欲望は未だ俺を座らせない。
そしてひらめきは嵐のごとくやってくる。

 またやっと取り戻しつつある。知を取り込み、そしてどこかでそれを吐きださないと俺は居たたまれなくなってくる。例えストイックと形容されようとも、知識をただただ詰め込むだけでアウトプットできずにいたり、逆に新たな知に出会うこともなくそれまでの主張を繰り返してばかりいる時、そこに充実感はない。何かを得て、何かを与える、発信する。そうやって自我と非我のバランスを流動的に維持していないと、「この世界で生きている」という実感は次第に損なわれていく。人と関わっていないと生きられないんだ。水や血と同じで、知識というものも、流れていないと澱んでいく。消費するものではないのかもしれないが、利用することで利用価値は保たれ、高まる。


過去の投資を負債として処理するか資産として計上するかは、
発展途上にある中では今後の自分の行動次第だ。

 すっかり投資癖が染みていた。「バラマキ」とも言われかねないこれまでの投資を負債処理をするかどうか悩みどころだ。やはり答えは心の中にあるらしい。自分に金を使うことはまたしばらくやめよう。


the convinience of Japanese

 言語習得の最大要因は情報環境。なぜなら言語は情報環境に対するツールだから。俺からしてみればあまり認めたくないことだが効率的なことは確か。というのも英語だとか中国語も使う機会があった時はまだ話せていた気がするのだけど、その必要性がないと。記憶とはスタック式すなわちlast in first out=古いものほど出てきにくい。それで最近はもっと意識的に英語を使う環境を作っている。PCやネット環境はほぼ全て英語にしたし(mobileは以前から)、新聞も英字で読もうとしている(日経をそのまま毎日英語で読みたいんだけど意外に英字新聞の種類は少なくて困ってる)。そして徐々に英語で物を書く癖もつけようかと。
 なぜ俺は日本語で育ってしまったんだろうと思うことがある。世界全体がグローバルになっているということはmulticulturalの中での「すり合わせ」が課題であることは自明。ならば元々multiculturalなアメリカ式のstandardizationこそがその解であるということはもう必至だと思っている。英語が世界言語になるべきというのはもう仕方のないことで、各文化を重んじるならばそれは結構だが、共通項をどこかにつくらなければならない、と。俺は子供が日本語を話せないより英語を話せない方が恐い。日本の技術が世界に出れないのは日本語という言語構造に問題があるということも最近よく聞く。de fact standardになれなかったならば乗るだけ時間の無駄。
 ・・・こういったことを考えていた最近、英語と比較したときの日本語ならではの利便性にひとつだけ気がついた。それはビジュアルによる瞬間的な文脈認識だ。新聞をパッと見た時、漢字という、文字そのものに意味がある日本語は一瞬で文脈を把握しやすい。英字新聞の場合、どうも斜め読みには時間がかかってしまう。

 また、このstandardizationについてはこれからのICT社会についても言える。非常にダイナミックで、応用性のあるトピックだ。この話はまた今度。