四月二十七日・金ヶ崎の退き口 | kan-sukeのアメブロ

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観劇した舞台のことなど書いていました。
2015年9月より、新たにブログを作成し
そちらをメインブログとしております。
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元亀元年(1570年)四月二十七日、越前の朝倉を攻めていた織田信長のもとに浅井長政離反の報が入り、撤退を開始しました。

ボクラ団義さんの『忍ブ阿呆ニ死ヌ阿呆』でも描かれていましたが、織田と浅井は信長の妹・市が長政に嫁ぎ同盟を結び、朝倉と浅井はそれよりずっと前から同盟関係にありました。しかし、織田と朝倉はともに守護大名・斯波氏の臣下だった家柄でいわばライバル同士。というより家の格では朝倉のほうが上であり、朝倉義景にしてみれば信長の上洛要請なんか知ったことかとばかりに無視していて、それを口実に信長は越前に兵を進めたわけです。

板挟みになってしまった浅井長政ですが、信長と同盟を結んだ時も「朝倉は攻めない」という条件を入れておいたのにそれを反故にされたというのもあってか朝倉との関係を保ち、織田を攻める道を選びました。一方、信長は「浅井離反」の報せを聞いても、最初は朝倉が流した虚報だろうと信じなかったと言われています。このブログでも何度か書いていますが、信長って歴史小説などのイメージとは違い、意外と人を信じやすくて結果的にいろんな人に裏切られています。で、市が贈った『袋入りの小豆』を見て自軍が置かれている状況を察し、全軍に撤退を命じるわけですがこのエピソードもなんとなく話ができすぎている感はありますね(浅井方にも袋入りの小豆の意味するものが解る人はいたでしょうし)。また、この時の撤退戦で秀吉が殿軍をつとめて見事に信長を逃がし・・・とあたかも秀吉一人の手柄みたいになっていますが、実際は明智光秀や、一説には徳川家康も殿軍に加わっていたと言われています。また、近江の豪族・朽木元綱を味方につけたことで越前敦賀から朽木谷を越えて京へ撤退できたわけですが、朽木元綱の協力を得られたのは織田軍に加わっていた松永久秀が説得したためと言われており、多くの家臣や盟友の尽力により、信長は最大のピンチを乗り切ったんですね。