笹舟漂流記

終戦の混乱期を経て満州から日本に帰国するまでを綴った父のエッセイです。


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序章「鉄路」


鉄路

遠い遠い思い出の日々が、
これから北の大地に燃えながら沈みゆく夕日のように、綴られてゆきます。
凍った鉄路は月の光で銀色に光り、南へ一直線、闇の中へと消えている。
生まれたばかりの弟は母親のねんねこの中で眠っていた。
コウちゃんは四才か五才、手を引かれて歩いていた。
「寒いヨー」とベソをかいていたと思う。
母はまだ二十四、五才、夫婦喧嘩をして家を飛び出して来たのだろう。
時々降る雪の中をただ南へ南へと歩いていた。
いくら歩いても果てが無い、日本まで何千里もある。
異国の風は厳しい、冷たい............。
父は部屋を暖かくして待っていた様に思う。
裸電球の下にちゃぶ台が出ていた。




ヤッチャン


ヤッチャン

満州(今の中国東北地方)の冬は凍る。木も家も土も、空気迄凍る。
家の中は暖かい。しかし十二坪の広い土間と、
七坪の座敷に唯一のストーブが夜中には消える。
その日、コウちゃんは夜半過ぎに目が覚めた。お尻が異常に熱い!
「父ちゃん、お尻が熱いよー」
「ううん?熱い?」
「あー、焼けるよ」
となりに寝ていた親父が立って
「どれ、起きてみろ」と掛布団をめくったら、ボーッと火が上がった。
中国人の家は、冬にはみな座敷の温突(オンドル)に火を入れる。
一日中入れている所もある。
所謂床暖房であるが、これがなかなか暖かい。
「もう少ししたら灰をかぶせて」と言ったのを、
母親が間違えて粉灰をかぶせたらしい。
焚き口に一番近い所に寝ていたコウちゃんが災難にあった。
それから後はてんやわんや、そこら中が水びたしで眠れなかった。
明け方、遠くでドーンという音がして窓ガラスがビリビリと鳴った。
続けてドーン。又続けてドーン。
昭和六年九月。奉天市郊外、柳条湖で始まった満州事変。
それより三百五十キロ北の四平街市でも
関東軍が朝晩大砲を威嚇のために撃っていた。
ドーン、その度にびっくり。
巷には「東京行進曲」「紅屋の娘」から「祇園小唄」「女給の唄」と変わり、
藤山一郎の「酒は涙か」「丘を越えて」等が流れていた。
コウちゃんは五才。
九州の八幡を出たのが昭和四年だそうだから二年が過ぎていた。
翌昭和七年三月、満州国建国。
コウちゃんは「満州国四平省四平街市立四平街小学校付属幼稚園」という
長たらしい名の園に入った。
又この年は満州鉄道会社(通称満鉄)の社宅が新築されて、
やっと中国人の借家から解放された。
隣家に同年齢の越前屋安弘(消息不明)という珍しい名の子(通称ヤッチャン)
が居て大親友であったが悲しい運命の子でもあった(後述)。
素晴らしいスポーツマンで、特にスピードスケートは三年生の時にはもう学校の五位以内に入る位であった。
ある日、皆で大きな積木をして遊んでいたら周辺が急に臭くなった。
いたずら坊主の一人がヤッチャンのズボンの後ろをつまんでゆすったら
明らかにひっかぶっている。さあ皆が周りを廻りながら
「ヤッチャンウンチ。ヤッチャンクサイ」と囃したてた。
暫く黙って立っていたヤッチャン、
ズボンを脱いだと思うといきなりグルグルグルッと回転したから大変!
少し軟らかかったウンチが床・人・壁に向かって飛んだ!
ワッと園児達が逃げる。先生が飛んでくる。七十年前の一大事件。
後はどうなったか記憶に残っていない。




大事件


ギョーザ屋台


大陸の落日はすごい。
日本の数倍はある夕日がメラメラと真赤に燃えて、くるくる回る。
太陽は一色ではない。赤、黄、紅、黄金と丸の中で回る。
下部の地平線にかかる時は最高となる。家の影も木の影も、
影はみな真黒になる。感動そのものである。
日の出も綺麗だ。東の空が白くなり始めた頃、淡いピンクから赤みがかってくる。
雲が棚引いている時は又別の感激が生まれる。
何しろ山がないから一望一色である。
コウちゃんの部屋の窓は真東を向いていた。
その窓の向こうは五メートル程の庭を経て、五十メートル位畠で、
四車線の道路(市内の横の通りでは一番広い)を隔てて野球場があった。
この球場は冬になると高い土手で囲み、水を入れる。
深い所は1.5メートルにもなる。凍らせてスケート場にするのだが、
外側のスピードリンクが五百メートルもあった。
やる事が大きいが無料なので日曜日などは満員になった。
ある年の春、このスケート場で大事件があった。
氷が薄くなっていた箇所があったのだろう。一人の少年が落ちて亡くなった。
氷が割れて中に落ちると上下の感覚がなくなるらしい。
つまりどちらが上でどちらが下か解らなくなるらしい。
まして落ちた穴など捜せる筈がない。
それからは注意書きの大きな看板が立ち、監視小屋兼靴の履替所ができた、
滑れない時(薄氷・吹雪・霧等)には赤旗が立つようになった。
昭和八年、コウちゃんは小学一年生となった。
前の年十二月、
東京では白木屋デパート(現在の日本橋東急百貨店)の火災があり、
着物姿の女店員は裾が開くのを気にして縄伝いにおりる事ができなくて
焼け死ぬという事件があった。
今でも大好きな高校野球は当時全国中学校野球大会といい、
中京商業と明石中学校が延長二十五回の死闘をやった。
実に四時間五十五分かかり1対0で中京が勝ったが大変な試合であった。
又、ヨーヨーが大流行。
映画はサイレントより、トーキーの全盛時代へと移行した。
四平街は満鉄連京線(大連⇔長春)を挟んで東側を旧市街(90%以上中国人)、
西側を新市街(約50%が日本人、あとはロシア人、朝鮮人、蒙古人等)といって、
その真ん中に唯一の大きな映画館があった。
浪曲と芝居は中央公民館で絶えずかかっていたが、両親共、映画・浪曲が大好きで、コウちゃんはいつも連れて行かれた。当時、大河内伝次郎・田中絹代等が活躍し、寿々木米若・浪花亭綾太郎等は本人が来ていた。劇場は二階席もあり、上下共畳敷き、一階に六つの大きなストーブがあって
長い長い煙突がカギ型にのびて、二階が暖かかった。
昭和九年、清国のラストエンペラー薄儀が、皇帝となり、
満州国が誕生した。この頃の虚子の句
  

桐一葉日当たりながら落ちにけり

は何か将来を暗示しているようである。

 
        海浜抒情    (昭和十七年作)
    
     潮風に松かさも落ちて 
     浜の松はかなしけれど
     淡き陽の出づれば
     その影 縞の如く流れたり
     感情のおもむくままに松をかなしめど
     かくあてもなくさまよいて
     淡き陽の出づるに会えば
     わが影は唯一にして 淋し。


          
偶成        恍郷

そこここに鳴くものが居て初紅葉
呼んでいるあの人の声雁渡る
その女(ひと)は品良く老いて障子貼る

満州



ガキ大将

ラーメンの屋台
野球場より更に東へ百メートル程、雑草の中を歩くと、鉄道がある。
満鉄の本線、大連・新京(現在の長春)間の連京線である。
窓から勢いよく走る汽車を見るのは楽しい。
夜汽車は綺麗で、貨物列車は長い。
平野を走るから線路は一直線で、トンネルもないからスピードが出る。
大豆の収穫時期には一、二、三、四と数え百近くなる事も度々であった。
それでも機関車が二両はついていたように思う。
先頭が駅に停車しても、百両近い貨車はコウちゃんの家等の前を通り越して、
まだまだ郊外へずーっと続いている。
貨車の継足しと大豆の積み込みに何日も停車している。
そこへコウちゃんは袋を持って友達五、六人引き連れて、
「ワーイ、ワーイ」とよく行った。細い棒を入れて、下に袋の口を開けてつつくと、
面白いように大豆のこぼれたのが出てくる。
持って帰って炒ってもらい皆でおやつ代わりに食べた。
親が早く満州へ行ったので、子供は皆小さい。
コウちゃんは近所の年長者でガキ大将である。
小学一年生。担任は清水先生。
眼鏡をかけた三十代の細い色白の美人で、いつも着物袴姿だった。
他記憶なし。
二年は佐藤先生。小太りの可愛い人だった。
同級のガキ大将斉藤君が授業中に後ろからスカートをめくって
「ナーンダ、パンツはいてらあ」
と言ってなぐられた。かれはスカートめくりの元祖だと思う。
その佐藤先生は音楽の高橋先生と仲が良くて父兄会の評判であったが、
何故か三年の時の担任、奥坊先生と結婚した。
ちなみに音楽(唱歌とはいわなかった)、工作、習字は専門の先生が居た。
三年生から一組は男子、二組は女子、三組は男女半々となり、
何故か六年生迄組替えなしであった。
担任は神庭先生(福島出身)、剣道三段の豪快な先生。
昭和四十二年没。戦後やっと連絡がとれたのに間もなく亡くなった。
奥様からは、現在も年一、二回便りがある。
先生の寒稽古は厳しかったが、後のぜんざいが楽しみで、
日曜日には剣道部全員皆先生の庭に集まった。
後で分かった事だが、
小学校には二年先輩に女優の赤木春恵さん(本名)がいた。
五年生の時、支那事変が始まりコウちゃんの親父さんが、
軍用列車と民間列車の操車の為、北京と山海関(万里の長城の起点)に
一年間出張した。帰ってからの給料に百円札が混じっていた。
嬉しかったのか、子供達に廻してくれた。
コウちゃんが電気にかざして透かしが入っとると言った。
他の札は入ってなかったのかな。




特急『あじあ』

馬車
昭和九年十一月、
満鉄の世界に誇る特急あじあ号がハルピン~大連間を走った。
「夏休みになったら一人で大連の伯母さんの所へあじあ号で行くか?」
と親父さんが言ってくれたので、
コウちゃんは嬉しいのと不安で夏休みまでワクワクしていた。
新興国満州の動脈を、濃藍色の機関車が
軽快な純白のカラーバンドを巻いた淡緑色の客車六両を牽引して颯爽と走る。
これはわが国の鉄道車両の概念を破り、近代科学の粋を集めたものであり、
使用された材料はすべて日本又は満州国産で
制作費は一編成列車わずか五十万円であった。
当時(1934年)の世界の急行列車は
  
  ユニオン・パシフィック(米国) 時速 144km
  ツェファー(米国) 時速 144km
  フリーゲンデル(ドイツ) 時速 124.7km
  あじあ号(満州) 時速 87.7km
  ツインチー・センチュリー(米国) 時速 87.2km
  つばめ(日本) 時速 66.8km
  光(日本) 時速 49.1km

であるが、アメリカとドイツのは三両編成でディーゼルエンジンであるので
比較にならない。
あじあ号は蒸気機関車であるのみならず、
全客車に完全エアコン装置をつけた。
これは当時ヨーロッパでは皆無であり、アメリカでも特殊な客車、
食堂車に限りつけてあった。

大連まで一本線とはいえ、直線距離で鹿児島~大阪間に当たる。
小学三年生のコウちゃんはホテルのような車内に入った。
大陸の鉄道は広軌だから通路でも二人並んで歩ける。
窓が開かないからホームの母ちゃんが何を言っているか分からなかったが、
午前九時列車が動き出した。
電信柱が続けて飛んで行く。機関車の煙が時々景色を隠す。
速いなあとは思ったが、いつまでも同じ景色である。
幸いに前に座った紳士が好い人で色々とお話をしてくれた上、
お昼は食堂車に連れて行ってくれた。
初めて食べたカレーライス、肉もジャガイモも大きい。
うちで食べるのはライスカレー、肉もジャガイモも小さいし色も違うと思った。
アイスクリームもほっぺたがとろけるようにうまかった。
大好きなウエハースも付いていたしお蔭で持って行った弁当は
大連まで行ってしまった。
その上しゃれたユニホームを着た金髪のロシア娘のウェイトレス達が、
若鮎のように溌剌とテーブル間をぬってサービスする。
あじあ号にはもう一つ思い出がある。
中学三年の時、奉天駅のホームで当時の大女優李香蘭に会った。
戦後の参議院議員山口淑子氏である。



暑く、そして寒い

御存じのように、大陸の夏はすごく暑いが、陽の当たらぬ影は涼しい。
特に木陰は涼しいが陽の照る場所は優に40℃を超す。
道路に出るとまるでフライパンの上で焙られているようである。
アスファルトがぶつぶつ滾って側溝に流れ込んでいる。
帰宅すると靴の裏にべったりコールタールがついている。
日本のように景色の好い海や、緑濃い山川が近くにあるわけはない。
海は大連まで、川はハルピンの松花江(スルガリー)まで行かなくては
海(河)水浴は出来ない。
勿論川はある。奉天(現在の瀋陽)には渾河(コンガ)。
四平(昭和十二年、四平街市が四平市となる)には北野河という大河があるが
樹がないので泳いで上っても暑くて休む所が無い。
北野河には平野を流れる川に珍しく、川岸に沿って百メートル位続く崖がある。
何千年か昔洪水があって近くの丘を削ったらしい。この崖を掘ると時々、
綺麗な石が見つかった。赤・青・白・紫と面白かった。
皮袋に入れて大事にしていたが、
弟のカズちゃんが引船船の甲板から海に落としたと泣いていた。
翡翠・水晶・アメジスト瑪瑙だとコウちゃんは今でも思っている。惜しい事だ!

冬はすごく冷たい(寒いではない)。午前七時半マイナス25℃以下になれば
小中学校は何の連絡がなくても休校である。
30℃以下になれば市電・バスがストップする。
尾篭な話で申し訳ないが、面白いのはトイレである。便槽が非常に深い。
大人が入ってバンザイしてもまだ大分汲取口にとどかない。
何故そんなに深いかというと、
大人も子供も同じ方向にしゃがむと落ちる所は大体同じ所なので、
そこに凍って固まる。
次の人が又その上に固まらす。その次の人が‥‥‥という訳で
鍾乳洞の石筍のようなのが段々と伸びてくる。
これが見えてくると不気味なもので怖くなって市役所に電話する。
衛生係の人が二人箱型の荷馬車を引いてやってくる。
便槽の中に梯子をかけて入りツルハシで根本を掘って
黄色い柱をヨイショと外に出す。他の人が取って荷車に抛りこむ。
きたなくも臭くもない、清潔?なものである。
ただ困るのは我々見物人の方へ時々ツルハシを打ちこんだ時のかけらが
飛んでくる事だ。余りのぞかないようにと言われた。
襟元にでも入って溶けたら大変だから。

      秋
 草原の色をなくして 弱々し陽は斜め射す
 楡の影徐々に伸びてきて わが歩む足に届きぬ
 紅に雲照り染めて 陽は沈む山の彼方に
 芒の穂やわほほけたち
 みはるかす木立葉もなし
 唯一人野面に佇てば 人の世の騒音もなくて
 自らの心を見つむ 我が影も遥かに長し
 寒々と夜の調べの 遠くより聞ゆ気すなる
 陽は半ば山に隠れて あかあかと終(つい)の吐息す
 山の影暗くきわ立ち 陽はすべて山に沈みぬ
 家も木も影濃くなりて わが袖を吹く風空し




食い気

サンザシ売り
昭和十一年、渡辺はま子・美チ奴が「わすれちゃいやよ」「あゝそれなのに」等
甘い歌を唄っていたが、二・二六事件という大事件があった。
又暖かくなった頃、阿部定さんが男の恥部を切り取って、
大いに大人達の話題になった。

昭和十二年、朝日新聞社の「神風号」がインド経由で三日目ロンドンに着き、
ヨーロッパと東京間の空路を開き世界を喜ばせた。
しかしこの年、支那事変勃発!

昭和十三年、淡谷のり子、ミスコロンビア等が活躍、しかし氷の一月、
女優岡田嘉子が彼氏とサハリンよりソ連へ脱出。又々大騒ぎ。
当時ジャムパンが十銭、マッチ小箱十個入りが十二銭、
餃子が十個十銭であった。
それで一円持ってよくお使いに行った。一円で餃子が百個くる。
包子(パオズ)は小さい肉マンのこと、肉とニラが沢山入っていた。
値段は何故か二個三銭。
タンホワルはさんざしを五、六コ竹串に刺して飴をかけたもの(挿絵)。
チエゴは粟餅で直径八○センチ位あって薄く切って計量し砂糖をかけて
渡してくれる。この二つの菓子の字は知らない。
月餅(ユエピン)は近年、我が国でもよく見かけるが、
まんじゅうが種々あるように、味、香り、中に入っているもの、
所によってみな違う。日本で売っているのも関東・関西・九州と味が違うようだ。
月餅は高級菓子でお祭りにピラミッド形に幾段も重ねて
仏前又は神前にお供えする。
従って十段位になると一番下は直径四○センチにもなって高価なものになる。

中国東北部のやなぎは柳より楊の方が多いようだ。
並木はポプラ、アカシヤがよく知られている。
楡(にれ)、杏(あんず)、棗(なつめ)等皆想い出深い樹であろう。
楡の大木の下には必ず屋台店が出ていた。
畳二帖程の台の上に干菓子、果物等が並べてあり、
時には野菜やパン等も置いてあった。
店番には子供が一人か二人つくねんと坐っている。
真夏には大人が側でアイスクリームやアイスキャンディーを売っていた。
面白いのは凍り梨である。
直径10センチ位の小さな梨だが生では固いしガリガリでうまくない。
まるで木を齧るようだ。これを冬凍らせておく。凍ると真黒になる。
春になって解けて柔らかくなると非常に甘くなるから不思議だ。
かれが見かけは悪いが美味しい。

小学校に行く途中にロシア人のパン屋さんがあった。
ウィンドーにソーセージやハムがぶら下げてあった。
中に直径三○センチ、厚さ五センチ位の赤いものが下がっていた。
時々形が少しヘチマのようになったり、ヒョウタンのようになったりしたが、
すごく美味しそうに見えた。
何年もいつかあれを食べたいと横目で見ながら学校に通った。

五年生の正月、ハルピンの叔父が遊びに来た時、
「学校の成績がよかったそうだな、ごほうびに何か買ってやる」
とコウちゃんを町に連れ出した。
この時とばかり、例のロシア店の前で「あれが食べたい」と言うと、
「ナニ、あれか。変な物が好きなんだな君は」と言って
「よしよし帰りに買って帰ろう」というわけで帰り途その店に入った。
叔父が主人に「あれを四分の一程くれんかね」と言った。
パンと一緒に買って帰り、薄く切ってパンに挟んでくれた。
胸躍らして食べたが余りうまくなかった。
五年間の憧れのものはチーズだったのである。



初恋?

六年生になると受験勉強が始まる。
しかし、今の子供達に比べると期間も一日の時間も楽なものだ。
四平小学校より二人だけ奉天第一中学校に合格した。渡辺君とコウちゃんである。
渡辺君は敗戦後明大を経て大蔵省に入った。
彼の家は歯科医院であったので、歯科医の長男が公務員になり、
準公務員の鉄道員の長男が歯科医になった。運命とは不思議なものである。

間取り図
中学校に入ると親元を離れ瀋陽城の中の伯父の家に預けられた。
中国の城は日本や欧州の城とは違い、町全体を高い城壁で囲み、
真中に宮殿がある。
瀋陽城は約五キロ四方の真四角で東西南北に二車線両側歩道付という
大きな道路が通っている。
数百年の歴史を有し、今のように自動車が走ることもない時代二車線は広い。
現在の四車線以上と思う。
従って東西南北に二つずつ計八つの大門があり
門上の楼閣から見る眺めは素晴らしかった。

伯父は京劇のオーナーだった。自宅の二階の一部屋に押し込められた。
コウちゃんの部屋は一番広く十坪もあった。
机と椅子と洋服ダンスがあるだけの板張り道場のようだった。
しかし道路側だったのでバルコニーがついていた。
好かったのは廊下を挟んで前の部屋(三室続き)に母娘が女中を一人連れて
住んでいた事である。
この女中は当時でも珍しい纏足(てんそく)をしている。
纏足とは七、八百年前中国の漢民族の王侯貴族後宮から始まった事で
女の子が生まれると小さい頃から布を固く足に巻きつけ、
足の成長を止め、細く小さい程美人だとした風習である。
南北朝時代より一般的になったが、もう随分昔に廃止された筈であったのに。
コウちゃんは一度でいいから見せてくれと頼んだら、
鞋(布製の靴)だけ脱いでくれたが布の包帯はとってくれなかった。
歩くのはヨチヨチと外股乍ら案外速く歩いて、
家事・お使い等こなしていた。

娘はコウちゃんと同じ年令だが、事変によって遅れたので
まだ小学校三年生であった。
これがすごい美人で(可愛いではありません)
小肥りの母親に(太太タイタイ~奥様の事~と呼ばれていた)似ずすらりとして、
未だにこれ以上の美人に会った事はない。
名前を李宝珍(リー・パオヂン)といい、
後述するが皇帝(映画ではラストエンペラー)の遠い親戚になるということだった。
どこからか毎月仕送りがあるらしく裕福に暮らしていた。




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