「先生はもう辞めたと思っていました。」
外来受診した60代男性の患者さんにそう言われました。
さかのぼること2か月前。
珍しくほろ酔い加減で仲間とアメ横を歩いていると、その男性患者さんに出くわしました。
挨拶をして二言三言会話を交わし、お別れしました。
その夜、私は講演会でいただいた花束を持っていました・・・
後日、私のいない日に来院されて冒頭の確信に至ったそうです。
患者さんはこう考えたそうです。
あの夜は送別会で、若手医師に労ってもらい、花束をもらった。
辞めてしまったので、今日は違う先生が外来をしているのだ。
「人は物語を構築して認識する」
の典型ですね。
ちなみにアメ横の夜、ともに歩いていたのは若手でも医師でもない、私より年上の音楽仲間です。受診された当日は、もともと往診で外勤している日です。予定通りの医師が外来担当していました。
「花束をもらう」→「送別会である」
という論理式(?)が患者さんの考えの中にあり、そこに合致するストーリーが構築されていったわけです。もちろん、論理的に正しくないのですが・・・
物事を認識する際、自分も同じような過ちを犯しているかもしれません。
無意識で点と点を結んでいき、都合のよい、それらしいストーリーを作り上げている可能性があるかもしれません。
日々、多くの犯罪報道が流れます。容疑者の段階では推定無罪の原則が適用されなければなりません。しかし、実際には有罪確定かのごとく、偏向報道が行われているようには感じませんか?有罪を支持する情報ばかり報道されているような。本当に恐ろしいことだと思います。
できるだけニュートラルに、透明な存在になって物事を見るように心がけたいものです。
必ずスコトーマ(心理的盲点)があるはずですから。
『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション by アインシュタイン』