息子のコウマ@15歳、染色体異常で自閉症
支援学校高等部の入学に備えて、漢字の練習は小学校4年生程度に戻している。
「鏡」という文字を書きながらひとこと。
「この字、好きなんですよ。かねへんに、おわりと書いて、カガミ。」
「サカイ、マツリがオワルと言う意味ですよ」
どの辺が、オワルなのか?全くわからない。
オワルは、「終わる」しか思いつかないのに。
かねへんに、終わる??一体何を言っているのだろうか?(むしろ、いとへん)
コウマの言っていることの大半は、私が習った常識と異なって意味がわからないことが多い。
それらは大半、「知的障害」として片付けられ何もわかっていない子として扱われるのだけれど・・・
本当に?たまたま気になって調べてみた。
鏡の金へんの右側は、一文字で竟(キョウ)。訓読みの中に(おわる)が確かにあった。
境界の境の字と同じように、さかいめと言う意味も持っていた。
加えて、漢検1級相当と書き添えてある。
なるほど、だから私は知らなかったんだなぁと。
画数が多い漢字は小学生で習うのに。少ないツクリの部分は漢検1級相当ということで。
漢字の勉強は、たとえ小学生に戻ったとしても新しい学びがあるのだと知った。
これのこと?
息子に聞いてみる。うれしそうに、そうそうと。
「卒業式の卒のような意味のある漢字なんですよ」と、教えてくれる。
コウマの言っていることは、しばしば意味不明で。
言語障害、知的障害、混乱、混沌、理解不能。
そんな言葉で片付けられる。
その、どれほどに意味があるんだろう、意図があるんだろうと。
時々思う。
相手と自分の知識が共有されていなければ、コミュニケーションは成立しない。
私たちはい平均的な知識量の中に生活していて、それらで困難が生じないから「常識的」な自分を信じて過信するけれど。
自らの知識を理想的なものとして、障害者としての息子の知識を下に見る癖のようなものは反省しなければならないのかもしれない。
自分の常識に懐疑的になることによって成立するコミュニケーションがある。
それは、私も息子も。
相手を見て、感じて、相手に少し合せることをことで心が通じ合う体験をこれからたくさんしてほしい。
これもまた、多様性、ダイバーシティなのかもしれないと気づいた、漢字の宿題の話。