんです。
思わず思ってしまう、自分でもあまり心地よいとは思わない思いを、つい抱いてしまうのを、なんとか出来ないかな、と。
でも、考えるより先に浮かんでしまう思いなんてどうしようもないじゃない、と思っていたんですが、まず使っている言葉を変えてみることから始めてみようかなと思うようになって。
それは、解っちゃいるけど実行してないの最たるものでした。
だから、インプットはもう充分。あとはアウトプットしていかなきゃって思いました。
そういうことも、書いてあったしね。本には。
忘れがちだから、部屋に居てもらって、思い出させてもらいたいなぁ、と。
どんなに自発的になろうとも、ちゃっかり他力ろうとするのを忘れない私です。(笑)^^;