見た目は精巧なロボットですが、要するにAIの暴走を描いたSFホラーです。

 20世紀には、ロボットやアンドロイドはヒト型の機械として、多くのSF作品内で人間の相棒的キャラクターとして描かれいましたが、あくまでそれは非人間であるけれど人格を有した一体でした。
 一方でコンピューターはというと、「2001年宇宙の旅」のHAL9000やテレビドラマ「ナイトライダー」のナイト2000に搭載されたK.I.T.T.(キット)のように基盤と筐体による思考のみの存在で表現されていました。

 ロボットと電子頭脳はSFにおいては異なるガジェットでした。

 ところが、21世紀になるとAIが日常生活に浸透するようになり、スマホであれ、卓上型筐体であれ、ヒト型ロボットであれ、本質はAIであるという認識になり、いかにも機械であろうが、人間にそっくりであろうと、ロボットの姿は筐体に過ぎないという理解になりました。
 ある意味、SFが現実化したともいえます。

「スターウォーズ」のドロイドも「ターミネーター」のT-800も前世紀的なのは、最初から高性能ロボットを開発された設定だからです。現代的なのは高性能AIを開発し、別ラインで開発されたヒト型筐体に搭載するという設定なので、たとえばロボットのプログラムや記憶回路へのアクセスも直接的ではなく、端末によって遠隔で行います。この端末での外部アクセスという手段が加わるだけで、ロボットはただの入れ物で、対峙しているのはAIだということになります。

 本作でもプロトコルやパラメーターといったAIに対する設計的説明はありますが、ロボットの稼働機能における説明はほぼありません。筐体がどの程度の能力を持ち合わせているかについて未知のまま物語が展開されていきます。

 子供の玩具として開発されたAIロボットが暴走して人を襲うという設定は、2019年公開の「チャイルド・プレイ」のリメイク版とまったくおなじです。
 リメイク版のチャッキーは、いわゆるインタラクティブ玩具です。

 現実世界では、1999年にアメリカで開発された玩具「ファービー」が日本でもブレイクしました。会話は疑似的でした。この会話を排して相互作用を実現したaiboを1999年にソニーがリリースしたことで、学習機能を生かしたシュミレーション玩具「たまごっち」などに展開されたことで「育成」が子供の遊びに加わり、ロボットよりもAIへ意識が傾けられるようになります。
 その後も、疑似会話が可能なロボット玩具は開発され続けますが、2007年の「Siri」から音声認識の品質が一気に向上し、2014年に「Amazon Alexa」がリリースされる頃にはAIへの信頼度も定着してきたように感じます。同年にリリースされたヒト型ロボット「Pepper」もヒット商品でしたが、2020年に生産が停滞しました。むしろファミレスの配膳ロボットの方が浸透している印象です。

 ヒト型の難しさは機能性だけではないように思います。

 人間の心理に「人形イコール怖い」があるためではないでしょうか。

 PCは怖くないけれど、人形はなんか怖いというのがある以上、ヒト型筐体の普及には常にこのデメリットがつきまとうような気がします。

「チャイルド・プレイ」はまさにそこを描いたホラー映画です。子供が遊んでいる人形だけれど、目が合うとなんかイヤだな……。そこから実は悪い魂が宿っていて、ナイフを握って襲って来るという展開になります。
 2019年のリメイク版は、疑似会話をする人形がAIロボットになったことで、人形の怖さが損なわれました。なぜなら怖いのはあくまでAIだからです。けれど、「チャイルド・プレイ」では原典があることから、そこまで振り切ることがなく、むしろターミネーター的な殺人ロボットという表現に終始してしまいました。

 まったくおなじ企画のようで「M3GAN/ミーガン」がまるで異なるのは、本作では恐怖の対象を明確にAIとしているからです。
 ホラー映画としながら、殺人シーンなどはほぼなく、前半はロボットのミーガンが少女の心を掴んでいく様が描かれます。
 少女のケイディは両親を事故で亡くし、叔母である主人公のジェマに引き取られます。ジェマは玩具メーカーで開発の仕事をしているのですが、子供を喜ばせたい職人が、子供と接せするのが苦手ということに違和感がありつつも、それ故に、母親としての役割をあっという間にロボットに奪われる展開になるところが秀逸です。

 そもそもSFにおけるロボットは、1950年刊行のアイザック・アシモフの小説「われはロボット」で一気に重要なアイコンとなります。
 ここで描かれたロボットは家事代行などの、人間の仕事を引き受け、生活を助けてくれる存在です。
 この感覚は日本人と欧米人とで大きくことなる点です。手塚治虫もアシモフのロボットから着想しているとは思いますが、我が子の代理としての「アトム」を描きます。やがてアトムは人類の友達となり、この友達ロボットという感覚が「ドラえもん」や「ロボコン」に継承され、プラモデルの「ロボダッチ」にまで繋がります。
 人間の代わりに働くのではなく、友達であるという感覚なので、欧米人に比べて日本人はAIへの脅威を発想しづらいように思います。

 本作ではAIの恐怖が暴走前から描かれるところが秀逸です。

 その恐怖は暴力的なものではなく、自分よりも遥に優れて、そして絶対的に正しいという「存在」の脅威だからです。高度な文明をもつ宇宙人が襲来する恐怖に似ています。人間の手によって生み出されたものが、簡単に人間の手を離れ、それが敵となる恐怖が本作の本筋です。

 そこまでは描かれませんが、子供がAIロボットを母親と認識してしまうと、そこから思想教育が可能ということになります。
 
 2019年公開の「アイ・アム・マザー」はまさにAIによって育てられた娘のアイデンティティの物語でした。「アイ・アム・マザー」の娘は人間であるという教育を受けていますが、そこの概念を捻じ曲げることも可能です。

 本作ではケイディとミーガンが共依存のような形になります。子育てをAIに丸投げすることでケイディの情緒が不安定になるなど、深堀りの可能性を感じる脚本が巧みです。

 終盤はミーガンの暴走が過激な暴力として描かれ、いわゆるモンスター系ホラー映画になりますが、続編の製作も決定しているということで、フランチャイズ化されることで、AIの脅威はもっと掘り下げていけるのではないでしょうか。

 撮影にはアニマトロニクスが使用されました。つまり実際にロボットを操作してミーガンを演出しているので、上半身や顔の寄りはとてもリアルです。
 当然、ナチュラルな二足歩行は不可能なので、そこは子役が演じています。要するに座っているシーンはロボットで、動くシーンは人間が演じているということなのですが、このロボットと人間の中間的な動きになったことで、ロボットの高性能さに説得力があります。