『ビリー・ジョエル詩集』 なぜ、ビリー・ジョエルにはまるのか | 手当たり次第の本棚

『ビリー・ジョエル詩集』 なぜ、ビリー・ジョエルにはまるのか

久しぶりにビリー・ジョエルが聞きたくなって、帰りがけにCDを1枚買ってきた。なぜかというと、ちょうど聞きたかった数曲のうち、
アップタウン・ガールと、
あの娘にアタックと、
ピアノ・マンと、
オネスティが、
ちょうどこの1枚に全部入ってたからだ。

まあ、グッドナイト・サイゴンは手元にあるもう1枚……NYLON CARTAINにも収録されているのでダブってしまったけれど。
こちらには、アレンタウンとプレッシャーが入っているので、以上2枚をPCのHDDに入れておけば、自分のベストが作れるというわけだ。
いやはや。HDDに曲を入れると、聴きたい曲だけのリストを作るのが楽なのは驚くほどだ(笑)。

思えば、ビリー・ジョエルにはまったのは、高校の頃だったと思う。
なぜかというと、ちょうどこのころ、クラシック一辺倒から抜け出して、「それ以外のもの」も聴くようになったからだ。もっともあの頃は財布の中身が極度に不自由だったから
(それもそうだ、まずは輸入版の楽譜に、次はSF小説に捧げられていたのだから)
もっぱら当時はFM番組をエアチェックして聴いていたんだなあ……。
ポップスやロックも、日本のものより、英米のものを中心に好きになったのは、FMを利用したからだったかもしれない。

それはそれとして、なぜ、ビリー・ジョエルなのか。
もちろん、メロディラインが美しい、歌声が、音程をはずれていない、この2点が、凄く重要だ(笑)。
でも、何より、歌詞が良かった。
子供時代をもがきながら抜けだし、若者になりつつある、あるいはなったばかり、なっている最中。
都市で生まれ、都市近郊で育ち、貧乏ではないけれど、べつだん、上流ってわけでもない。
あたりをメチャクチャにしてみたいけど、
「そこまでバカになれねえ」
そして、なんかもやもやしたものがあるのに、うまくふっきれない。
ともかく、突っ走りたい。

そんな心境の頃、ビリー・ジョエルの歌詞が、きっと、ぴったりだったのだ。

では、そんな段階を抜け出しているはずの今、なぜ、もういちど聴きたくなるのだろう。
決して、それは、懐古趣味から来るものではないと思うのだ。
「若い頃は」
なんて、過去を振り返って懐かしむような齢でもなし(笑)。

不思議と、十代の頃、二十代のはじめとは、別の視点から見ているはずなのに、やはり、ビリー・ジョエルの歌は、とても等身大で、そばに立って話している友人の誰かのように感じられるんだな。

『ビリー・ジョエル詩集-1971-1986』は、ちょうど、そんな詩がたくさん入っている本だ。
単に歌詞を集めたものだろうって?
いや、そもそも、詩というものは、歌うために作られたものじゃないか。
だから、そんな事を気にしてはいけない。

しかし、等身大の、自分と同じような人物が語っているかのような「詩」、それが、たまらなく良いなあ、と思うのは、単にそれが等身大であるからではなく、その詩を読む誰かの心を
否定することなく、
ありのままの姿を通して、
誰もが同じなのだということを歌い、
それを通じてひとをなぐさめ、
そして、なにより大切なことには、
「それで良いのだ」と、だまって未来を指さしてくれること。

あからさまにではなく、さりげなく、そうしてくれるというのが、良い。


ビリー・ジョエル, 山本 安見
ビリー・ジョエル詩集―1971‐1986


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