大切なものが多すぎた。これじゃ変われない。


先日はゼミで臓器移植法改正の是非についてディベートした。

これまで15歳未満は国内での臓器移植が禁止されていたが、

①本人が拒否の意思表示をしていない
②保護者の同意がある
③保護者から本人への虐待がない
・・・場合に限り、移植を認めるという法案。(詳しくは調べてください)

結論からいえば俺は賛成。

 赤ん坊に意思表示が出来るわけがない。成長するにつれて主体的に行動できるようになるが、誰でも根本は保護者あるいは社会環境全てから教育を受けることによって自我が形成される。だったら本当の「意思」とは何か?いくら保護者といえども自分以外の命を決定する権利があるのか?と反対派は言う。だけど、その代わり子供には責任がない。親は保護する責任があるから権利がある。その命を生んだのが親ならば、もう昔のように笑ったり泣いたりする望みが無くなった子供の命を、次の誰かの命に繋ぐか、奇跡を信じて待ち続けるかを決めるのも親。

 脳死に対して語弊があったらまずいので追記すると、俺の話の仮定ではあくまで「脳死は原則、助からない」としていること。奇跡的に意識を取り戻したという話を聞いたような聞かなかったような気はするけど、そして今の医療がどこまで進んでるのかも知らないけど、あくまでそれは「奇跡」。多分この仮定があるから死を選択できる法律があるんだとも思う。奇跡を信じちゃいけないんだ。

あるクライマーは
「死の臭わない岩に興味はない」
と言った。
確かに死を忘れた社会は平和だ。しかしそれでは我慢できない男たちもいる。
死を感じる時こそ、人は良く生きる。

 生まれたての赤ん坊に主体性はない。意思はあっても、考える力がほぼゼロに近い。だから保護される。意思決定能力がない=意思決定責任がない=意思決定権が与えられない。守られてるから権利はない。子供は、親の一部だ。他人じゃない。一人前になるとは、成長してだんだんと親から離れていって、完全に分離することなんだな。俺も、こうして人間になるんだ。

責任を問われることが自由なんだ。