どよんだ空気のカーテンを霊体が苦も無く潜り抜ける…一瞬で有るが圧覚を感じ胸を締め付けられるが、間も無く解放される。
其処はやや明るさを増した小高い尾根でした。案内の青年は私…稲津より一足早く山の背を伝って登っていました。

其処は地獄第二層なのでした。


此処には生前つまり肉体を持ち生きていた時代に悪行の限りを尽くした者に助力した軽薄な…又は、意志薄弱な善人面をした侭に生き抜いて来た者達が、否応も無しに放り込まれて来る地獄であると言う事を青年つまり地獄の学校で教鞭を執る教師が、道を歩み乍ら説明してくれました。

こう言う人達は、自分のしている行為が積善の功徳と思い込んで社会や多くの人達に奉仕して来た筈であると何の疑いも持たず、自己満足と虚栄に生きて来た人達と言えます。


件(くだん)の夫婦の霊も何故か此の境涯に住んで居ました。地獄では滅多に家族に会うと言う事が無いのですが…。 

然し見渡す一画に建つ、見掛けは丸太棒の山小屋風の家々には肉身の親子や夫婦、兄弟が住んで居ました。其の内の一軒に夫婦が住んで居ました。

蹴り立った崖っぷち際に家は建って居ます。恰も家族の心象其の物が崖っぷちに立って居ると言わんばかりの危うい状況其のものでした。

実は、生前彼等は家庭生活の中で恐ろしく傷付け合った肉身の親子や夫婦達だったのです。

もう二度と夫婦なんかに成りたく無い…互いにそう思い合って居た不幸な結婚生活に明け暮れた哀れな人達だった訳です。

其のせいなのか、霊界では姿を変えて住んで居る為に、本人達には互いに相手が元々夫婦であった等と判らなく成っているのです。


辺りは視界を遮るものとて無い、稜線の尾根の幾重にも重なった遠望の他には、やはり岩漿を除いて全く木々の緑なんて無く、流れ出した溶岩が奇岩怪石を形造り、不安定な一塊の岩を土台に似た様なバラック小屋が点在している世界です。

そんな中の一つが夫婦と家族の家です。

何の変哲も無い居間の中では、睨み合った夫婦…年の頃は共に五十歳前後…其れから老女が一人…。

男の顔は人間と言うよりは獰猛な雑種の黒犬の顔が付いています…耳を逆立てて片方を動かし乍ら、真っ黒な顔容にどぎつく光る黒い眼…骨張った鼻筋にだらし無く垂れ下がる頬の皮が鼻息荒くフーフーと言う度に細かく震え乍ら、前に対峙する女房を睨んでいる。

妻は旦那を引き攣った眼で、今にも飛び掛からんとする様に、両の爪先を研ぎ澄まして口元に当てて睨み返している。眼光爛々として…其の凄まじい殺意すら感じさせる眼差しである。

無言で睨み合って対峙する夫婦を見詰める姑らしき老女の顔は、何処と無く薄汚れた狢(むじな)の顔をして、意地悪そうな流し目で女房を見ている…。


三つ巴の意念が絡み合って、今にも爆発しそうな感情の錯綜する中で唐突に口論が始まった。

其れは、生前何度と無く、繰り返して来た口喧嘩なのかも知れない…「絶対に勝てっこ無いギャンブルに、何度も引っ掛かる様なあんたは大馬鹿よ。あたしは前の旦那にも散々酷い目に有っているのよ。お蔭で家財道具一切無くして、挙げ句に大事な家迄無くして借家住まいの一生だったのよ。友達にも会えやし無いし、親元に見せる顔なんて有りゃしない…あぁ、思い出しても悔しくて、悔しくて…あんたの顔を観てると何もかも思い出す…あぁゾオッとするわ。あんたの顔なんかもう見たく無いわよ、とっとと出て行ってよ!」

そう言うなり女は手近に有った丸太棒を男に投げ付けて、地団駄を踏んで己れの人生を呪い悔しがった。

「女の分際でつべこべ言うんじやねえよ。誰に喰わして貰ってるんだ。いいか。俺だって負け様なんて思わなかったさ、偶々今回は運が悪かっただけじゃないか。俺だって勝ったら一番に女房殿の元へ金を持って来たともさ。悔しいのは俺の方だ。神も佛も有りゃあしねえ、ああ馬鹿馬鹿しいったら無いぜ」

すると姑らしき老女が焚き付けた。

「そうとも、こう成ったのもあの時の嫁が悪いのさ。自分の旦那すら良う操縦出来んくせに、情け無いねぇ。うちの息子に何の罪が有るって言うんだい。悪いのは嫁じゃよ。あいつが来てからうちは没落したんだ。そうとも、あんたみたいなどうしようも無い女だったとも。ああ、見れば見る程腹が立つよ、そうだよ私が業を煮やすのは嫁さね。とっととお前こそ出て行ってくれ」…姑の睨む目がギラリと光った…。

想念と想念とが打つかり合う…意念と意念が火花を本当に散らした…。

此処は呪縛の解けない修羅場と化した…恐ろしい事だが、夫々は人間の霊体を持つ身体なのに、何時しか首から上には動物の顔が乗っていました。

吐き捨てる口舌の争いが形相を増々変えて、動物の吠える姿に変化して行ったのです。

つい今しがた迄静寂を保っていた山小屋の中は凄惨な叫喚の巷と化していました。

途端に動物霊が其の罵る声に合わせて無数に寄って来たではありませんか!


実は、同様の事が現界でも起きているのです…幸か不幸か肉眼の我等には見えないし、何も感じないだけの事で、心は吸い寄せられた動物霊達に捉えられて、より過激な思いに突き動かされて行くのです。

ふざけて罵倒し合って居ただけなのに、言葉の勢いに吸い寄せられた動物霊の思想に更に吸い寄せられた多くの動物霊に誘導されて、動物霊の勢いを自分の思いと錯覚して、ふざけて居た筈が軈て激昂し合い、取っ組み合いの喧嘩と成り、殺し合いに迄及ぶ事も有るのです。

其れが寄り付いた動物霊に憑依された挙げ句の結果だとは、現界しか知らず見えもし無い愚かな人間達には想像すら出来よう筈が無いと言う訳です…。


野良犬が男に憑き、男は吠えました。

女の首筋に咬み付くや凄まじい力で振り回しました。

女には妖魔に化けた狐が憑きました…口が耳元迄裂け、真っ赤な舌を出し乍ら横合いから負けじと野良犬の口に咬み付きます。苦しげにのたうち回って、其れでも尚、逆毛を立てて女を振り回し続ける野良犬の夫。必死に負けんと咬み付く妖魔の狐。

遂に狐が押さえ付けられた時、姑に憑いた狸が、狐から流れ落ちる血を吸いに近寄りました。

力及ばず辺りに血潮を迸らせて、呻く吐息も苦しげに、息絶え絶えの狐の妻の傍らで嘲笑う姑狸の嬌声…此処は浅はかな同じ穴の狢達の動物の檻と化して居たのです。

霊界では憑依する動物霊が目に見えて変化する心の世界。

現界では、幾ら心が憑依されても目には見えず、見た目が変化し無い為に、変化した心の醜悪さに気付かず、肉体の美醜のみに惑わされ、心を見抜く力無き者が簡単に過ちを犯して仕舞う世界と言う訳です。

そして唐突に静寂に戻った室内では又三竦みの睨み合いが繰り返されるのです…突然始まる修羅場まで…そうして繰り返し繰り返し苦しみだけが果てし無く続いて行くのです。

正しく其処は軽薄な意志薄弱者の堕ちる地獄だったのです…。


「哀れですね…此の三人は生前も同じ家に住んだ夫婦と姑の関係でした。死後霊界へ来ても、家族が共々に住む事が目的と言うのでは無かったのです。生前の業を其の儘に霊界へ持ち込んだ《宿縁の間柄》で、言わば『逆縁の関係』に在ったのです。

此の三人は、実は三世に渡って争っているのです。

此の三人の前世は比較的近い二百五十年程前の江戸時代に生まれ、男は大工で腕は良いが博打に嵌った為に身を持ち崩して仕舞った人間で、女は其の時の女房でした。男の棟梁の一人娘であり、男の為に家屋敷を失った女に髪結いの仕事を叩き込んだのが男の母親でした…其の時に既に悪縁に繫がり、此の霊界へ来る前、つまり貴方方の現界に悪果が顕れ、其処では男は美容師と成った姑の息子として生まれ、女其の店に勤めたばかりに騙されて結婚して仕舞い、又しても此の親子の為に不幸な人生を歩む事に成った訳です…こうして霊界は過去世…現世…そして死後の世界の三界が同居しているのです。

男の前世は江戸時代の大工、生まれ変わって美容師の女将の溺愛した一人息子…此処霊界では道楽者の成れの果て。

女の前世は大工の棟梁の娘、生まれ変わって女将の店の女(こ)…そして霊界では妖魔に化けた狐の憑いた女。

姑の前世は男の母親。生まれ変わって美容院の女将。そして今、同じ穴の狢に住む醜悪な狸老婆。

三人一組ワンセット…性懲りも無く、未だ未だ繰り返し繰り返し同じ業を重ねるでしょう…。

でも、何百年の後には軈て其の虚しさが判る時が必ず来ます。

三人の内、誰か一人が気が付けば良い。

其の時に三人の業は解放される。

つまり地獄から這い出せる…。

其れを悟らせんが為に、悲しい犠牲者を現世に二度に渡って送っています…」と、案内の青年は稲津先生に解説されました…。

そして青年が指し示したスクリーンを観ると…


人間の業がどうして此程迄に残忍な世界を演出するので有ろう…古びて綿の出た煎餅布団に包(くる)まって天井を向いた侭、吊り目を開けてビクリともし無い子供の顔は、明らかに大工の子であり、身体は躄(いざ)りであった…。

然もいま一人…車椅子に腰掛けて首を振り、腕を曲げてはパンを囓るお河童頭の女の子は…確かに美容院の女将が引き取ったお人好しの一人息子の小児麻痺の娘の姿でした。

「もう多くの事を語る必要は無いでしょう…。

《宿世の業》とは詰まる所『因縁』なのです。

此の三人の誰が悪いと言う訳でも無いのです。

全ては前世そして前世の前世、更に其の前世と積み重ねて来た業因の結果が縁に触れて繰り返された迄の事なのです。

愚かな人間は其の意味も解らず、再び因縁に囚われて更に悪業を重ね、気が付く所迄遣り直しをさせられる。

此処迄来れば、もう馬鹿としか言い様が無い…。本当に大馬鹿者ですよ、此の三人は…」…と青年は哀しそうに言った。