12月29日・成瀬麻紗美さんの誕生日! | kan-sukeのアメブロ

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12月29日。

舞台『十二夜』や、11月と12月前半のミニシアター『アルイチニチ』に出演された成瀬麻紗美さんの誕生日です!おめでとうございます!

ミニシアターでは11月、12月ともに『女優というお仕事』が上演されましたが成瀬さんは11月は上野役、12月は大崎役でした。上野と大崎が対峙するシーンがあるので、11月と12月で逆のパターンを演じられるわけでそういうところを見比べるのも面白いですよね。


歴史的には、家康が徳川に改姓した日。

永禄九年(1566年)十二月二十九日のことです。

徳川家康の元の名は松平元康ですが、いきなり徳川家康になったわけではなくしかも元服当初は元康ではなく元信と名乗っていました。今川義元の『元』と、三河松平家の当主によく用いられていた『信』をとったんですね。

(『信』のほかに、『忠』もよく用いられています。家康の父も広忠ですし)

で、名将の誉れ高い祖父・清康にあやかり元康と改名し、あの桶狭間の戦いのあと今川から独立しますが、いきなり家康を名乗ったわけではなく、永禄六年(1563年)に松平家康に改めています。『家』は八幡太郎源義家からとった、とされています。

そして、徳川への改姓ですがこれは上野国・新田郡にあった得川郷に由来するというもの。自分は新田義貞の末裔だとして、あたかもそれが事実であるかのような家系図を作り、ときの関白・近衛前久の仲介で朝廷の認可を取り付け、さらに従五位下・三河守に任ぜられています。つまり、『徳川』は自分で勝手に名乗ったのではなく朝廷のお墨付きである。そして、三河守の官位も与えられている・・・おそらく、三河一向一揆が起こるなどまだ完全に三河を掌握していなかった家康が国人衆や寺社勢力を押さえ込むために自らを源氏の末裔としてそれを朝廷に認めさせたのではないか?というのが管理人の考え。源氏ということで、家康が征夷大将軍になった(なれた)という見方もありますがそれはたまたま。信長も秀吉も、征夷大将軍になれなかったのではなくなる気がなかっただけですからね。信長は征夷大将軍を断っているし、秀吉は征夷大将軍より格上の関白に上り詰めていますから。


というわけで、松平元信⇒松平元康⇒松平家康⇒徳川家康、となります。