妹のこと。自殺者の周辺 | Remember to remember 完璧な自分を思い出すお手伝い

皆さんこんばんは!

 

 

西城秀樹さんが亡くなられましたね。

 

「ヒデキ、カンゲキ!」に始まって、

結婚されたときは「ヒデキ、デンゲキ!」

60歳の時は「ヒデキ、カンレキ!」

 

と言ってネタにしていたのですが、ご冥福をお祈りします。

 

人が亡くなるということに関連して、妹のことはちょこちょことこちらでも触れていたのですが、ちゃんと書いたことってなかったなとあせる

 

ちょうど先日、知り合いのブログに弟さんのことが書いてあったので私もここらへんで書いてみようかなと。

 

別にこのことを書くのは両親に文句を言いたいわけでもなければ誰かに慰めてほしいわけでもありません。

 

 

同じような思いをされた方の感情のはけ口になって少しでも希望が持てたら、あるいは今死にたいと思っている人がいたらちょっとクールダウンしてもう一度よく考えてみて、というのが趣旨です。

 

 

もう妹が旅立ってから10年以上が過ぎました。

 

生きていればもうアラフォーです(笑)

 

でも当たり前なのですが、遺影の妹は20代のまま。

記憶があいまいな部分もありますが、なるべく詳細に振り返ってみようと思います。

 

 

 

一週間前

 

 

 

「猫(私のこと)、もうこの家やってられんわ。

もう死んでまいたいわ…」

 

 

祖父の法事の時に妹は私につぶやきました。

 

私は私にとっての監獄だった実家を出て久しいので関係なかったのですが、実家では父親が仕事を辞めたことで実家の雰囲気は最悪でした。

 

幼いころから私が両親の格好の的にされて虐待されていたので妹に被害が及ぶことはなかったのですが、今はこれまでかわいがられてきた妹が標的にされていることは私には簡単に想像がついたので、

 

 

「なあ、ほな猫さんのうちにしばらくおったらええやん。

飯だけ作ってくれたら後は好きにしとってええで三毛猫

 

 

と提案すると、妹はさみしそうな顔をして、

 

 

「だって猫のうち、ピアノないやん…」

 

 

妹は幼い頃からピアニストになるためにピアノを練習してきましたブルー音符

数々のコンクールで賞を取っていましたアップ

 

でも中学に入った時に行き詰まり、先生を変え、この先生が曲者で口車に乗せられた母親は

 

 

 

「あなたのために!」

 

 

 

という大義名分のもと、

 

 

 

「娘のためにこれだけ頑張っている私!」

 

 

 

という承認欲求を満たしたいというエゴのために妹にピアノを弾かせるようになりました。

 

 

負けん気が強い妹もそれにこたえようと運動会も修学旅行も行かず、友達とさえ遊ぶことなくピアノ漬けの日々を強要されました。

 

 

いつしか楽しくてずっと弾いていたかったピアノ妹を苦しめる存在になっていました。

 

その苦しみは音に出ます。

 

私はその音を聴いていられなくなって、

 

 

「もうピアノ弾かんでええ!痛々しすぎるわ!」

 

 

といって、それを許さない親と喧嘩したことが何回もありました。

 

 

やがて妹は音大に入り、その先生から離れて間違いに気づき、少しだけのびのびとする時間ができ、楽しくピアノを弾いているのを見て私もたまに実家に帰った時などは妹の演奏によく耳を傾けたものです。

 

 

 

 

二日前

 

 

 

「猫、ここが『ド』やねんお母さん

 

「にゃ三毛猫

 

大学を出て、ピアノの先生をやることになった妹は三日後に控えた生徒さんの初レッスンに備えて私を練習台にとピアノを教えてくれました。

 

 

「なあ、ちゃんと教えられたかなあはてなマーク

楽しかったはてなマーク

 

 

不安そうに聞く妹。

 

初レッスンに備えてスタンプとか可愛らしい色ペンとか色々と買い足していて、レッスンにも様々な配慮がなされていました。

 

とっても楽しくて誰にでも分かりやすいレッスンでした。

 

 

「にゃ三毛猫

めっちゃ楽しかったにゃドキドキ

いい先生にゃ!」

 

 

と言うと、妹はパッと目を輝かせて、

 

 

「私な、めっちゃ苦しかってん。

音楽って音を楽しむってかくのに『音苦』やったから、これからピアノを始める子たちにはそんな想いしてほしくないねん!!

 

 

と楽しそうに語ってくれました。

 

 

 

前日。

 

 

 

福岡に住む一つ上の従姉と珍しく電話で一晩中話し込んでました。

従姉にも一つ上のお兄さんがいて、私も従姉も

 

 

「やっぱり兄弟の存在って大きいよね!

人生で一番長く一緒にいる家族だもんね!」

 

というような結論で電話を切りました。

 

 

 

当日。

 

 

 

転勤の辞令が下っていた私は引っ越しの準備をしながら夕方に釣りに行こうと車を走らせていました。

 

何かはわからないですが妙な不安感が胸にありました。

 

釣具屋に着き、携帯を見ると知らない番号から着信と留守電が。

 

留守電を聞くと実家の近所のおばさんからでした。

 

 

「妹さんが病院に運ばれたからすぐに来て病院

 

 

妹は急性腸炎で倒れたことがあったので、またそれかなあ、と思い、釣りに行くのをやめて実家から少し離れたところにある大きな病院へ直行しました。

 

 

守衛さんに名前を告げると診察室の先生のところまで案内してくださいました

 

 

 

「実は妹さんが首を吊られまして。」

 

 

お医者さんは淡々と私に教えてくれた。

 

よくこういうときにドラマとかでは取り乱したように、

 

 

「ええ!?で、容体は叫び

 

 

とか聞くシーンを見ますが、私の場合は違いました。

 

この段階でも妹は生きていて、馬鹿な事したなあ、後遺症とか残らなければいいけど…とか考えてました。

 

 

「で、妹は…?」

 

 

と私が言うと、

 

 

 

「お亡くなりになられました。」

 

 

 

とお医者さんは教えてくれました。

 

この段階でもまだ私の頭の中では事態をうまく呑み込めてませんでした。

 

お亡くなりに=たいそうひどいことに、くらいの認識です。

 

 

 

「妹はどこにいるのですか?」

 

 

とよく事情を呑み込めていないまま上の空でお医者さんに尋ねると、霊安室まで案内してくれました。

 

 

霊安室の前には父親がいて、母親の姿は見当たりません。

 

なんでも鎮静剤を打ってもらって別室で眠っているとのこと。

 

父親は顎でくいっと霊安室に入れという仕草をしました。

 

少しその態度にムッとして霊安室に入ると、そこには妹はいませんでした。

 

 

代わりに、

 

「かつて妹だったもの」

 

が横たわってました。

 

 

部屋のドアノブにリボンを括り付けて首を吊ったため、遺体は別に首や手足が伸びているわけでもなく、生前眠っている時とほぼ変わりなく。

 

顔や手に触れるとまだ温かくて。

 

でも目が…

 

瞼が半開きで、そこにある目は何もみていない、死んだ魚のような目でした。

 

 

そか…

死んでるんだな…

 

 

涙は出ませんでした。

だって妹の苦悩は本人から聞いたわけではないですが、親のことを考えても推し量るのに十分だったから。

 

だんだん冷たくなっていく妹にかけられる言葉は、

 

 

「お疲れ様。

よう頑張ったな。

そのうち生を全うしてから俺も行く日がくるから、またな。」

 

 

ちょうどいい具合に死後硬直が始まってきたので。半開きだった妹の瞼をこの手で閉じました。

 

 

 

死んでまで目を開けなくていいよ、

もう何もみなくていい

ゆっくりおやすみ。

 

 

 

妹はよく眠る子でした。

何気なしに妹の部屋を覗くとよく口を開けて寝ていました。

 

「口をポカーンと開けて、平和なやっちゃなぁにひひ

 

と起きてきた妹に言うといつも怒っていたのを思い出し、半開きの口も顎と唇を押さえて閉じました。

 

もしも葬式でこんな姿をしているとわかったら妹が恥ずかしがってまた文句言われたらたまらないからあせる

 

もはやその口から声を発することは永遠にないにしろ。

 

 

 

ここで私の思考は一瞬で切り替わりました。

 

 

死んだ者よりも生きている者!!

 

 

まずは母の容態を確認しなくては。

 

 

霊安室を出ると母がよろよろしながら妹の名前をうわ言のように呼んでいた。

 

この時確信したことが。

 

 

それは

 

「血は水よりも濃い」

 

ということ。

 

両親から虐待を受けて育った私は、いつか復讐してやると心に決めていました。

 

歳食って動けなくなってから覚えておけよ、なんてことを糧にして生きていた時期もあるほどに。

 

でも、こんな両親を見て、ひとりの人間としてそんなことができるわけない!!

 

ひどいことをたくさんされた、むしろ私の人生をつぶした張本人達、でもそれはそれ。

 

今は目の前にいる生きている両親と、これからのことを優先しないと!!

 

 

ここで私は感情を閉じました。

この段階で感情に流されて私まで動けなくなったら誰が動くんだ!

 

悲しむのも泣くのも後からできる。

今はこれ以上犠牲を出さないように。

 

 

動ける私が為すべきことを為す。

 

 

妹を霊きゅう車で実家に一旦連れ帰るとまずは母親を布団に寝かしつけ、親戚に電話しました。

妹はその後、大学病院に検視に回されました。

 

 

母方の親戚に電話すると、第一声が、

 

 

「なんか、その情けない声は!

今お前がしっかりせんと誰がとりしきるとね!」

 

と叱咤激励をいただきました。

 

確かにそうだビックリマーク

 

両親とも思考が停止している以上、私が全てを取り仕切ろう。

 

 

「おじちゃん、ありがとう。

じゃあ明日、こっちで会いましょう。」

 

 

電話を切り、すべての親戚に電話をしました。

つづいて妹の友人たち。

 

妹の携帯のパスワードを解読してロックを解除し、緊急で連絡を回してもらいました。

 

 

そして…

 

明日、妹の初レッスンの予定だった生徒さんのお宅に。

 

 

「夜分申し訳ございません。

実は明日のレッスンの件なのですが、妹が他界しまして…」

 

 

と私が切り出すと、

 

 

 

「ふざけたこと言わないでください!

いたずら電話にしても質が悪すぎます!

電話番号はちゃんと出ているんだから!

明日行って確認してくるのでもしも違ったら警察に通報します!」

 

 

 

と怒鳴られてしまいました。

 

 

いたずら電話…

 

 

もしこれが嘘だったらどれだけいいか。

 

しかしそんな感傷に浸っている暇はない。

 

葬儀屋に電話してきてもらうと母親が、

 

 

「あなたの教会でしてもらいたい。」

 

 

と言い出しました。

 

幼少のころ、よく妹と一緒に教会に通っていました。

妹は中学に入るとピアノの練習のために教会にはいかなくなってしまい、ずっと教会にいきたいな、と言っていたそうです。

 

当時私が通っていた教会の牧師に連絡を取り、教会専属の葬儀屋を呼び、細かい打ち合わせ。

 

 

次の日、父母の双方の親戚、妹の友人が朝からうちに来てくれました。

 

とりあえず両親のことは親戚に任せて、私は病院から遺体を引き取りに来てほしいとの連絡を受けたので、霊きゅう車を先導して妹を引き取りに。

 

 

親戚たちが布団を準備してくれていたのでそこに葬儀屋さんとともに妹を「置き」、親戚の女性陣で妹がコンクールで着たドレスに着替えさせている間に仕出しを頼むとほどなくして件の生徒さんが母親に連れられて実家に来た。

 

 

 

「本当は今日レッスンだったのにこちらの都合で大変ご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません。」

 

 

 

私がそう述べると、生徒さんの母親がまだ半信半疑な様子で一目妹を見たいと言われました。

 

玄関に並べてある靴の多さで本当のことと悟られた様子。

 

まだ小学一年生の女の子に遺体を見せるのは気が引けたのですが、お子さんが最後の挨拶をしたいとの強い希望だったので了承した。

 

 

 

「昨日の電話はお兄様だったのですね。

ごめんなさいね、あまりに急で信じられなくて…」

 

 

 

そりゃそうだ。

 

私だって信じたくないが、目の前にある光景、これは紛れもない現実。

 

 

通夜は次の日に決まりました。

 

 

あれこれと休む間もなくバタバタしていたら気が付いたら夜中になっていました。

 

私の役目は妹のそばを離れない母親に死臭をかがせないようにするために生前妹が愛用していた薔薇のフレグランスを鼻が曲がるほどに振り続けること。

 

集まってくれた親戚たちのためににありったけの布団をあちらこちらの部屋に敷き、母親が妹の横を離れないのでどうしたものかと思ったが、ホットミルクにハチミツを入れて無理やりのませて少しでも気持ちが安定するように試みました。

 

時間がたつのは早いもので、あっという間に夜が明けました。

 

結局その日は誰も眠りませんでした。

 

妹の遺体を霊きゅう車に乗せ、教会に運び込みました。

お棺の中に妹を移すと少しほっとしました。

 

あのままうちに妹を置いていたらさすがにフレグランスでは死臭をごまかしきれなかっただろうし、棺桶の中には保冷剤がたくさん入っているので遺体は傷まずにすむ。

 

いくら感情を閉ざしているとはいえ、私だって妹の遺体の腐敗が進み、死臭が漂うのは御免こうむりたいのであせる

 

死臭のせいで感情が戻ってしまえば私自身が動けなくなるかもしれない。

 

お棺に移された妹を見て母親が倒れたので牧師館まで背負ってベッドを借りて母親を寝かしつけました。

どうせ起きたらまたここにくるだろうから父親には母親の番をお願いしました。

 

親戚たちには実家に戻ってもらい、うちの番をしてもらいました。

 

 

私は牧師さんとスケジュールの打ち合わせ。

 

 

奏楽は妹の中学時代からピアノを共に学んでいた友人がぜひともと引き受けてくれました。

 

通夜には私の友人たちも来てくれました。

彼らのおかげで私もかなり心強かったですニコニコ

 

妹の元カレ(私の高校の先輩で私もよく遊んでもらってました)も。

 

正直に言うと、通夜での記憶はあいまいです。

 

何を歌ったか、何を話したのか、誰が来たか。

 

あっという間に通夜は終わって、人々が去ってから妹の横にずっといたのを覚えています。

 

そうそう、さすがに感情を呼び戻して涙を流しておかないと後々に影響すると思って泣こうとしたら両親が入ってきて泣けませんでしたガーン

 

あれは妹の

 

 

「私の横で悲しまないで…」

 

 

という願いの発現だったのかなぁ。

 

次の日、声が詰まって途中で挨拶ができなくなった父親の代わりに私が引き継ぎ、葬儀を終えて妹を火葬場へ。

 

最後の別れをし、火葬場の蓋が音を立てて閉まった時、何とも言えない気持ちになりました。

 

もうこの目で妹の姿を見ることは永遠にない、そう思うと涙が出そうになりましたが、幼少より

 

 

 

「男は親が死んでも人前で泣いたらあかんねん!」

 

 

 

と言われていたことを思い出し、上を向いて涙をこらえてました。

 

もし泣いてしまえば動けなくなってしまう。

 

 

数時間後、

妹は骨になってしまいました。

 

しかも焼き場の温度が高かったのか、骨は粉々に。

 

 

お前はこの世に何も残したくないのか?

 

お前の大好きだったピアニストはまだ来日してリサイタルを開くのに。

 

お前が好きだったDeenもまだやってるぞ。

 

一緒に三宮に遊びにいこうって約束したのを忘れてしまったのか?

 

 

そんなことを考えながらも私は母親が倒れて頭をぶつけないようにずっと支えていました。

 

案の定母親は気を失ってしまい、急遽ストレッチャーを用意してもらって横になった状態で母親の手に箸を握らせて採骨しました。

 

うわ言のように

 

 

 

「いやだ、、いやだ、」

 

 

 

と妹の名前を連呼する母親にとってこれはいかほどの拷問だったのでしょう。

 

 

しかしそれは私とて同じこと。

 

 

こんなに悲しんでいる人に無理やり箸を持たせて採骨させるなんて普通の神経ではできない。

 

しかしここでちゃんと遺骨を壺に納めないときっと母親は後悔して自殺しかねない、そう思うとたとえ恨まれようが泣き叫ばれようが、このような残酷なことでもできてしまうものです。

 

 

死んだ人間よりも生きている人間を…

 

 

バイクに乗っている関係もあるのかもしれませんが、この頃の私は同世代の者たちよりも多く死に立ち会ってきました。

 

この考えもそこで得た教訓なのかもしれません。

 

 

実家に戻り、骨壺とともに居間に置かれました。

 

 

すると母親が私に語り掛けてきました。

 

「お母さん間違ってないよね。

お母さんあの日、喧嘩したのよ。

お父さんも仕事辞めたし、うちで不機嫌そうな顔で空気悪いし、ピアノの先生になるよりも就職活動してちゃんとした会社に就職しなさいっていったら怒りだして…」

 

 

お~ま~え~かぁ、

妹を死に追いやったのは!

 

 

妹から普通の女の子が送るであろう学校生活を奪うだけでは飽き足らず、命まで奪ったのかっ!

 

妹にピアノしか見せてなかったくせにどういう神経でプンプン

そんなことをいつもの命令口調で言ったらどうなるか、それで何を悲しむか、

 

 

全部てめーらのせいじゃないか、この人殺しめ!

 

 

全くもって愚かとしか言いようがない。

 

 

内心腸が煮えくり返った。

 

親に手を上げたことはないですが、この時ばかりは母親のみならず、両親揃えて本気でぶちのめしてやろうかとさえ思ったりしました。

 

 

しかしここで母親を責めたところでどうしようもない。

 

 

そう、怒りをぶちまけて責め立てたところで結果はどうにも変わらないのだから…

 

怒りをぶちかまして妹が生き返ってくるならばそれこそ再起不能レベルまでぎったんぎったんにぶちまけてやる。

 

 

でも今もしそれをしたら、確実に死者を増やすことになる。

 

 

それでは心の中で人殺しと罵ったこの私が同じ穴のムジナになってしまう。

 

罪を償うことなんかできない。

 

犯してしまった罪をないことになんかできないのだから。

 

私が母親にかける言葉はおのずと決まっていた。

 

 

「お母さんは悪くないで。

妹もどうしようもない不安で袋小路にまよいこんでもうたんかもしれんね。

今はゆっくり休み。

いっぱいいろんなことが起こったから疲れたやろ?」

 

 

妹が苦しみから自殺したと認めたくないのは父親も一緒だった。

 

妹は肩こりがひどいから整骨院においてある牽引機をまねて誤って後ろによりかかりすぎて死んでしまった、と。

 

 

はぁ?

 

 

何を都合のいいことほざいとんじゃ、このおっさん。

 

 

てめーのせいで家族がどんだけ迷惑を被ったと思ってるんじゃ!

 

正直アホさ加減に閉口するしかなかった。

 

しかし、こんな二人を二人きりで家に置いておくことは非常に危険です。

 

この際、不本意ではあるが今住んでいるところを引き払って実家に戻ろう。

 

幸い転勤の予定だったので荷造りはほとんどできています。

 

会社に事情を説明して、理解してもらえたら残ればいいし、もし無理ならそれはそれで失業保険をもらってしばらく両親の面倒をみるということもできます。

 

 

私はすぐさま会社に行って事情を伝え、転勤はできないという旨を伝えたが、会社としても困る、何とかして転勤先に赴任してくれないか、とのことだったので、その場で辞表を書いて帰ってきました。

 

 

両親にそのことを話すと喜んでくれましたニコニコ

 

 

大学を出て以来、両親の顔をみたくなかったので実家に帰ることはほとんどなく疎遠だった私にとってせめてもの親孝行ができたのかな、と内心少しうれしかったのです。

 

父親から次の言葉が出るまでは。

 

 

 

「部屋は妹の部屋を使ってくれ。

前にお前がおった部屋は来客が泊まりに来た時に使ってるんや。」

 

 

来客?

私がうちを出る前から、そして出た後も、泊まりにきた人間なんかほとんどおらんやろ!

泊まりに来ても一階の居間に寝せてるやないか!

 

 

なぜに妹が首を吊った部屋で寝泊まりしろなんて発想が出てくる?

さしずめ誰もいなくなった妹の部屋というのを認めたくないのだろう。

 


なるほど、俺はそのいけにえか。

 

 

いやほんまにええ根性しとる。

こいつら揃いもそろってどこまで性根が腐っとんねん。

 

 

これが自分の親だと思うと情けなかった。

 

しかし、これはある意味私にとってラッキーでもあったんです。

 

警察が現場検証として妹の部屋を調べたとき、遺書はなかったという報告を受けていたのですが、万が一警察の見落としで、もしも遺書があって、親がそれをみつけたら…

 

私は真っ先に妹の部屋でなにかヤバいものがないか調べにかかったら…

 

 

案の定ありました!!

 

 

遺書を探し出すまで、ものの数分。

 

 

警察はどこをみていたのだろうか。

 

それは箪笥の上の書棚にありました。

どうやら妹はヤケを起こして昼間に酒を飲んだようで。

 

酒をあまり飲まない私とは違い、妹はよくお酒を飲んではしゃいでました。

 

 

 

もうどうしていいかわからない、お父さん、お母さん、ごめんなさい、

 

 

という趣旨の文面が綴られていました。

 

何とも言えない気持ちになった。

悲しめばいいのか、怒ればいいのか、それすらもわからない。

 

叫びたくても叫んだところで親が何事かと様子を見に来るでしょう。

 

とりあえず私は遺書をもう着ることはなくなった遊び用のスーツの内ポケに隠しました。

親が私の服に触らないことはよく知っているから。

 

これが見つかってさらなる悲劇を生まないために。

こんな親でも壊れていく様はみたくなかったし、なによりもう誰にも死んでほしくない、その想いがなにより勝っていました。

 



 そしてドアに垂れ下がっていた妹が首を吊るのに使ったリボンを真っ先に取り去りました。



たとえどれだけそれで親から恨まれようとも、そのリボンを見るたびに妹を思い出すことは精神衛生上よろしくないに決まっているからです。




それからの私は努めて明るく振舞って、なるべく両親を外に連れ出すようにしました晴れ

 

鬱になっている二人に必要なのは質のいい睡眠と日光だと知っていたから。

 

そして両親が寝静まってからストレスを発散するためにピアノが置いてある防音室で思いっきりギターを歪ませて爆音でかき鳴らしましたギター

 

 

妹はそれから何年も居間にいました。

 

 

死んだときの目をして、あの時着せてもらったドレスを着て。

 

私は時々それを見かけてはやりきれなくなって逃げ込むかのように防音室でギターを弾いてました。

 

しかし何より私をざわつかせたのは父親が眠るときに二階に上がってくると、決まってドアを一回コン、と叩いて妹の名を呼び、

 

「おやすみ」

 

ということでした。

 

私がいることはわかっているのに。

 

 

 

とまあ、こんな昔話がありましたとさ。

 

もしも今、死にたい人がいたのなら

 

このブログを読んでいるのなら

 

私はあなたの命の使い方にどうこう言うつもりはないし、説教するつもりもありません。

 

でもね、たとえ今借金で首が回らなくても。

 

本気で愛した人に手ひどく裏切られたとしても。

 

失業したとしても。

 

いじめに遭っているとしても。

 

孤独に苛まれてくるしくても。

 

受験に失敗したとしても。

 

 

どうせ人間いつかは死ぬんだから、何も焦って自分から命を絶つことはないんじゃないかなぁ。

 


だって寿命が残っていればどんなに死のうとしても死ねませんよ。

 

かくいう私も死のうとしたわけではありませんが、事故で内臓全般にダメージを受け、特に肝臓が破裂して出血性ショックを起こしてもこうして生きているわけですから。

 

臓器の後遺症はありませんが、膝を開放骨折したために今でも痛みが残ってます。

 


寿命が来るまで生き続けなければならないのであれば、少しでも快適なほうが良いのでは?なんて思ってみたり。

 


今回は「残された遺族」という立場で書きましたが、別にあなたの周りのしがらみのことなんて考えなくていいです。

 


そんなことを考える暇があったら、ゆっくりと睡眠をとってください。

 



元妻の父親からいただいた素晴らしい言葉があります。

 

 

「明けない夜はない。」

 

 

夜明け前が一番暗いんです。

 


今あなたがどん底なのであれば、それは夜明け前の兆し。

 


たとえあなたがステータスを失って借金まみれだとしても、一旦一休みして元気になればそんなもんバイトでもなんでもコツコツやってきゃいつかは返せますよ。

 


運命の人、と思っている人と別れたとしても、あなたが一休みして輝きを取り戻せたら「この人と一緒になってよかった。」と思える人の一人や二人、出てきますよニコニコ


これだけ人間があふれてるんだから。

 

受験に失敗したとしても、そのショックは大きいでしょうがあなたが思い描いているよりも人生の選択肢ははるかにたくさんあります。



親が落ち込んでる?


受験をしてあなたが落ち込むのならともかく、親は関係ないから放っておきなさい。



周りに顔を合わせるのが恥ずかしい?


あなたという存在は受験に合格することよりも遥かに価値があるんですよ。



周りがいい学校に行ってて自分だけ取り残されたような感じがするのなら、いい思い出を周りよりたくさん作って!



それができるかできないかは受験ではなくそのあとの過ごし方にかかってるんですから!

 


いじめにあっていて死にたい?


どうしていじめに遭うことになったんでしょう?



まず自分に問題がなかったか、近しい人に相談してみてください。  



問題がみあたらないのであれば、学校を変わるもよし、

 

問題があったのなら、そこを直していけば時間はかかるかもしれませんが、あなたがより素晴らしい人間になるチャンスですアップ



あ、もし誹謗中傷に苦しんでいるなら、なるべく自分を攻撃している人たちの文章をSNSなどで見ないようにしてくださいね。



気になるのはよくわかりますが、しょせんネットはネット。



そんなもののために現実をかき乱されたらばかばかしいですから。



ネットで何を言われようと、現実で何も言ってこないならあなたのリアルの生活には何の問題もありません。



ネットでいくらもてはやされていても現実世界ではニートで何もできない人ってかっこ悪いでしょ。

 

それにね、自殺しようとして生還した人の話を聞いたら、市に瀕した時、

 

 


「やっぱり死にたくない!」

 

 


って思うらしいですよ。

生きててよかったって。

 


かくいう私も小学一年生にして、




「もう学校なんか行きたくない!死にたいえーん




と言ったら母親から首に包丁を突き付けられたクチですがw


 

でもそれから一年後にはそんなことは言わなくなりました。


ていうか、




生きててよかったな




ってニコニコ



それは今この瞬間でも、

 




「生きてるって素晴らしいな、今日も生かしてくださって皆さんありがとう!」

 




って思ってるくらいです。

 






妹が死んでから私と両親の関係は改善しました。

 

 

時々これまでのことを何かの折に思い出すことはあっても、それを人に話して役立ててもらうことこそあれ、それで両親を責める気持ちは消え失せました。

 


そして父親ももうこの世にはいません。


父親の最期はそれはもう立派なものでした。


今でも父親の死に顔を思い出すことがあります。

 

それは「人生を生き切った」人間の死に顔。

 

その顔を見たとき、

 

 

 

ああ、この父親の子でよかったアップ

お父さん、ありがとう!

 

 

 

という想いがいっぱいあふれ出てくるほどに。

 

 

ご参考までに。

 

 

ありがとうございました!