最近、偶々(たまたま)眼にした霊能者の方が綴られた記事に大変驚いたと言うか、まるで霊界を知らない人が語る解説みたいだと思わず眉を顰(ひそ)めるものが有りました。


其の御方は、“動物達の生まれ変わり”に就いて答えられておられたのですが、内容を要約すれば、“犬や猫が人間に生まれ変わる事も無ければ、人間が動物に生まれ変わる事も無い”と言ったお答えでした。四つ足の動物は四つ足の動物の間でだけ種を越えて生まれ変わりを繰り返しているのですよ…と言った内容だったと記憶しております。


其れを読み、此の方が霊能者として有名な方である事は存じ上げておりましたので、何故そんな事を言うのか、もしかすると、敢えて真相を伏せて解答されておられたのだろうか…と少々困惑してしまいました。

確かに霊界の実相は奥が深く、素人が単なる覗き趣味的、地縛霊だとか、呪い云々と言った下世話な興味本位だけで触れたり、中途半端な霊現象のみの知識だけで面白半分で弄り回せば大変な罪を犯す事も有れば、不用意に触れた低級霊に大事な人生を台無しにされて死後は動物霊の世界に引きずり込まれる事も多分に起こり得る訳ですから、件(くだん)の御仁が意図的に犬猫馬牛豚が人間と生まれ変わる事も、其の逆も普通に有る事を敢えて伏せられたのかも知れません。真意は分かりませんが…。

僕の立ち位置は寧ろ可能な限り真実の霊界の姿を知らせる事の方が正しく与えられた僅かな地上世界での人生を生きる糧と成るとする立場です。


霊界の実相を知らずに、目に見える世界だけを基点として霊界を推測し、自分の許容範囲内に於ける理屈だけで霊界とは此の様なものであると規定して、兎も角地上世界を愉しく自分の納得出来る、自分の満足のみを追及して終われば良い…と言うのでは、いざ霊界に戻った時に大変苦労する事を知っているだけに、下手に知れば却って罪を犯させるであろう事実は伏せるのは当然として、そうで無い限りある程度酷い事実でも我々は地上を生きている間に知っておくべきであるとする立場に立っています。

其れが霊界を歩む上での道標と成るからです。

死後真っ先に万人が目覚める冥府の風景すら知らずに冥府で目覚める人ばかりだから、皆戸惑い乍ら恐々(こわごわ)歩いていると言うのが実態ですし、死んだ自覚すら持てずに狼狽(うろた)える人ばかりです。

当然、目覚めた先に何が在ると言う道標(みちしるべ)すら何処にも立っていないのが霊界なんですから。

この世に居る間に霊界の実相を知る事は人生の重大事と僕は確信しているのです。


確かに、人間が動物(傍生/ぼうしょう)に堕ちると言うのは、事実を知れば嬉しい話ではありませんが、事実を知れば中には生き方を反省して改める方も出て来られるであろう事を期待して、やはり生まれ変わりの基本位は我々は知っておくべきと思っております。


此度のブログの本論では無いので簡単に記しますが、人は死ぬと肉体から抜け出て、地上に脱殻の肉体だけを置いて、幽界と言う謂わば半物質の世界に赴きます。半物質ですから時に地上の人間にも幽界に生きる幽体としての姿を垣間見る事が出来ます。所謂幽霊と言う奴ですね。

軈(やが)て、幽体を脱ぎ捨て…此れを第二の死とも言います…霊体と成り霊体の住む世界である霊界へと赴きます。世に言う地獄は此の霊界の最下層の世界を言う訳です。


傍生(ぼうしょう)、つまり牛だとか犬等に生まれ変わる人は霊界では無くて幽界の最下層に当たる暗黒境とも呼ばれる世界から霊界には行かず直接現界である地上世界へとピストン運動される様に生まれ変わります。

霊界から現界に生まれ変わるには平均して三百年前後程度要してからと言われますから、現在の日本人の多くは江戸時代からの生まれ変わりが占めている事に成りますね。

然し、幽界からの生まれ変わりにはあまり期間を要しないみたいですので、霊界からの生まれ変わりと比較すれば、死んで直ぐに動物として再び地上に戻ると言う感覚かもしれませんね。

実は地獄に堕とすのも傍生に転生させるのも基本は自業自得と言い乍ら直接地獄にするか傍生にするかを決めるのは其の人の主護霊です。

主護霊の願いを無視して人として犯した罪に対する懲罰的な側面を持つのが、地獄、餓鬼、そして傍生への転生と成ると御神霊は語られております。


さて、本論に入りますが…或る意味で、人として生まれた限り全く霊能が働かない人は唯の一人として居ないと言う事は、何度か過去のブログでも申しておりますが、何かの弾みで霊を垣間見たりすると、自分の見たものが何であるかを知りたく成るのは人情です。然し、答えを導き出す方法は一般には限られます。

結局、お寺さんに尋ねたり、神社に出向き神主さんに尋ねたり、友人や知り合いのつてを得て霊能者と称する方の意見を伺ったり、書店の専門書コーナーの心霊関連の書籍を漁るしか術は有りませんが、専門書コーナーを観ても、内容はピンキリです。大半が作者の勝手な思い込みや、意図的に売名目的のいい加減な書物に単なる覗き趣味以上の何ものでも無い書物ばかりです。正しい霊界や心霊現象の記録は百に一つ位でしょうか。


勿論、誰でも真摯に霊界の正しい知識を身に付けたいと真面目に願い続けていれば、其れが因縁と成り何れは正しい知識を伝える書物に出遇えるか、正しい知識を有する御仁と触れ合える訳ですが、其れは其の方の機根と因縁次第です。

単なる覗き趣味的知識欲を満足させたい程度では中途半端な知識を得るのが相応と言う事に成って仕舞います。

そう言う方は、霊界の真相を知っても自分に都合良く改竄して流布するやもしれません。其れは寧ろ其の方に罪を犯させる事に成りますから…件(くだん)の霊能者は敢えて真実は伏せて説かれたのかもしれません。

霊の世界をいい加減に扱ったり、金儲けの道具に使う事は皆様が想像されるよりも遥かに重い罪と成ると伺っております。


赤く輝いて綺麗に見えるからと赤く熱した鉄棒を不用意に触れば大火傷を負う事を我々は知っていますから、素手で触ろうなんて思いませんが、正しい知識を持たぬ幼子なら綺麗だからとギュッと握るかもしれません。

中途半端な似非知識で霊界に触れるのは其れと同じ様なものです。

中途半端な知識ほど危険なものは無いのです。

殊に見えない世界故に、勝手な思い込みや勝手な事を言っても何の影響も無い…と、思う事こそ最も危険な事なのです。此方(こちら)からは見えていなくても、彼方(あちら)からは見え方は違っても良く見えていますから。


最近は神社や神様関連の本でも取り分け神様の“御利益(ごりやく)”を語る書物が多い様に思えますが、真実の神々を知った上で御利益を説いているのか、甚だ疑わしいものも多い様です。中途半端な神霊知識を以て書かれた書物からは中途半端以下の知識しか得られない事を知った上で読まれる事です。

正しいものを見抜く眼を常に養い乍らそれらの書物を楽しんで頂ければ…と願っています。


“御利益”と言う言葉には“神佛が齎(もたら)す恵み”と“金銭・物質が齎す幸運”の二つの意味が含まれていると辞書にはあります。

どうも此の二つの意味が一緒くたにされてしまっているのか、神社参拝で神様に金儲けを頼み、どうぞ御利益下さい…みたいな事を頼んでしまってはいないでしょうか。

「此の宝籤が当たります様に」なんて祈って、宝籤が当たればあの神社は御利益が有る等と…。


実は、願い事を何でも適えてくれる、必ず御利益が有る。彼処(あそこ)で願えば必ず宝籤に当たる、あの神社の御利益はああだ、こうだ…彼処の神様に祈れば必ず御利益が有る。

此れも霊界を知らない、或いは中途半端な神霊知識が招く悲劇かと…。

何度も述べましたが、神様の降られる神社ばかりでは無いのです。動物霊に占拠されている神社も多いです。

況して、御利益の中心が金儲けだ等と言う神様は先ず居られません。


この世は因縁で動いています。

蒔かぬ種子は生えないと言う事です。勝手気儘な自分本位の願いを適えるのは神では無くて動物霊の方です。

動物霊と雖も力さえ有れば金儲け位はさせてくれます。来る人、来る人に本来の持ち分以上の金儲けをさせてくれるのは動物霊です。

動物霊の巣食う神社は矢鱈と金儲けの大盤振る舞いをやるものですから、金に取り憑かれた欲深い連中が挙(こぞ)って参拝しますから神社には穢れた金が溢れ、穢れた金は穢れた使い方しかされなく成りますから、結果、パワースポットの神社だなんて言われて増々穢れを呼び、当然、神主始め皆強欲な金儲け主義者と化して、終に見た目は立派でも神の香りすらしない、動物霊と強欲な参拝者の集う無神の神社と化してしまいます。

それでも「金儲けをさせてくれるなら、動物霊でも私には立派な神様だ」等と思う人も出て来るかも知れませんが…。

或いは「じゃあ神様は金儲けをしては成らないと言っているのか。この世は金が無ければまともに活きて行けないんだぞ」と仰有る方も当然出て来るでしょう。


現在の日本が資本主義の国である限り金儲けは成らん等と言う神様は居られません。

但し、金の亡者の如き生き方や一向(ひたすら)贅沢三昧をするだけの金儲け、本来の自分の持ち分以上の金儲け…そう言う類いの願いには神様は耳を傾けられないのだと言うだけの事です。


そして御利益の与え方が神様と動物霊では決定的に違っているのです。


『神は縦取り』であり、『動物霊は横取り』なのです。

“横取り”と言うのは言葉を変えれば“盗む”と言う事です。

誰から盗むのか…其れが問題なのです。

御神霊は嘗て此の“縦取り”と“横取り”と言う事に関して次の様に語られた事があります。


「神と人との間柄の掟は歪(いが)められん。どうだろう…会社に於いては、社長命令に従ってくれる部下の経費は社長持ちであろう。

主護神、主護霊を通して下る天命に従い神の御用を務めてくれるなれば、個人と言わず、企業と言わず、其の保障が神はしてやれると言う事。御用を務めてくれるなれば、無理も聞いてやれると言う事だな。


唯、神よ、神よ…と泣き言を言うてくれるだけでは、どうにも成らんのだよ。

宇宙は因縁に因って動いているのだから、蒔かぬ種子は生えぬ。

泣く子が乳飲む様に、神の前に泣き言を言うだけでは、力に成って遣れんのじゃよ。神の御用を務めてくれん限り、力に成って遣れん。

此処に神と人との合作が行われる。


神が計画を立て、地上に人間が実現する所にこそ神が守ってやれるのだよ。

神の御用を務めずして泣きさえすれば与えてくれるのは動物霊じゃ。

何度も申す通り、狐でも狸でも、力が有れば与えてくれるが、無責任な与え方でな、子や孫の福分を先取りする無責任な与え方なのだよ。


本来の稲荷は豊受大神であり、宗像三神であるが、稲荷山を占拠しているのはあまり高くない動物霊じゃ。

此奴(こやつ)達の与え方は子や孫の分を吸い上げ、やれ遺産相続の争いや極道事の資金に成るのが“落ち”でな、子や孫が乞食する。


正しい神は因縁論的に先々の禍根(かこん)を残す様な与え方は出来んのだ。

そこで神の御用を行わせて与えると言う、責任有る与え方しか出来んのだよ。

親は子孫(こまご)に只では与えまい。何かの仕事をさせて与えるであろう。

そうで無いと、子供は極道人に成る。

一応の苦労をさせておかんと、其の子の将来が案ぜられるだろう。

この世の親ですら其の様な与え方をするのに、神が無責任な与え方をする道理は無かろう」…と。


また私の師も次の様に語られました…

「正当なる種蒔きをして正当なる幸せを得るのなら良いけれど、人間には皆“食扶持(くいぶち)”が有る。

僕が仮に一千万円の食い扶持しか無いのに、三千万円お金を使ったとします。すると僕の分が一千万、倅の分が一千万、孫の分が一千万…此れを全部集めて子孫(こまご)が生まれる前に僕が使ってしまう…そう言う事です。

其処らの低級霊は無責任ですから…。

低級霊でも霊が動けば金儲けぐらいは出来る。お稲荷さんでもお参りしたら金儲けぐらい出来る。

でも、そいつらは無責任で子や孫の分を吸い上げて三千万儲けさせる。

そして三千万贅沢して使ってしまう。

子や孫は食い扶持が無くなっているから、乞食する。誰が悪いのか。爺が皆食ってしまった。

そうでしょう。皆さんが親であったら、子供が「お小遣いをくれ」と言った時に、親は一番に聞きませんか?“お前、何に要るんだ”と。

其れと同じ様に、使い道が明らかで無いものを与えてくれる様なものは神では無いです」と。


神の縦取りと言う事は、因縁を踏ませる事です。ですから、時間が掛かる。何処にも悪因縁が残らん様に、禍根が残らん様に環境を整えてから与えて下さると言う訳です。だから、願いが適うのに十年以上掛かる事も有ると言う事に成ります。

此れが本当の『御利益』と言うものなのです。

“神が齎す恵み”とは時が経って、人生を振り返り気付くものでもあるかも知れません…。