前回までの流れで

「名もなき感情」

「感情労働」

このあたりに触れてきました。


「は?なんだそれ」

となった方は、たぶん今ごろ

このメール閉じてソシャゲしてると思うので…笑


今こうして読んでくださっているということは

きっとどこかで

「感情労働」とか

「名もなき感情」とか

そのあたりに

チクッと心当たりがあった方なのかな?

と。



この、なんともいえない曖昧な感覚を

「なんかわかる…」

って通じあえたのならとっても嬉しいです。



んでですね。

その「感情労働」が積み重なっていくと

どうなると思います??



それが今の

「しんどさ」や「疲れ」の元。

…だけなら、まだいいんだけど。


残念ながら

それだけでは終わらないんですよね。


もう一段、ややこしいことが起きます。

それは

自分が物事を判断するときの

「基準」や「本音」が

自分でも分からなくなっていくこと。


最初はきっと

周りや家族のために

「良かれ」と思って

その場がうまく回るように

少し大人になって周りに合わせて

「あ げ て い た」はずなんです。


本当はお好み焼き食べたいけど

子どもがいるから「うどん」にしよう、とか。


本当は1人でカフェ行きたいけど

夫が嫌がるから「定食屋」にしよう、とか。


その、ちょっとした「よかれ」。

これ自体は、ぜんぜん悪くない。


でも。

それが長く続きすぎると

いつの間にか

「よかれ」が「当たり前」になって

「うどん」も「定食屋」も

“自分の意思で選んでいる”

ように錯覚しはじめちゃうんですよね。



うどんも美味しいし

定食屋もいいよ?

だけど本当は

「今日はイタリアンの気分だったな…」

って

どこかにあったはずの自分の好みの感覚が

だんだん分からなくなっていく。


例えるなら

イタリアンが食べたかったのに

中華のメニューだけ渡されて

「さあ好きなの選んでいいよ!」

って言われてる状態。


自由に選べる!!!わーい!!

って天津飯を選んでいるけど

そもそも本当に食べたかったの

それじゃないよね?って話。


最初の「選択肢」の時点から

「イタリアン」は選べない前提の自分の世界になっている。


何が本音で

何が気遣いで

どこからが「自分」で

どこからが「役割」なのか。


境界線がどんどん曖昧になっていく。


怒ってるのに笑う。

イライラしてるのに「平気」と言う。

本当は嫌なのに「大丈夫」と飲み込む。



それを

「我慢した」じゃなくて

「大人になった」

「これが普通」「これが正解」

だと思い込んでいく。


ちゃんとしなきゃ!!



でもそれって

大人になったとかではなく

自分の本音にフタを重ねてきただけ

なのかもしれない。


本当は「ある」はずの感情を

「ない」にし続けて

内側と外側がズレたまま

何十年も生きていく状態。


そりゃ

「ありのままの自分」

なんて分からなくなりますよね。


自分の本音?

ナニソレオイシイノ?


その「現在地がわからない自分」のまま

「もっと頑張らなきゃ」

「もっとちゃんとしなきゃ」

「期待に応えなきゃ」

と、立て直そうとする。


でも結局それも

自分のためじゃなくて

周りに合わせるための目標。


幸せになるためじゃなくて

見捨てられないための努力。


怖さや不安からの義務感まみれの

「~しなきゃ人生」。


だから

頑張ろうとすればするほど

「なんか違う」になる。


「こんなはずじゃなかった」

「頑張ってるのに満たされない」

「全然幸せな感じがしない」

そこで

コーチングを受けても

カウンセリングを受けても

自己啓発を読んでも

スピリチュアルを試しても

向き合っているのは

本来の自分じゃなくて

“役割としての自分”。


だから

いい話を聞いた気はするのに

数日後には元通り。


「やっぱり自分は変われない」

ってなる。


でも実は

変われないんじゃなくて

本音の自分が

「そっちにはもう行きたくない」

って

ブレーキ踏んでるだけかもなんですよ。


現在地がズレたまま

「変わろう」としても

それって

「もっと自分ではない誰かみたいになる」

って方向だから。


そりゃ

内側が「やめて」って言うよね、と。


と…

長くなってきたので

今日はここまでにしますね。



次は

「じゃあどうしたらいいんだい??」

の話、いきます。