裁判員制度がまもなく始まろうとしている。
率直な個人的見解を述べるのならば、
僕はこの制度について否定的である。
勿論、現段階の裁判官制度を
全肯定しているわけでもないのだが。
まず、そもそもの裁判員制度を導入する意図がわからない。
民意を反映させたいと思っているのかもしれないが、
それは民意を汲むことが出来ないほどの
まぬけな裁判官だということを認めたもので、
今制度を導入するに至っても
裁判官は裁判に関与するのだから
質の向上を目指さなくてはならないはずなのである。
そして、何よりもプロ意識が欠如している表れといってよいだろう。
プロが素人の判断に委ね、助けを求める形となっているのが
わからないのだろうか。
そして、否定的ポイントの二点目だが、
ほんの数日間で人を裁くことができるのかという点である。
しかも重大犯罪における事件についてである。
人が人を裁くこと、そして、死刑を求刑することは
裁判員自身も苦痛以外の何ものでもないはずで、
できれば直接自らの手で人をあやめたくないという
心理が働いて当然なものである。
そしてそれが、99%の証拠によってその人が
犯人だと想定できたとしても、
残りの1%がそれを否定する要素があった場合、
冤罪の可能性も出てくるのであって、
「疑わしきは罰せず」
そういう心理が働いて当然なのである。
死刑では取り返しがつかなくなるからである。
検察、警察のずさんな弱いものいじめをする態度や
人選ばず「権利」を唱える頭の薄い弁護士。
そういう輩が唱える証拠や弁論を鵜呑みにし、
誰が100%の信頼ができるというのだろうか。
そして、一方で仮に犯罪者を無罪としてしまい、
野に放つことの罪の意識は自分からすれば、
犯罪者と同等というべきもので、
その罪については考慮する必要はなんらないのだろうか。
つまり、現裁判官のようにそういう罪の意識は持たなくても
良いという判断なのだろうか。
また、裁判員になった場合、
変な圧力はかからないのかと疑問を持つ。
犯罪者側の関係者、検察警察関係等
圧力といっても様々な形はあるが、
総称とする圧力をかける存在は通常の社会を生きていれば、
一度や二度は経験したことがあるだろう。
その中で救ってくれる存在は、役立たずで、
ないといっても過言ではない。
そして、それらのことも含めた問題を解決した上で、
その犯人の事件、背後、生い立ち、思考をそれぞれ吟味し、
「人の命」「人の人生」について、
ほんの数日で判断を下さなくてはならない。
自分からすればそのような人間が
この世に何人いるのだろうかと疑問を持つ。
ほんの一部の考えを述べただけで多数理由があるにも関わらず、
裁判員制度を導入するのは国家から個人への
自らの手で人を殺めたくないとする責任転嫁以外の何ものでもないと言える。
「裁判員制度に関する一考察」として今後も徐々に綴っていこうとおもう。