戦前日本と併合された韓国 | 気になる映画とドラマノート

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1994年12月に出版された「帝国」日本とアジア」の中で浅田恭二は、「「日本は朝鮮民族固有の領土主権行使領域を自国の支配下におき」と書いている。 


 

  しかし、「○○民族の固有の領土・主権行使地域」という概念はない。これはユダヤ民族が固有の領土・主権行使地域をもたず、イスラエルに集まって、建国し たことをみても、半島には、「同国人という意識のない三国鼎立時代が新羅時代と高麗前に二度もあったことを見てもわかる。

 


 

 また合邦国家というのは、いくらでもあるし、大国同士の取引によって、その地域の住民の意思と関係なく、領土そのものが売り買いされる場合もあった時代だった。

 


 

 そもそも、そこに暮らして生きる人々に、「主権」というのはない。主権というのは、国家を形成した上での話であって、ある地域の居住民は、政府を形成しない恣意もありうるのだから、その場合、主権というものもない。

 


 

 台湾の土着の住民や北米インディアンに主権もなにもあったものではなかったろう。

 


 

 要するに、なぜ、朝鮮の人々がかぎりなく、北米インディアン、アボリジニ、と同じように、「固有の「領土」「主権」という概念で語り難いかといえば、当時の朝鮮王朝が財政と行政統治能力それ自体が崩壊しかかっていたからだ。

 


 

 財政は破綻し、行政能力は崩壊していた。そして、清国の属国化していた以上、「主権」がありえようはずもなかった。だからこそ、大院君は「韓国を独立させるためなんだね」と日本に念を押した。主権があったなら、「独立しようとする」はずもない。

 


 

 こういう言い方は、韓国人をバカにしたように感じるだろう。しかし、彼らは、当時、たしかに、日本の保護でも支配でも嫌っていたが、清国からもロシアからも自立したいと敢然と独立の意思を持っていたというわけではなかった。

 


 

  自ら拠って立つ政策立案によって、国家統治を自立させ、どの国にも頼らぬ姿勢をとったかといえば、まったくそうではなく、清国でなければ日本、日本でなけ ればロシアのい軍事顧問を招き、同時に日本から再三再四莫大な借金をしては、自尊心だけは持ち続けていたというのが実態だった。気位だけやたらに高い没落 貴族がトップに立つあてどない貧困社会で、その貧困社会を、他国からの借款によってじぶんたちだけは貴族生活をしていた高級官僚がつに音をあげて解散逃亡 したのが、「日韓併合」の実像だった。

 


 

  併合前の、まだ併合するつもりさえなかった頃に、日本は現在価値で300億円(当時公務員給与くらいしか使い道のない国家財政では、300億円は大きい) を貸して、韓国の窮状を援助した。こうした資金援助を断る気概や余裕のあるような財政状態ではなかったからこそ、援助を受け、そして、李完用ら閣僚らは、 自ら職を辞してでも、韓国皇室を維持しようともしなかった。

 


 

 現在とまったく同じように、大韓帝国の高宗の時代も、彼らは、国民に対して、「国家の窮状は、日本の武力を背景にした内政干渉のためのもので、」と国内の政権の失策を日本のせいにして、あたかも、現代において、中国に頼ろうとするように、当時はロシアに頼った。

 


 

  韓国の人々は、ことにも、ロシア、清国に比して日本をこそ嫌ったかというと、「清国やロシアは形を変え、俗を変える」ということはなかったが、日本は「断 髪をし、西洋ふうの背広を着ていることが韓国の人々には、自尊心のない所行」と考えられた。しかし、韓国の人々は自国がすでに財政破綻をしていることを知 らないままに、「節操のない日本」を軽蔑していた。

 


 

  なぜ、このことがわかりづらくて、あたかも、朝鮮民族固有の主権だの領土とかと言っていられるかというと、朝鮮総督府時代に、日本が近代的統治のモデルを 朝鮮の人々に教示したことを、あたかも、「前から知っていた」とか「いまやるところだったのに」とでも言うように、もともと、独力で統治できたし、主権の 主体となりうる社会構造を自前で作っていた、と錯覚しているのである。

 


 

 「日本の戦争」は、田原総一朗が雑誌「サピオ」で連載しつつ書き進めたこともあって前後矛盾している点がある。

 


 

 とくに天皇に関する部分が矛盾している。

 


 

 田原は民主主義を渇望して、天皇を強大な主権者のように言うが、天皇に関する史実を知るにつれて、天皇が実際には、自らの采配、判断によって当事件を行使していたわけではないことを事実として証明してしまっている。

 


 

 「天皇は、議会の招集、解散権までにぎっていて、議会になんの権利もなかった」と書いていて、天皇があたかも、西太后やロシアの大帝、ナポレオン皇帝のように、大権、統治権をふるっていたように書くが、実態は・・・・

 


 

ま ず、日清戦争の時は、明治天皇に対して、侍従が「清国は増兵の準備をしているので、わがほうも臨戦体制に入る」と言うと、明治天皇は、「なにかの間違いだ ろう誤報ではないのか」と戦争をしたくないような意思を示すが、内閣を指導して、大権、統治権にやって、天皇は「われのしたいままに」「戦争をしない決定 をしていない。むしろ、「なおも説得を試みよ」とそれこそ、命令をしているのだが、実際には、天皇の命令は無視されたと見えて、日露戦争ははじまってしま う。

 


 

 明治天皇は(わたしがここでいいたいように)まさに、「この戦争は閣臣の戦争で、わたしの意思ではない」と怒って、「伊勢神宮に報告しなければいけません」というと、怒って、そんなものはやらなくていい、と言ったという。

 

そして、伊勢神宮に報告する式典に天皇は出席しなかった。

 


 

  明治天皇の時、ロシアとの戦争がせまると、天皇は戦争が両国の兵士の被害を生じることを悩んで、この上はみずからロシア皇帝に親電を送って疎通の道を開き たいと、戦争回避の意思を示しても、「すでにそのような状況ではない」と意思を拒まれる始末だった。(「日本の戦争」215ページ)

 


 

 また日英同盟の軍事同盟的色彩を憂えた天皇が、「元老たちの意見はどうか」と慎重にしてほしい意思を表しても、桂太郎は、「元老はみな日英同盟に賛成です」と天皇をだますほどだった。

 


 

  つまり、戦争を止めることについて、強力な大権統治権を行使することができたはずだというなら、もっと、恣意的なアレキサンダー大王やジンギスカン、ナポ レオンのごとき軍神天皇もありえたはずだが、実際の明治天皇も、昭和天皇も、上層支配階層の結論を、専門的知見により、真剣に出した結論だろう、と立憲主 義に立って、実務家の結論をあえてくつがえすということはなかった。

 


 

 にもかかわらず、天皇に戦争責任ありとするのは、むしろ、真の責任者である閣僚、高級官僚などの責任を天皇におしつけることになる。

 


 

 ましてや、実質的には、ありもしない統治権、大権を強調すれば、あたかも、閣僚、首相はじめ、天皇が戦争をせよ、といえば、だれもが絶対権力にひれふして、拒否できなかったような主張なのだから。事実はそうではなく、憂える天皇はただおろおろするしかなかった。

 


 

 天皇は涙を流して嘆息したという。・・・どこが大権、統治権、天皇主権なのか。

 

 これは、実質的には、貴族支配というのが実相だったと思われる。

 


 

 この時明治天皇は、「四方の海みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」(世界のひとびとに対して兄弟のように親しむ気持ちでいるのに、どうして波風が立ち騒ぐでいるのだろうか}と歌を詠んだという。

 


 

 昭和天皇もまた、この歌を知っていて引用したという。