日蓮の「観心本尊抄」 | 気になる映画とドラマノート

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 1273年、日蓮は「開木抄」を書いたあと、その翌年に「観心本尊抄」を書いて、これを越後の寺泊から下総の富木常忍に送った。

 日蓮は自分たちが生きている時代は、シャカが死んでから、2220年くらいだと言っている。
 もちろん、これを証明できるはずもない。

 日蓮は、天台宗の僧侶として、驚くべき集中力できわめて多数の仏典を読み込んで、日本の過去の仏教学僧の誰一人としtて気付かなかったシャカのソイエの最重要の教えを発見したと信じた。

 それが、「本尊」の幻視である。

 これは、さながら、アニメ映画新世紀エヴァンゲリオンの最終黙示録のスペクタクルのようなものだと言っていいくらい壮大なもののように日蓮は説明している。

 「一年三千」は、通常の受け取リかたでは、人間の心の世界の精妙さ深さを表現したものとなるはずである。
 しあkし、いささか奇妙でもあるが、日蓮の受け取り方は、「一年三千」の理念を人間の心から、人間の環境世界にまで拡張する。日蓮の言葉にしたがうと、有情の人間、無情の「草木、というように、草木に心はないのは事実ではあるが、日蓮は、「草木もまた成仏する」と概念を思い切って拡張してみせた。

 日蓮が「草木もまた成仏する」と言ったのは、じつは、そうでなければ、仏法が「飢饉、戦乱、台風、大地震、火山噴火、日照り、冷害」などを抑える法力があることに説明がつかないからだ。

 「国土世間」すなわち、「一木一草、ひとつの小石、ひとつの塵にも仏性がある。」これが、国土の安寧にむすぶつく理念であり、「立正安国論」とは、国防も含みはするが、国防はほんの一部にすぎないトータルな環境世界に仏性があるとするからこそ、日蓮の主張では、南無妙法蓮華経と唱えることが、単に、一個人の往生だけではなく、「地震、台風、疫病、飢饉、日照り、津波などの(現在の目からすれば自然現象)が統御できるとかんがえた。

 日蓮は、この考えは信じがたいものであろうが、もし、凡夫が簡単に信じられるような真理であるなら、むしろ、それは偽物である証拠になろう、という逆説を言っている。

 こうした日蓮の思想が現代人には、容易に利害しがたいのは、仏教の小乗と大乗の区别を現代人は、当然のように、「大浄は修行者ではなく、万人を救うのが大乗だろうと理解しているが、日蓮の時代には、小乗と大乗の根本的な相違は、自明のものではなく、探求すべきものだった。

 法然玄空は、小乗の修練を求める過去の経をすべて否定して、南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも成仏できる、として、それが大乗だとしたし、日蓮は、国土にまで拡張した。

 日蓮は、自分が拡張したのではなく、法華経に全部書いてあるではないか、と信じた。
 親鸞の場合、書いてあることではなく、一個の思想家としての思念と洞察が「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」という洞察に達したが、日蓮は、法華経の解読にすべてが賭けられており、発見した「書かれてある者」の布教が、菩薩行の勤めだと考えた。

 いわば、日蓮は、マルクスの原書読みの鬼才であり、親鸞は独立独歩のマルクス思想の枠を超えて世界把握をするような哲学者の立場に似ている。

 日蓮は、凡夫も救われる。それは、国土の安寧とともに、救われるということになる。

 「凡夫の劣心のも十界が備わっているのだから、救われる」という。親鸞の場合、凡夫が主体の内心で、嫉妬、欲望、怒り、愛欲、恐怖、独占欲などによって、様々な悪を犯してきたことに、成仏できないのではないかという恐れを抱くところを、「他力本願」によって解決の道筋を示したが、日蓮には、凡夫は、愚かだということしかなくて、ひとりひとりの「悔悟の念は問題にならなかった。

 これは、キリスト経の救済が、パウロによって、信じる者は救われる」とユダヤ民族だけが、救われるのではなく、条件は「民族」ではなく、「神を信仰する人間」ということが条件だとしたことと、類似していて、救済の条件と、どのように救済されるかという条件提示なのである。

 凡夫という表現は、民衆にとって魅力的であった。
 マルクス主義が、労働者、貧民が主人公だと言ったのが、強い魅力を持って、現代に生き続けているのと同じだ。

 日蓮は地獄界に落ちたものでも、シャカの偉大なあ力は、救ってくださると強く言う。

 これは、「自分や家族の病気、戦争の不安、失業の苦しみ、貧困の惨めさ、親兄弟の不和、立身出世の願望、交通事故、地震津波などの災害により、親族をなくしたり、財産を失ったりする苦しみ、不安から根本から逃れることができない以上、かなり有効な一面もあり、だからこそ、韓国でも、欧米でも、現実に創価学会は存続している。

 しかし、まちがいなく、この日蓮の教えは、当初から現在まで、オカルトである。
 マルクスのい共産主義理念がオカルトであると同じように。

 本尊というものは、日蓮にとって特別な重要性がある。
 あたかも、ユダヤ・キリスト教のアポカリプスと同じように、幻視の具体性を帯びている。

 理想郷をシャカが実現するその時、中央には、法華経があり、そして、大空に多数の宝塔すなわち、そびえ立つタワーが屹立して、荘厳なスペクタクルが現出する。

 左にシャカ、右に多宝如来、さらにその左右に四大菩薩。その次にまた左右に、文殊菩薩、弥勒菩薩が座して並び、さらに無数の諸菩薩が居並ぶ。これは、まるで、万民が公家を恐れ多く敬って見つめるように、かしこまって坐している。

 この配置と壮大なヴィジョンは、例えば、奈良の大仏のように、いままで、様々に、仏の姿が具体化されてきたけれども、この映像こそ、ほんとうに、わたしたちが、拝むべきに真の「本尊」なのだ、と日蓮は闡明した。

 もちろん、日蓮の言う本尊がこういう意味だとは、一般的に現代の日蓮宗各宗派の信徒は知らないのではあるまいか。