いつの時代から

「専業主婦には価値がない」

「自分で稼がないと認められない」

「お金を稼がないと怠け者」

みたいになったんだろうな??



というのを考えるんだけど。



だって、江戸時代とまで言わず

大正とか昭和とか…

「専業主婦」って当たり前じゃなかったですか?



うちの母親もほとんど専業主婦だったし。

(何回か途中働いていた時期はあるけど
 
 家計を支えるためとかでもなく自分の暇つぶし的な…)



というのもですね。

セッションでお話お伺いしていると

特に女性側から


「稼ぎたいんです」

「最低◯◯万くらいは…」



「稼げない自分のままでは駄目なのでなんとかしたい!」

と言われるんだけど。



でも

「なんで稼ぎたいんですか?」と聞くと

(もちろんお金はないよりあるに越したことはないけど)

「生活のため」とか

「子供の学費がどうても足りなくて」

とかってことでもなく



「自分に自信が持てない」

「夫とフェアでいられない気がする」

「自分には価値がないように感じてしまう」

→ だからお金という見えやすい評価が欲しい



そちら側の声、多いんですよね。



もちろんそりゃ昔も今も

「誰のお金で飯食えてると思ってんだ!!」

なんてのたまうアフォもいるのかもだけど…



でもみんながみんなじゃないし

「男が稼ぐ!女は家庭!」みたいな時代だった頃の

「専業主婦」も価値がなくて肩身狭かったのかなあ。



というのもですね。

うちの母親が…ヤバイんですよ。


私、幼い頃は

父の会社の社宅に住んでいました。





クラスの大半(8割位上)でがその

社宅の子達で構成される独特な環境だったんだけど

社宅群だからか?

当時、「働いているお母さん」って珍しくて

ほぼほぼ専業主婦が当たり前みたいな環境だったんですね。


だから私も「専業主婦」って

当たり前だと思っていたんだけど

それにしてもですよ?


うちの母は父の働いたお金を

まるで全部自分のお金のように遠慮なく使うし

自分の服は高いの買うけど

父の服は適当だし・・


孫にお小遣いあげる時とかも

「はい!!」とまるで自分のお金のように渡すし。


どこへ行く

何をするとか決める際に

「お父さんに聞いてみないと…」

みたいなのも一切ないんですよ。



そりゃ日時の都合くらいは聞くけど

行っていいかどうかとかの

「了承を得る」という聞き方はハナから無い。




んで

それを許しちゃうくらいベタ惚れされて結婚したのか?

となれば全然そんな感じでもなく

お見合い結婚ですしね。


特別美人とかでもないし

巨乳とかでもないし…


なのに

あまりにもふんぞり返っているので

以前聞いたことがあるんですよ。



「なんでそんなに「お父さんに捨てられない」

 という自信が漲ってるの?」って。



すると心底「キョトン」とした顔して



「は?だって私はお父さんの子を産んだのよ?

 命がけで」


と。




いやいや??

子供産むってそんなに特別なことでしたっけ?

産む人もいれば産まない人もいるけど

それはそれで夫婦として別に関係な・・・




ん?

ある?




子供産んでいようがいまいが

お互いを尊重しあって・・



あれ?



いやいやだって!

子供産んだことを

「あんたのために産んであげたのに!!」

ってそんなの自分にも意思があって産んだ訳で・・



ん??ん??



子供産んだくらいで???



確かに命懸けなことではあるし

相手が同じくらい命懸けで何かしてくれたか?

となればそうでもないかもだけど・・

あれ?




んーーーーーーーーーーー?





って、その時の私は

(当時私はまだ独り身の頃でして)

全然母のキョトン顔が理解できず

「ヤレヤレだぜ…」

くらいにしか思ってなかったんだけど。






でも

なんかその時のことを

最近よく思い出すんですよ




【子供を産む・産まない】

というそこではなく。

それに価値があるとか無いとか

全然そこではなく。



それが例え

「毎日料理つくってるわ」とか

「相手の健康を考えているわ」とか

「一緒に年を重ねているわ」とか

「毎日愚痴聞いてあげてるし」とか

ほんと理由はなんでもいいんだけど。



あの時の母の顔的に

「私は誰かの付属物ではなく自分の人生の主役は自分」

「主人公なんだから居て当たり前じゃん?」

みたいな?

そんな確信みたいなものが

母の中にはずっとあるんだろうなあと。




だから、

「稼いでない自分には価値がない」とか

「私なんていなくても…居場所がない…」みたいな

誰かの人生ストーリーの脇役的な発想が

そもそもなかった。


もちろん今は共働きも主流だし、

経済的に自立することが必要な場面も多い。


でも、

「稼ぐ=価値がある」

「稼がない=価値がない」

っていう構図だけで自分を評価してしまうのって、

江戸とか大正とかはなんか違っただろうなって気がするし

それだけが本当に自分の“価値”なのかなと。



そこにモヤモヤしだした時

私にはまだ、

それをうまく言語化できなかったんだけど

手当たり次第学んでいく中でやっと

そのあたりが「言語化」できるようになっていって。



お金ってすごくわかりやすい

「可視化」でしかないんだなと。



他人にも自分にも。

「私はこのくらいの価値がある人間です!」って

視覚化できる道具として「お金」はわかりやすい。



でもそれって、

その後稼げなくなったら比例して下がる価値ですよね。

私達は自分を株価かなにかで評価されてる??

私達の株主だれよ。

…って話なんですよね。


料理を作る。

子どもの話を聞く。

誰かの感情を受け止めてあげる。

笑顔でいる。

病めるときも健やかななる時も一緒にいる。


そういうことって、

一見すると「金額」のような数字には換算されないから

可視化しにくいんだけど。

だけど「命」にとっては

めちゃくちゃ価値あることなハズですよね?



なのでうちの母のあの“ふんぞり返り”も

良いか悪いかは置いといて(笑



稼がなくても幸せ!とか

お金が全てではない!とかでは全然なくて

稼ぎたい人は稼げばいいし

お金はナイよりアルほうが便利なのは確かなんだけど。




「稼げない自分には価値がない気がする」

とか

「お金さえ稼げれば安心した居場所になるはず」

みたいなエネルギーの駆動力で動いている時は

「誰かの人生のサブキャラ」でしかないんだろうなと。



なんかそんなことを思ふなりけり。