12月1日 無世界論 「魂」と「命」の違い/ 「遷都」 /Amazonレビュー | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立。


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12月1日 無世界論   「魂」と「命」の違い/ 「遷都」 /Amazonレビュー

 

「3連続投稿記事」
①11月27日 日馬富士暴行とモンゴル民族について(11月29日 追記、12月1日 追記、12月3日 追記  伊吹文明先生吠える)

②11月28日 「日本滅亡と『平和』という地獄/日本再生の道」


■無世界論   「魂」と「命」の違い

 皆さんは命そのものや死後の世界について興味があるだろうか?
 哲学とは、そのような人類不変のテーマを解明していく学でもある。

 真の哲学者とは、生きることや人間それ自体に対して一般の人たちとは全く別の見方を持っていなければならない。
つまりフツーの人は真の哲学者ではない。
 私は大学生のとき、自分の部屋でシャーペンを持ち、その大きさが、置く位置によって変わるのであるから、真の大きさをとらえることはできないと考えた。

 その話は当時、父にも話したことがある。

 そして、それから20年以上経って、あきる野市の図書館で産業倫理について調べようと「図解雑学 倫理」という本を手にしたところ、非常に多くの共通点と啓示から、私が自分の前世ではないかと考え始めていたスピノザが「感性的唯物論」という、私と全く同じようなことを考えていたのを知ったとき、驚いた。

「理性の命じることをそのまま実践しようとしても、実現不可能である。
めざすところを実現しようと思えば、人間の感情、感性に適合(フィット)しなくてはならない。
 ・・・たとえば、太陽の大きさは、目(感覚器官)では直径10センチメートルにとらえます。

 目(身体)は誤ったのでしょうか? そう見えた、感じられたのでしょう。リアルです。」

(鷲田小彌太著 「図解雑学 倫理」 ナツメ社)

 スピノザはこのように理性認識(科学)はフィクションであると考えた。
 ところで魂とは「スピリット」と言ってもいいが、「死者の魂」という概念があるように、魂とは死んでもなくならない。
 しかし、科学の世界においては、人は、死ねば魂も何もかもなくなるのである。

 だが大多数の人は、科学だけを信じながらも、科学では否定されている死後を信じ、自分の魂の不滅を信じていて、あるいはきちんとした葬儀や埋葬を望み、死ねば自分が本当に楽になるとは思っていても、無になるとは皆目思っていない。
 もし本当にそう思うなら、誰も墓参りに行かないし、少なくともそのような人の方が多数である。

 他方、肝心のことはなおざりにして、メディアや産業界は、人工知能の分野にだけ興味を持つが、まるで彼らは、地球上にすべての私たち人間、命、魂がいなくなっても、人工知能だけの世界があればいいという、全くバカげたことを望んでいるようである。
 

 しかし、それでいて、にも関わらず、人は命と魂の違いについて全く明確に論じないし、皆目関心がない。
 だが、魂とは異なり、命は死ねばなくなる。
 そして動植物にも命がある。
 命とは、スピノザの影響を色濃く受けたヘーゲルの哲学において、もっとも妥当であるという考え方において、主観と客観、つまり私と外の世界との運動であり、自己還帰である。

「対象は…わたしたちの目には、…意識と同じように自分へと還っていっている。
…この自己還帰によって『生命』となっている。」
「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動…にある。」

(「精神現象学」 ヘーゲル著 長谷川宏訳 作品社)

 くしくも石原慎太郎元東京知事は「歴史が現実的である」というヘーゲル哲学をよく口にするし(正しくは「現実的なものは理性的である」)、小池百合子現都知事もまた、ヘーゲルの「アウフヘーベン」という用語を引用する(正しくは「否定の作用の真理をなす二重の意味云々」(ヘーゲル)であり、彼女の使い方は間違い)。

 たとえば皆さんには、いつも見慣れた景色があると思う。
 その風景を想い起こして欲しい。

 率直に言って、生前と死後では世界に対する捉え方が変わるだけである。

「意識と世界との区別はそれ自体としてあるような区別ではない」

(「精神現象学」 ヘーゲル著 長谷川宏訳 作品社)

 ほとんどの宗教には死後の世界があって、美輪明宏さんも関心がある(?)道教に至ってはかなり具体的である。それはともかくとして、われわれの生、命とは、そのような景色、外部との「関係のあり方」である。
 ―であるから、科学的に解明されない無数の心霊現象がいつまで経っても未だに何一つ解明されないのである。
 つまり生前と死後では世界に対するモードが変わる。
 そして「生」とは二つの矛盾した存在でもある(①と②)。

 つまり命とは、誕生したとき、無(命)が肉体によって閉じ込められた状態である。
 ヘーゲル哲学においては、全体の無から見て、①我々とはそれぞれ肉体によって閉じ込められた「制限」とか「分裂」であるが、それでいて、②外部との関わりなしには命としては存在しない。


「制限する力である悟性 (一般的な思考力や認識する力)は、人間と絶対者(神、命、無、ブラックボックス)との間に建てる自らの建物に…人間にとって価値があるものの一切を結びつけ…堅固にし、無限に拡張する。けれどもそこには、絶対者それ自体だけは見いだすことができない。
 ここにおいて絶対者に到達するのは、※理性である。
 部分としてこの建物にとらわれている生命の、…自由になろうとする努力・・・この生命が、理性として遠方へ歩み出ることによって、制限されたものの総体が同時に無きものとされる。」

※理性: 一般的な意味の「理性」ではなく、より高次な意味の「理性」。
物をとらえる悟性を廃棄することによって絶対者をとらえるのが理性。

(ヘーゲル著「差異論文」、引用は「ヘーゲルを読む」放送大学 高山守(元日本哲学会会長・東京大学教授) より)

 外部、つまり客観との関わりのあり方が命である。
 ―であるから、完全に死んだ生物に対して、どのような物理的な治療を施しても、完全に死んだ状態から、生き返ることは「絶対に」決してない。
 私と外部の世界との関係、つまり主・客のあり方<命>が破壊されたのだから、物理的な処置だけでは、「絶対に」元には戻らないのである。

 オギャーッと生まれたときから、大騒音と奇声を発して改造バイクを乗り回す若いころのような、①ほとばしり出る「生命エネルギー」を閉じ込めた生でありつつも、生きている形態、モードとしては、②―我々が各々毎日のように見る景色のように―外部との関わりが命である。

 そして、多くの人には科学では説明のつかないインスピレーションによって、いろんな言い尽くすことの出来ない才能、素養に恵まれ、ほぼ必然によってその生を生きるように、命とは、他の死んだ魂を含む外部との関係で「も」ある以上、大変複雑であって、命を失くすということは、単純にその人一人が死ぬのではなく、そういった生きている状態の人間が、インスピレーションを与える外部の死者の魂とのつながりを失うことでもある。

 つまり私と外の世界の間をグルグル行き来する意識、その運動がまず命であると見ていい。
 そして、そのあり方や、その運動を失うことが死である。

 そして肉体の破壊によって、死ねば生命エネルギーは、制限や分裂から解かれて、外部と一体化する。そこまでは普通の死である。
 死ねば我々はヘーゲル哲学で言う絶対無となる。
 ライプニッツの言う、不可分なモナドも、厳密には生きているときだけである。
 しかし、それ同時に個としての、外の世界との関係も失われる。

 命の喪失としてはこの関係の在り方の喪失の方が大きい。
 なぜなら、生命エネルギーの喪失は、動物もそうであるが、人間としての外の世界との関係のあり方は人間独自のものであるから。
 そういうわけで、我々は死ねば、在り方が変わってしまい、当然、動物も持つような生命エネルギーや感覚も失せる。
 だが死んでも、―多くの心霊現象が記録されているように―、魂は世界に在る。
 ただ、生きているときの存在とは、全く違う形態、モードである。
 よって、そのようなあり方をとらえることができることもあるし、できないこともある。

 我々が生きている感覚的な世界(日本中の人が盲信して、今や崩壊しようとしている科学というフィクションの世界は厳密には存在しない)は、世界の一つのあり方であり、存在の一つのあり方に過ぎない。
 ところで道教もそうだが、イスラム教はことさら死後の世界を重視し、生前よりも重要だと説く。
 しかし、死後の世界には、「感謝」(ヘーゲルも説いている)や申し訳なさ、「憐れみ」といった、他の魂に対する配慮が重要になってくる。ヘーゲルもまた私と同じことを言っているようだ。
 

「心の声や口をついて出ることばにこめられた感謝の気持は、…目に見える犠牲的行為がないかぎり、欺瞞(ぎまん)性が消滅することはありえない。…犠牲行為が目に見える形でおこなわれると、意識が自分自身の行為を放棄しているのだから、意識の不幸もおのずと意識から放逐される。…他人の意志へと配慮を及ぼし、意志を個の意志としてではなく共同の意志としてとらえる、という肯定面をももつのだ。」(「精神現象学」 ヘーゲル著 長谷川宏訳 作品社)

 

 また、キリストは「富める者が天国に行くことは難しい」と言い、美輪明宏さんや江原啓之さんは「死後の世界には何も持って行くことはできない」と言ったが、我々は個別的に見えて、全く個別的ではない。

 私は私のものではなく、ただの私一人でもなく、そして私ではなく、逆に私ではないものは何一つ存在しない。

  私は11月14日を以て44歳となってしまい、スピノザの没年を越えた。
  これより先の生とは、新しい旅である。






■ 「遷都」 (「日本滅亡と『平和』という地獄/日本再生の道」 追記)

 前回の記事は40,000字というアメブロの字数制限に合い、どの文章を削るかで相当時間を取ってしまい、書きたいことをうまく書けなかった。

 中国の脅威だ、財務省だ、グローバリズム政治家だ(日本には反グローバリズムの政党は存在しない)、と言っても、私の知人もそうだが、正直ピンと来ない人が多い。
 しかし、これ以上書いても詮無きことかもしれないが、総理のときに「格差社会、大いに結構」と言った小泉純一郎、進次郎父子とは、かつて石原慎太郎が大ベストセラー「『No』と言える日本」で、やり玉に挙げたソロスのような資産1兆円を超える外国人投資家や外資系企業をさらに潤わせるためだけに、日本の郵政、農協といった社会構造を破壊して、財務省によって極度に貧困化する日本人から、さらにお金を巻き上げるためのシステム作りに余念がないのである(川崎市議会議員 三宅隆介「政治家の主張にはそれなりの背景がある」  ←私は全く専門ではありませんので、こちらの方の文章の方が正確でわかりやすいかと思います。)

 

 主なアメリカ人投資家は次の通り。第1位 ウォーレン・バフェット(資産 8兆7200億円)、第2位 ジョージ・ソロス(資産 2兆9000億円)、第3位 カール・アイカーン(資産 2兆8200億円)。
  
 また、政府は独自の技術力を持つシャープや東芝を救わなかったし、技術力が海外(中国)に流れて、アメリカ人投資家や外資に利益が行って、「もう国家はいらない」(田原総一朗/堀江貴文著)とする左翼ジャーナリストがメディアを支配し、日本解体の道を突っ走っているし、中国は逆に独裁体制の下、AIIBと「一帯一路」で、ピンチに陥った国内の供給過剰を克服しつつ、北朝鮮の脅威を契機に懐柔路線に転換して、軍事力と国際的なプレゼンスとを日に日に増しているのである。
 三橋氏は今年10月に「2040年には日本は中国の属国となる。日本人は中国語を勉強した方がいい」と言い切ったし、私もそれに異の唱えようがないのである…。
 そして私の解決策、提言としては、かつての帝都東京を築いた財閥グループ、企業グループを再結集しての、多業種同時経営による都市開発、東京都量産計画、つまり日本の大企業の総力を挙げて取り組む必要性があると提言した。
 内部留保で不動産に投資して地方の土地を買い、集中的に鉄道を敷き、店舗を建てる…。

 無論、今の日本人は富者に対するルサンチンマン(なぜか世界の王たる外国人投資家に対するそれはない)で、財閥だ、企業グループだという話にはなかなかいい印象を持たれないかもしれないが、このまま経済成長ができなければ、中国との国力の差がさらに開いて、日本はかつてのベトナムやフィリピンのように領海を侵略されるのは自明の理であるし、アメリカ人投資家を潤わせつつ、グローバル政治家や左翼メディアと呼応して、早晩日本は食い滅ぼされるのである。
 無論、今から「第二の東京を作る」というのは途方もない話であるが、少なくとも東京だけに人が集まって地方が疲弊し、女性が子どもを産まなくなる状況を絶つために、新しい東京を選定して、国を挙げて築き上げていく必要性はある。
 私はむしろ、超少子化を生産性向上のチャンスととらえ、介護の分野を生産性向上や積極財政、賃上げだけで克服できるとする三橋氏を楽観主義者であると考えているほどであり、現実は、少子化も介護の人手不足も、道徳退廃によって、お金やイノベーションだけでは解決できないところまで来ていると見ている。
 また、私の前回の記事投稿直後に北朝鮮がミサイルを発射したが、もうアメリカは何もできなくなってきている。

 確かに何もせずに、経済制裁の効果を待つのが得策であるが、それよりも先に核の小型化に成功すれば、仮に北朝鮮が日本を核攻撃しても、同じ反日である中国や韓国がどこまで対抗するかわからないし、アメリカにしたって、本土を射程距離に入れられてしまえば、正確な位置を把握できないSLBMや移動式発射台の脅威もあり、おいそれとは報復だけのために核攻撃することは思えない。青山繁晴さんに言わせれば、99%以上は東京を狙ってくるそうである。
 少なくとも新潟のドライブレコーダーからICBM、火星15型が見えるくらいまで来ているのである―。
 第二の東京の話に戻るが、つまりは遷都

 2019年4月30日に今上天皇が退位され、翌5月1日に新しい天皇が即位されると同時に、東京を平成の天皇のための「古都」とし、これ以上の東京への人口流出、産業集中を防ぐため、新しい天皇のための新しい都を作る、と。

 無論、新しく都を作るのであれば、新しい文化や流行も生まれ、雇用も生まれ(人手不足ではあるけれど)、戦後日本が培ってきた技術力も維持される。

 そのためにも旧財閥系の企業グループのゆるやかな再結集が必要であるということを申し上げさせていただきたい。

 


■12月2日 遷都の追記

 遷都の第一義としては、首都直下型地震北朝鮮によるミサイル攻撃など、首都機能のすべてを東京の一部の地域に集中させるのは、極めてリスキーであるということ。
 パソコンで言うなら、バックアップも取らず、ウイルス対策もせずに、時代遅れのOSで、たった一つのハードディクスを使い続けているようなもの。
 また、天皇が代替わりし、元号が改まるタイミングで遷都をしないと、未来永劫遷都できない。
 ましてや東京は日本神道とは全く関係のない地。
 林羅山の朱子学という国民を支配するための儒教、士農工商の身分制度を強いて、皇室をないがしろにした徳川家康が都とした地であり、その家康によって禁教や鎖国、かぶき者(若者)の処刑も行われ、そして戦後の東京もまた、すべて「反日」、非道徳一色の新聞社、民放キー局と戦後知識人が牛耳る、ちゃらい文化と流行だけを発信する、ソドムのような場所。
 そして「平成」の時代とは、道徳が著しく退廃した、日本史上稀に見るおぞましい時代でもあるので、そういう「時代」と「場所」の両方の負の遺産を払拭するという意味でも、東京の良い遺産を残しつつ、一極集中を解消するために(もし日本にこれ以上未来がないなら話は別としても)、「千代に八千代に」続く日本の未来のためにも、新しい、別の地への遷都こそ、正しい選択であり、首都機能移転、財務省解体、反日メディア解体など、日本を蝕み続ける東京の負の遺産の解体こそが、新しい日本の未来に資するものである。
 

 

 

■12月2日 追記 道徳講演について
 道徳講演についても、「やらないとダメだ」という、相当立ち入った表現の、私の人生に立ち入るコメントが以前にあったが、まず、道徳講演に足を運ぶような人が児童虐待をしないので、そういう(美輪明宏さんの言うような)「気づき」のある一般の人ではなく、むしろ、メディアや公務員や権力を持っている政治家に対してやらなければならない。
 私の成人道徳教育の主旨はそちらであり、キリストに洗礼を与えたヨハネや日蓮上人に近い。
 また、そういう、社会に影響力のある人たちを説得することによって、社会全体に道徳観が波及するのである。
 私がやりたかったのはむしろそちらであり、先日の衆院選で自民が大勝した後、安倍首相は「謙虚」という言葉を連呼していたが、そのタイミングで、中川俊直や今井絵里子、豊田真由子のような政治家が二度と出てこないためにも、私による国会議員に対する道徳講演の提言をしたが、未だに返事はない。
 そして、まず道徳とは、時代錯誤の儒教道徳をやっていた籠池泰典理事長のように、「上から目線」であっては絶対にいけない。
 無論、私個人でも請われればやらないことはないが、お金目当てのために、率先して、というのはない。
 そして私は哲学者として、思慮分別がなくて、何でも言うこと聞く子どもに対して籠池氏みたいに一方的な道徳教育を請け負うつもりはない。
 日本でまず道徳教育をしなければならないのは、まず圧倒的に第一に、 メディア、公務員、政治家を中心とする「日本の成人」であるという信念は死んでも揺るがない。





■Amazonレビューに対するお礼として

 まず、11月27日から12月1日に至る3連続記事を投稿したのは、11月20日についた、吹雪さまからの私の自著「いま僕らに必要な道徳」に対する高評価と、ありがたいレビューに対する感謝の気持ちからである。
 無論、ブログにもたくさんのありがたいご感想が寄せられたが、こと日本の流通業界において、最も影響力を持つAmazonレビューでは、心ない誹謗中傷レビューが相次ぎ、私もこの1年はほとんどうつ状態で、大変な苦戦を強いられていた。
 

 10月14日。私がAさんとファミレスで会ったとき、Aさんから「発売後1週間後につけられた誹謗中傷レビューとはまた別の(2件め)誹謗中傷レビューがつけられていた」ことを知らされた。
 なまじ著者が無名であるなら、レビューそのものがつくことはほとんどない。
 だが、「1」という低評価に加え、的外れ、読解力不足、事実無根の罵詈雑言、本当に許されるものではない。
 たとえれば、皆さんが自分のお店を営業しているとき、四六時中、「この店はマズい」だとか「この店は良くないからやめろ」といった主観的な、事実無根のボードを店先で悪意の第三者に掲げられているようなものである。
 事実、電化製品のレビューで、「この機能がついていない」とか、「この機能の効きが弱い」といったような、客観的で、妥当性のある評価では全くないのである(詳細は 「12月1日 Amazonの誹謗中傷レビュー」)。

 但しAmazonでは厳しくとも、店舗に関してはそこそこ売れているのかもしれない。
 地元のイーオンの未来屋書店でも、春先に5冊置いてあったのが今は1冊になっているし、福生のTSUTAYAや西友のリブロでは在庫がなくなっていた。
今年の春先から見れば、店舗の在庫がだいぶなくなっている感はある。

 そして、11月25日にAさんと再会したとき、私は意を決して、道徳そのものと本ブログとをやめる意志を彼に伝えようと思った。
 これ以上、道徳に否定的なメディアや、著名人に対する道徳提言や献本は完全に無意味だし、市場のAmazonレビューも惨憺(さんたん)たるものであるから。

 …とは言え、Aさんにも諭(さと)されたが、冷静に考えれば、完全に論理矛盾した、たった二人の悪意によるものではあるけど。

 でも私は完全に孤立無援で、個人でやっているのだから「耐え難い」と。
 ところが会って早々、Aさんの方から開口一番、私に告げられたのは、吹雪さんという方から、Amazonレビューで高評価と非常に好意的な感想のレビューがあったという話だった。

 自著発売からなんと11ヶ月を経た、ありがたい朗報だった。
 吹雪さんは私のブログもお読みいただいているとのことであり、よって、私の感謝の気持ちとして、この度、3連続で記事を投稿する運びとなった。
 そして、無論、ブログを更新すれば、日ごろからブログを読んで下さっている皆様にも喜んでいただけると思った。
 この3記事では残念ながら、道徳の話ができなかったが、今後は新たに「道徳力」という本の出版企画書を各出版社に送付する予定であり、すべては出版社さま次第であるが、次回の出版につなげていければと思う。
 

 明らかに私の本を読んでいない人からの低評価と、支離滅裂な批判レビューがあったが、Amazonではレビューする商品を買わなくても、Amazonで一回でも何かの買い物をしていれば、誰でもレビューを書けるらしい。

 まして、本著「いま僕らに必要な道徳」は、2016年秋までの本ブログ記事の思想が多く反映されているので、私のブログを多く読まれている人でも、的確なレビューが書けると私は思う。

   → Amazonの私の本に対するレビューへのリンク 
 

 

 また、2016年末の発売後、年をまたいで正月に拙著に対して大変ありがたいご感想を下さったtrombone457 さまには、改めて心より御礼申し上げます。 

 そして、拙著をご購入、ご感想下さったtrombone457さま、NAOKOさま、CRIMSON RECORDSさま、mimona33さまに改めて心より御礼申し上げます。

 

                                       12月3日  高澤 一成

 

 

 

 

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