23-11-21

去る11月10日放映のNHK「ファミリー・ヒストリー」に俳優の角野卓造(かどのたくぞう)が登場していました。彼の先祖は呉で網元を営む名家であり、彼も幼い頃呉に住んでいたとのこと。番組の中から呉に関わる部分を抜き出してみます。(一部はWikipediaによる)。

卓造は昭和23年8月東京生まれですが、本来なら呉で生まれるはずでした。というのは、その前年に呉で男児が誕生したのですが、自宅分娩だったためか、すぐに亡くなってしまいます。そこで次の子(卓造)は叔父が勤務医をしていた東京慶応病院で産むことになったのです。

本人の記憶で幼稚園にあがる4才の頃、1年間ほど呉に住みました。短い間でしたが、育った家のことは良く覚えていて、中庭みたいに上が全部抜けていて、その中に池があったこと。池には鯉が泳いでいたことなど記憶にあるそうです。

父親の卓男(たくお)は一本気な性格でした。病で肋骨を失い、徴兵を免れましたが、国の将来を考え、政治運動に関わっていきます。呉で海運業を切り盛りしながら、困難な人のために働きたいと、昭和22年戦後初の広島県議会議員選挙に出馬し当選します。

 

県会議員の頃は「仁義なき戦い」広島抗争の時期であり、角野家の実家を舞台に美能幸三の手打ち式が行われたこともありました。

 

昭和26年、父卓男(34才)は2期目の県議選に立候補するも落選します。選挙運動で経済的に困窮し、代々続いた家業も清算せざるを得なくなって、一家は大阪に行き、卓男の妹八千代の伝手で「エデン」(EDEN)という喫茶店を始めます。

 

卓造は昭和36年、中学校入学の年に大阪から東京に出ます。2年生の時、卒業生を送る予餞会でたまたま芝居をやったところ皆にほめられ、演劇部からスカウトされます。それが後に俳優角野卓造になる第一歩でした。

 

昭和45年、学習院大学経済学部3年の時劇団文学座の試験を受け合格、本格的に俳優の道へと進んでいきます。

江戸時代末期の角野家は呉(当時安芸郡)宮原村(呉町・今の海自城山門付近)で網元(運送業や商人を兼ねる)を務めていました。

古地図を見ると5軒ある網元に角野家と並んで「新原家」が載っています。現呉市長の新原芳明氏の実家です。番組では市長ご本人も出演され「網元だったと聞いている」と語っていました。

呉に海軍鎮守府設置が決まった明治19年に2キロほど離れた川原石に移住。「山一」という名の食品問屋兼網元を始めます。大正時代の呉市民史によると「漁船9隻、漁夫52人」を抱えていました。

 

角野家の本家は今も呉にあるので、卓造氏も墓参りその他で時々呉に来ているそうです。元々憎めない顔つきの俳優さんでしたが、番組をみて余計に親近感を抱くようになった角野卓造氏でした。 

 

 次回は11月24日「哀川翔の幼時体験」です。