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2009-01-31 20:52:43

『千一夜物語 (4) 』マルドリュス版

テーマ:神話・伝説・民話
前巻から続く、アラブの軍記物。
しょ~うじきに言うと、実はこれ、バートン版で読む方が良いと思う。なぜなら、比べた時、マルドリュス版の方が簡素だからだ。
登場人物も、戦場(など)の描写も、バートン版の方がかなり多い。しかもその量、後半ほど差が出ている。バートン版では、これでもかーっというくらい、
「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見よ」
的な、両軍から勇者が名乗り出る、闘う、キャラによっては「これだーっ」というような定番シーンが入る、というエンタテイメント性が、バートン版にはあるのだけれど、マルドリュス版にはありません(きっぱり)。
戦争がありました、その結果どうなったという事が、あっさりと流されてるのだ。

これは、もしかすると、物語をヨーロッパに紹介した人物のスタンスの違いなのかもしれない。
バートンは、ともかく面白いところを紹介するという心持ちだったらしく、必ずしも一定の版を底本にすることなく、場合により、違う版からのものを挿入しているからだ。
一方、マルドリュス版は、出来る限り使用した底本に忠実に紹介していき、どうしても補完しなくてはならないところだけ、最低限の補完をしている、という事らしい。

どちらが良いかは、もちろん、どういう目的で読むかにもよるけれど、そうだなあ……。
やはり、エンタテイメント性という事では、バートン版に軍配。

「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンの物語」 ~第145夜
……やっぱ、タイトル長っ。
さて、物語はようやく後半となり、シャールカーンをさしおいて王位についたダウールマカーンも、あえなくみまかってしまう。
唯一の救いは、謀殺ではないという事だろうが、それにしても計算するとダウールマカーンは50になるかならぬかという年頃。これは、14歳で国を出奔してから流浪を重ね、王位についてからは長い時間を戦場で過ごした過労からくるのだろうか。

とはいえ、このあとはいよいよ、ダウールマカーンの世嗣、カンマカーン王子が主人公となる。
ここで、とうとう、ダウールマカーンの姉王女を(なりゆきで)めとった、シャールカーンの元侍従長が、最初から示唆されていたとおり、野心をむきだしにし始めて、父を失ったカンマカーンは、このため、流浪の身となってしまうのだった。
そう、ここから騎士流離譚となるわけで……(でもって、このあたりがマルドリュス版ではかなり簡略になっているのだ。ちっ)。
しかし、カンマカーンの流浪が終わると、とうとうキリスト教国との最後の対決が始まり(ここらへんも簡略になっているのだが。ちっ)、その後は全部きれいに大団円(ここもちょっと簡略に……)、と読み手大満足、な結末が待っている。

「鳥獣佳話」 第146夜~第151夜
これは、語るべきことはあまりない。
アラブ版のイソップ物語というようなもので、ここでは、ドゥニヤザッドやシャーリヤール王が、「これこれこのような話は?」と次々求めるのに応じて、それにかなった動物の話が語られる。

「美しきシャムスエンナハールとアリ・ベン・ベッカルの物語」 第152夜~第169夜

後宮の寵姫と、ある王子にまつわる悲恋の物語。比較的短いものだが、どうしようもない悲恋をせつせつと描いている。
また、その仲介をする二人の男の、誠意と労苦と(教主に知られた時の)とんでもない危険に苛まれる様子が、なんともいえぬリアリティを添えている。

「カマラルザマーンとあらゆる月のうち最も美らしい月、ブドゥール姫との物語」 第170夜~第236夜
これもまた、ちょっと、「とりかえばや物語」的な恋物語というか、冒険物語で、遠くはなれた国に生まれた王子と王女が、それぞれ絶世の美しさを持っているだけでなく、なんとうりふたーつ!
どちらがすぐれているかをかわりに自慢しあう魔神と女魔神の競争心から、奇しくも巡り会った二人がこうむる不思議な冒険の話なのだ。
しかし、これの面白いところは、王子も王女もそれぞれ冒険をするというところで、どちらか一方だけが苦労するというわけではない。
二人とも苦労し、その結果最後にめぐりあってさらに幸せになるというのは、世界的に見ても、ちょっと珍しいのでは。


完訳 千一夜物語〈4〉 (岩波文庫)
1988年7月7日改版

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2009-01-30 17:46:07

『千一夜物語 (3) 』マルドリュス版

テーマ:神話・伝説・民話
千夜一夜物語、またの名をアラビアン・ナイト。
こういうと、なにやら官能的なものを喚起される事がしばしばあり、昔のB級(いや、C級?)ハリウッド映画のそれっぽいやつなんか、もろ、エロティックでエキゾティックなアラビアン・ナイト~♪ という雰囲気なわけだが(笑)。
物語の醍醐味を味わえるジャンルというのは、古来三つに大別されるわけで、それは、滑稽譚、艶笑譚、冒険譚であり、冒険譚のサブジャンルに堂々と輝くのが、今も昔も、戦争もの。
実際、ヨーロッパに騎士物語(本来のロマンス)があるかと思えば、日本には軍記物語がある。
物語だいすきーなアラブにそういうものがないわけない!

そう、ここから、千夜一夜の相当部分をがっつりと占める、アラブの軍記物語が開幕するのだ。
アラブではいったいどのような人物が、理想の騎士像であったのかは、この物語がつまびらかにしている。

「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンとの物語」 第44夜~第145夜(但し本巻は第129夜までを収録)
相変わらずタイトルはめっさ長い。
また、物語自体、すげ長い。
しかも、親子三代にわたる物語になるという、物語中に流れる時間からして、長い!
そして、面白い。
内容的には前述のとおり。もちろん、騎士道物語とも軍記物語ともテイストはちょっと違うが、どちらかといえば軍記物よりかなあ、と思う。
タイトルにある王様がおさめる回教国が、二つのキリスト教国を相手に戦争するというのが根幹だからだ。
とはいえ、その間に、王子と王女が放浪して一時は奴隷にされたり、
ここまで物語を読んできた人なら当然推察されるだろうが、合間合間に登場人物が語る別テイストの物語が入ったり、ここらへんは、西洋にも日本にもないスタイルだろう。
ある意味、総合エンタテイメント物語とも言える(笑)。

そう、当然だが、含まれているものは全て、聞き手が喜ぶような要素で占められているわけだ。
戦争! なので、敵国であり、宗教的にも宿敵であるキリスト教国の人物や風習が、くそみそにされてるのはご愛敬だろうが、このくそみそにするやりかたが、なんとも滑稽。悪意がないとは言わないが、憎しみは感じられないという、それどころか、敵には敵なりに立派な人物も登場するので、読んだり聞いたりしていていやになるような、むきだしの嫌悪感や憎悪はないのだ。
おまけに、イスラームが一夫多妻を認めており、とくに、古来有力者が多数の妻妾をかかえたという風習にのっとって、オマル王は、やたらとたくさんの女を後宮に抱えているとされるのだが、これがですね。
「あの王は処女好き」と凄い欠点が付せられていて、この欠点に忠実に(!)、かなーり、やっちゃいけない事をやっちゃうのだ。また、もちろん、そこを敵に突かれたりもすれば、それが原因でナニな事になるとか、大変。
主人公側の君主なのに、こちらもまた、ある意味、容赦なくくそみそに描かれている。
しかも、ほんとに、「それだめだろ」な事を何度もやっているにもかかわらず、話者は声高にこの王様を非難したりはしない。それにかこつけて、教訓を説く事もしない。
なんつか……敵の描写も味方の描写も、容赦なくかつおおらかという感じがする。

そして、またまたこれまでにも描かれてきたように、どちらかというと、登場人物を性別で比べた時、女性陣は賢く、教養高く、徳性にあふれていて、(そのためにまたいろいろと犠牲になっちゃうんだけど)、
男は情に厚いけれども、けっこうみんな、へたれだったりする。
たとえば、物語の途中、王女がその教養を、求められて披瀝する情景が、かなーり長く続いたり、王に献上される乙女たちが同じく自分たちの価値を示すために身につけた学問を論じるシーンが続いたりする。
もちろん、全てのアラブ婦人が学者であったわけはないが、少なくとも、このように教養高く賢い女性というのが、大いに賞賛された事は、わかる。
また、そういう教養的な話を聞く事が、アラブ人って好きなんだね。
こんなエンタテイメントな長編の中にも、きっちり入ってくるくらいだから。
……そゆのを読むのが退屈な場合は、もちろん、すっとばしてOK。
物語の本筋には、全く関わりのない教養話なので、「ああ、そういう女性なんだな」と理解すればそれですむのだ。

これに対して、男はどちらかというと、良くも悪くも感情の人(たち)。
美人には一目惚れ。
失われた命に対しては義憤に駆られる。
自分に罪ありと思えば懊悩し、別離に胸がふさがれれば、その悲嘆は限りなし。
さらに、イスラームの苦行者だと思いこめば、これを崇拝すること限りない。
はっきり言って、女性を別とするならば、ここに登場する人たちの中で冷静な人物は、王の宰相ただひとりというありさま。
しかし、彼らは決して、とことん柔弱なのではなく、おそらく、そういう豊かな感情をそのつど披瀝する事が、アラブ的感性に訴えるのではあるまいか。

日本にも、恋の病にやつれて死に至った人のエピソードが、平安時代などにはあるのだけど、ことアラブ人はそういうシチュエーション大好き。
恋に狂った詩人の物語、『ライラとマジュヌーン』なんて物語全部をそれが占めているといってもいいくらい。
まあ、心優しく知的な女性たちに対してバランスがとれていると言えるのかもねえ……。

「アズィーズとアズィーザと美わしき王冠太子の物語」
これも、当然、入れ子のように「オマル・アル・ネマーン王とその~」の中に含まれる物語なのだけれど、独立させて全然おっけー! なくらいのボリュームがある。
実際、第107夜~第136夜までがこの物語にあてられているのだ。
この物語自体は、前半が、アズィーズとアズィーザという婚約者どうしというか、その男の方の恋遍歴が語られ、後半はアズィーズと巡り会った王冠太子が、本命である王女(これが、めちゃ男嫌い)に苦労して求婚するという仕立てになっている。
はっきり言って、後半、男嫌いの王女様を攻略する方は、千夜一夜の中でも同じような物語があるし、他の文化圏でも登場するような、比較的類型的な話なので、興味深いのはむしろ前半。
アズィーズという若者、徳性高く非常に賢いアズィーザという従妹=婚約者がいるのに、なんとその婚礼の日に、とんでもない悪女にたぶらかされてしまうのだ。男のへたれぶり、女の献身ぶり、いろんな意味で涙を禁じ得ないが、アズィーズをたぶらかすダリラーという悪女の手口が、非常に面白いのだ。
男を誘惑するための謎かけにつぐ謎かけ、美しさと同居する冷酷さと残忍さ。
ひたすら堪え忍ぶアズィーザとの対比もさることながら、その「悪の魅力」は、むしろ典型的な貞女であるアズィーザを圧していると思う(但し、彼女の魅力は、あくまでもアズィーザなしでは輝かないのも事実)。
挿話の、しかも前段の登場人物であるにもかかわらず、ダリラーは忘れがたい。


完訳 千一夜物語〈3〉 (岩波文庫)
1988年7月7日改版
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2009-01-29 15:48:44

『千一夜物語 (2) 』マルドリュス版

テーマ:神話・伝説・民話
『千夜一夜物語』は、そもそも民話の集成と言われているが、とくにそれは、旅の間の野営地で語られたり、後には、街の珈琲店で、プロの物語師によって語られたと言われる。
もちろん、本にも書き残されており、多数の写字生によってたくさんの写本が残された。
これらは、全て、物語が「大人の楽しみのため」であった事を語っている。

実際、物語中でも、しばしば、なんらかの死を与えられる瀬戸際にある人の命をあがなうため、物語を語る事が行われており、王様にしろ、教主にしろ、あるいは魔物にしろ、ある者の命を握っている権力者は、興味をひく物語を語ってもらった代償として、命を取るのをやめるのだ。

面白いことに、他の文化圏にはあるような演劇、あるいは舞踊劇というものが、確立した芸術のジャンルとして、イスラーム圏にはないように思われる。
(あるいは、画像や彫像のような「偶像」を嫌ったイスラーム的なものの考え方が、そこにも影響しているのかも)。
ただただ、そのかわりに、人々は詩を詠み、物語を語る事を楽しんできたのかもしれない。

もうひとつ、付随して、これらの物語が権力者の前で語られると、それらは必ず、後世に残すべき含蓄のあるものとして、「金文字をもって記し、大切に保管するように」と命じられる。
また、語りだしとして、「これをまぶたの隅ににでも刻みつけておくならば、人の役にも立つだろう」というような意味合いの事がしばしば言われる。
もちろん、これらは、その物語が記録するに値するほどのものだ、という事を述べていると同時に、その文化圏の識字率の高さもそれとなく示しており、にもかかわらず、やはり物語は「語られるべきもの」である事を証してるのだ。

「「せむしの男および仕立屋とキリスト教徒の仲買人と御用係とユダヤ人の医者との物語-つづいて起こったことども-ならびに彼らがおのおの順番に話した出来事」 第24夜~第32夜
やたらと長いタイトルで、なんとなーくそこからも察せられる通り、幾つか入れ子状に物語が組み合わさっている(笑)。そして、これもまた、後半は、命を物語であがなう形式となっている。
ともあれ、ここでは幾つかの「下級市民」が登場する。
具体的には、うっかり殺されちゃったとされる「せむしの男」であり、異教徒であるキリスト教徒とユダヤ人。
彼らは、五体満足ではなかったり、あるいは「まっとうな人間」の第一条件である、イスラーム教徒であるという条件を欠いている(但し、キリスト教とユダヤ教は、「同じ経典の民」、つまり旧約聖書がイスラームを含む三つの宗教で大切なものであるため、それ以外の「偶像崇拝者」のように敵視されてはいない)ため、比較すると、正式な市民である(五体満足な)イスラーム教徒と完全に同じ権利は有していないし、場合によっては、罵られ遠ざけられる場合もある。
しかしながら、これらの人々も、おおむね、イスラーム社会で「いわれなき排斥や攻撃」を受けるほどひどく扱われる事はなく、むしろ公正に遇されている様子がうかがえる。
(ちなみに、仕立屋と床屋も、しばしば、悪い職業とか不吉な事のある職業として登場する)。
こういった、イスラーム教徒によって元来「なんとなーく不吉ぅ~」なにおいのする人々が巻き起こす、ちょっとスラップスティックなシチュエーションから物語が始まる。
発端は、仕立屋の奥さんの悪ふざけで、せむしの男が命を落としてしまった! というところから。
彼らをスタートに、何人かの人々が、殺人の罪に問われる危険を逃れるため、「死体」を別の人に押しつける企みをしていくというわけ。
……もちろん、彼らは、一般の人々より不吉ぅ~と思われているからこそ、こういう場合、警吏に目をつけられたら大変不利になるという前提があるわけだ。
勿論、自分たちの命をあがなうため、結果的に、これらの人々が面白い身の上や経験を語る事になるというわけだが、シチュエーションのためか、ここに語られる物語には、何か理不尽な理由で刑罰を受けた(または身体を損なった)ものが多い。
その中には、手を切り落とされるなんてものがあって、我々にとっては「うわ残酷」と思えるのだが、イスラームの宗教法(刑法を含む宗教的な法律集)では、なにかを盗んだ人は、手を切り落とされるという規定があるのだ。
冤罪とか、恣意的に用いられたとか、他の何かを隠すためにやむなくその刑罰を受けざるを得なかった場合の悲劇は想像するにかたくない。

「アニス・アル・ジャリスとアル・ヌールの物語」 第32夜~第36夜
手前のせむし男の話の中で物語られる幾つかのエピソードにもあるのだけれど、千夜一夜の中で語られる恋物語のヒロインは、「どんな酷い目にあっても、智慧を巡らせて主人公を助ける」しばしば自己犠牲的なタイプと、「手練手管で男を弄ぶ淫奔な女」の、二種類に大別される。
これは、前者のタイプに属する物語。このタイプの場合、たいてい、男はどうしようもないダメ男と相場が決まっている(いや、後者の場合もそうか)。
なんと申しますか、イスラーム圏(中近東)というと、女性をハレムに閉じこめて出さず、男の天下だというイメージが強いが、どうもイスラーム以前の時代から連綿として、良くも悪くも女が賢いという根強い伝統があるらしい。
また、男も、賢い女を喜ぶのだ。
少なくとも、千夜一夜の中で、ヨーロッパや東アジアに見られるような、
「女は何かを学ぶ必要はない(むしろ学ばずにいるべきだ)」
というスタンスをとる男は、全く登場しない。
また、宗教法などでも、他の宗教と比べて、女性は優遇されているように思われる。

「ガネム・ベン・アイユーブとその妹フェトナーの物語」 第36夜~第44夜
これは、ヨーロッパの宮廷風恋愛にかなり近いテイストの話。
お后の勘気をこうむった寵姫があわや企みによって殺されそうになるところを、美しく高潔な若者に救われる。もちろん、若者はその女性に手を触れる事を拒むのだが、「長い間一緒にいた」という事実から一時は命までも危うい状態となってしまい、と、そういう流れでだいたい察せられよう。
もちろん、結末は大団円で終わる。


『完訳 千一夜物語』(岩波文庫)
1988年7月7日改版
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2009-01-28 14:14:46

『千一夜物語 (1) 』マルドリュス版

テーマ:神話・伝説・民話
ガラン版を底本とした、いわゆる子供向けの『アラビアン・ナイト』が、おそらくもっとも人口に膾炙したものであろうと思われるが、この物語集を世界的なものとした功績をガランによせるとしても、彼がフランスからヨーロッパに紹介した時の時代背景をかんがみて、なおかつ、それがあまりにも、本来のエロティシズムを排し、無難なものとしてしまったという欠点も、あわせてあげなければならない。

これに対して、なるべくもとのものに忠実に紹介しようとしたのが、バートン版とマルドリュス版ではないかと思う。
バートンという人は、広くアジアを旅行し、自らの広範な体験をもとに、この物語を紹介するにあたっても非常に大量の注釈を寄せ、ある意味、この注釈が物語と同じくらい面白く、楽しいものであると言われている。
実際、バートンの目を通すというフィルタを考慮したとしても、あまり広く伝えられる事のない、「東洋」の世俗の姿が見られるのは、大いに興味深く面白い。
もちろん、物語の方も、いろいろな考察のもとに、なるべく「もとのアラブの物語を損なわないように」というスタンスからの紹介となっている。

これに対してマルドリュス版はどうかというと、こちらもまた、もとの物語を忠実に再現しようとしているスタンスは同じなのだ。
但し、バートンが、「より狭義のアラブ」すなわちアラビア半島あたりを中心に考えているのに対して、マルドリュスの場合は、エジプト中心。
その点は大いに注意しなくてはならない。

というのは、エジプトというのが、昔も今も、アラブの中では特殊なポジションにつけているからだ。

まず第一に、エジプトというのは、純粋なアラブではない、と言われている。
そりゃあそうだ。
エジプトは、いわゆるエジプト文明と呼ばれる古代からの文明を有する、古い古い国であり、北アフリカの華であり、良くも悪くも、そのベースには、アフリカ的なものを持っている。
と同時に、地中海文明の一員でもあり、狭義のアラブが、荒れた土地をさまよう牧畜民的な顔を根っこに持っているのと同様、かなりのところ、海洋民族的な顔を持っているのであり、前者が略奪的でありストイックであるとすれば、後者は貿易的であり快楽的である。
(まあ、レッテル貼りというのは視野を狭める危険なものではあるが……ストレートにおおざっぱな理解を進める好適な手段でもあるということで、ちとご勘弁を願う)。
宗教的にも、古いキリスト教の一派であるコプト教会の根拠地であって、他のアラブ/イスラーム国に比べれば、宗教的な雑居性も高い。
言語的にも、アラビア語はイスラーム諸国の多くで標準語として用いられているが(というのは、イスラームにとっての公式言語は標準アラビア語であるから)、当然地方によって多数の方言があり、その中でエジプト方言はかなり強い勢力を持っていると言われる。
強い勢力を持つ方言であるという事は、ほとんど、その文化圏の中でもユニークな独自性を持つグループである、と考えなくてはならないだろう。

さて、以上をふまえた上で、この第1巻に含まれている物語はというと、全体の枠をなす、シャハリヤール(シャーリヤール)王とその弟の物語の冒頭部分(あたりまえだが、その結末は千と一夜が終わったそのあとのエピローグとして展開される)に続き、以下のとおり。


「商人と鬼神(イフリート)の物語」  第1夜~第3夜
アラブ人というのは牧畜を生業とするバダウィ(ベドウィン)に限らず、旅行好きな民族らしい。
はるばるメッカへの巡礼も何度でも行く人すらいれば、隊商や船を使って冒険的な商売の旅に出る商人の話も凄くたくさんある。
実際、白人が大航海時代を迎え、足すの奴隷をあちこちから徴収するより前に、アラブ人はそっくり同じ事をやっていた。
従って、ここに登場する商人も、がっつりと自分で隊商を率いて、大きな貿易をやってたわけだな。
しかーし、アラブ世界では、荒涼としたところには、すなわち、魔物が棲むのであって、これらには充分用心をしなくてはならない。したって、この主人公のようなめにあう事がある。
なんと、棗(デーツ)の種を、ぽんっと投げすてたところ、それが怖ろしい鬼神の息子にあたって殺しちゃったというんだね。(なんでそのくらいで? まあ、鬼神はいろいろな姿になるのでたまたま棗の種にあたっても死んでしまうような形態だったのかも)。
しかし、商人は有力者だったから、殺される前にいろいろと片づけておきたい事があって、1年の猶予を鬼神に願う。鬼神もこれを許す。なんつか、一人「走れメロス」な感じに、この商人、約束通り、全ての身辺整理を行ってから、自分の経帷子をかかえて鬼神のもとに戻ってくるのであります。
そこへたまたま来合わせた3人の老人(ただの老人ではなく、シャイフと尊称されるような、老いて賢き人)が来合わせ、この立派な商人の命とひきかえに、それぞれの身の上にまつわる、不思議な話を聞かせるというもの。
枠物語の中の物語が、またまた枠物語になっているという入れ子状態だが、老人たちの身の上話は、それぞれ、アラブ的フェアリイテールであると思って間違いない。
それよりも注目すべきは、商人、鬼神、老人ともに共通する名誉と寛仁という性格だろう。
この物語が枠の最初に入るのは偶然なのかもしれないけれども、実に、この名誉と寛仁というのが、アラブ人的徳性の中心をなすものであるのは間違いない。
彼等にとっては、名誉と寛仁の心が、何よりも人にとって重要な事なのだ。

「漁師と鬼神の物語」 第3夜~第9夜
ソロモン王の御代、多数の魔神がこの賢王によって真鍮の壺に封じられたというのはとっても有名な逸話で、「瓶の中の鬼」の物語は、広く世界に伝わった。
これもそれがきっかけ。漁師が海底から引き上げた真鍮の壺をあけると、鬼神が出てきまして……。
ふつーは、願いをかなえてくれるものだし、この鬼神もかつてはそのつもりだったらしいが、あまりにもあまりにーも待たされすぎてキレてしまい、
「もう、俺は、出してくれたやつを殺すから。死に方だけ選ばせてやるぜっ」
……むちゃくちゃ理不尽であります。
この、忘恩の(または単に暴虐な)魔物をだまして、もとの瓶に入れるなり小さなものに変身させるなりしてつかまえるという話も、世界各地にあるけれど、ここではその先がきっちりとあって、魔神が漁師に与える恩恵が、
すごい不思議な魚をつかまえさせてやるから、それを王様に献上するとご褒美がもらせますぜ。カクジツ。
というものだった。
で、物語の後半は、その不思議な魚が発端となり、王様が呪いをかけられた若き王子とその都を解放するというものだが、王様のやりようはなかなかに気高い騎士的な行為で、ヨーロッパの民話にも相通じるものがある気がする。

「荷かつぎ人足と乙女たちとの物語」 第9夜~第18夜
物語の始まりは、凄い美人が、荷担ぎ人(誰でも雇える臨時のポーター)を伴って、市場で珍味佳肴を買い、なんのかんのでこの乙女の屋敷に、男女とりまぜて7人、そしておしのびで街を歩くハルン・アル・ラシッドとその一行がまじり、どんちゃん騒ぎを演じる……というと、なにやら艶笑譚っぽいし、実際そういう始まり方をするけれど、実は、おしのびの一行と人足以外の人々は、それぞれ不思議な来歴を持っていて、この人々が順番にその身の上を語っていく、というスタイル。
枠は異なるが、「商人と鬼神との物語」にちょっと似ている。
やはり、それぞれの物語はフェアリーテール的なものだが、日本だと、迷い家とか隠れ里の民話にあるような、「開かずの扉」のモチーフがある一方、それぞれの主人公である男や女が、さまざまな理由で旅に出て災難にあうというものが多く、ここからも、アラブ人の旅好きがうかがえる。
もうひとつ、特徴的なのは、「商人と鬼神との物語」でもそうなのだが、これらに登場する魔法だろうか。
いずれも、悪巧みなどのために、人を獣の姿に変身させるものなのだけど、必ず、「水を媒体にして」「そこに呪文をこめ」「それを対照にふりかける」という手順を踏む。
なんで水なんだろうなあ。生きていくのに必須の、しかも貴重なものという認識があるんだろうか?
もうひとつは、善悪にかかわらず、これらの魔法を用いる人間は全て女性であるということ。
伝えられるところによると、イスラーム以前の宗教では、女性が重要な役割を担い(つまり、巫女のような役割を果たし)、かつ、崇められる対照は女神であったというが、そこらへんとも遠い関連性があるのかもしれない。
そういえば、エジプトの女神イシスも、母-妻-妹という女性の象徴であり、かつ魔術の女神だ。

「斬られた女と三つの林檎と黒人リハンの物語」 第18夜~第19夜
ひとつ前の物語同様、これも、ハルン・アル・ラシッドとその一行の夜歩きが発端。
ほんとかうそか……って多分うそなんだけれど、日本の水戸黄門同様、実在の人物である教主ハルン・アル・ラシッドは、アラブの物語では、よなよな商人などを装って街をおしのびで歩き、民情を視察した(ってのはたてまえで楽しんだ?)、人気のある人物だ。
おともは、必ず、名宰相としてこれまた有名な実在の人物、バルマク家のジャアファル(ジャアファル・アル・バルマキー)と、太刀持ちの宦官(すなわち奴隷)マスルール。身分に相違はあるものの、アラブ版「助さん角さん」だ。
物語としてとくに言うべきことはないけれど、アラブにも、おしのびで街を歩いて、味のある裁きをする君主がいるというのは、ちょっと面白いだろう。

「大臣ヌーレディンとその兄大臣シャムセディンとハサン・バドレディンの物語」 第19夜~第24夜
タイトル長っ。
しかし、ちょっと似たような物語が続いて飽きてきた頃にちょうどいい、毛色のかわった物語で、これ、『とりかえばや物語』と同じくらい、荒唐無稽で奇抜で運命に弄ばれた男女の物語だ。
男女の物語だけど、なぜか、恋愛ものではない。
兄弟が自分たちの子(まだ結婚してもいないのに早すぎ)を、将来結婚させよう、その時はこれこれこういうふう、と相談していたのがきっかけで仲違いしてしまうが、その結果、かれらの子がどのようになったかというもので、かなりご都合主義なところもあれば、荒唐無稽なところもたくさんあるけれど、なんかこう、ほんとは結ばれてハッピーエンドになるべき美男美女が、
ああ、また会えない、ああまたかすっちゃった、なんでそこで引き裂かれちゃうの、おーいっ
……と運命にもてあそばれて行き違うドラマというのは、古今東西人気があるものなのですな。
しかし、何もかもがまるくおさまる大団円といい、それまでの「やきもきさせられ具合」といい、非常によくできた物語だと思う。
なお、物語の根幹である、まだ生まれてもいない子供の婚約話だが、そもそも、中近東では、従姉妹と結婚するというのが自然な流れであって、極言すると、
「あいつは俺の従姉妹、つまり俺の婚約者」
とすら、みなしても不自然ではないのだ。
旧約聖書にも、同じように、叔父の娘と結婚する話があるとおり。
ゆえに、日本人である我々からすれば、あーもうまだ結婚すらしてないのになんで子供の婚約の話なんかするかな、というところが発端だけど、彼等アラブ人(または中近東の人たち)にすれば、いとこなら結婚するんだよね、という前提があるわけだな。


『完訳 千一夜物語 (一)』(岩波文庫)
1988年7月7日改版
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2009-01-27 20:49:42

『死の猟犬』

テーマ:ホラー
クリスティというと、どうしてもミステリのイメージが強いのだけれど、ファンは良く知る通り、この人の生涯はなかなか数奇なものであったのだそうで、そういう影響もあるのだろうか、ミステリというよりは、ホラーと呼んだ方が良さそうな作品も存在する。
たとえば、本巻におさめられた短編のようなものが。

-----
死の猟犬
赤信号
第四の男
ジプシー
ランプ
ラジオ
検察側の証人
青い壺の謎
アーサー・カーマイクル卿の奇妙な事件
翼の呼ぶ声
最後の降霊会
S・O・S
-----

過去、あるいは未来かもしれない不思議な映像をとらえる千里眼、自分の危険を予知する能力、古い家に住む泣く少年の幽霊、降霊術にまつわる様々な物語。
といっても、純粋な幽霊譚より、むしろ当時の科学的スタンスを盛り込んだものの方が多いのは、クリスティの生きた時代が、オカルトの隆盛した時代と重なり、それらを科学的に解明しようとヒートアップした時代でもあったという背景があるのだろう。

しかし、科学的な姿勢とは紙一重、オカルトブームであったからこそ、それに絡んだ詐欺も多かったのだそうで、とくに降霊術はそれがひどかったという。
従って、ここにおさめられた短編の中にも、まさしくそういった詐欺にからむものがある。

あるいは、サイコホラーと呼びたくなるようなものもあり、ミステリの女王が見せるちょっと違う横顔というか、「一瞬のレアな表情」がいろいろ見られるという点で、面白い短編集だ。


死の猟犬 (クリスティー文庫)/アガサ・クリスティー
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2009-01-26 20:01:33

『ナイチンゲールの沈黙』

テーマ:ミステリ

文庫化された『ジェネラル・ルージュの凱旋』を紹介したので、もう一度こちらも紹介しておこう。
『ジェネラル~』でも触れたとおり、本来あわせてひとつの物語となるはずだった『ナイチンゲールの沈黙』だ。
実際、ふたつの事件は全く並行して起こっているため、片方の物語にもう片方の片鱗があちこち、うかがえる。
シーンも台詞も、場合によっては全くだぶっていたりするので、再読が苦手な人にはあまりお勧めしてはいけないかもしれないが、それでもやはり、両方続けて読むとより面白いのではないかと思う。

もっとも、海堂尊作品は、刊行された出版社によって主人公などは代わっていても、桜宮市と東城大学病院が存在する世界を背景としているため、全てつながっているとも言える。
但し、当然ながら、エピソードの順序はある。
現時点でのメインストリームはこんなところか。

『ブラックペアン』
  ↓
  ↓
  ↓
『チーム・バチスタの栄光』
  ↓
  ↓
『ナイチンゲールの沈黙』&『ジェネラル・ルージュの凱旋』
  ↓
『螺鈿迷宮』
  ↓
  ↓
『イノセント・ゲリラの祝祭』


『黄金地球儀~』は、さらにこの未来にあたるようで、本作に登場するキャラクターが顔を出すのだけれども、医療の現場とは全く関係のない物語ということもあるので省く。
そして、時系列上近い関係にある作品の連結部分をあえてあげるなら、
本作でも言及される、白鳥の部下、氷姫こと姫宮は『ジェネラル・ルージュ』に顔を出し、『螺鈿迷宮』で大活躍する。
『ジェネラル・ルージュ』に登場するメディカル・アソシエイツも、『螺鈿迷宮』で大きな役割を果たす。
『ジェネラル・ルージュ』のメインにからむ、エシックスやリスクマネジメント委員会、査問などが本作でもちらちらと顔を出し、逆に、本作で登場する、MRIで行う島津の実験や、小児科版不定愁訴外来が、『ジェネラル・ルージュ』に顔を出す。
さらに、冒頭で語られる、歌手冴子の緊急入院は、同じ重みをもって本作と『ジェネラル・ルージュ』に登場する。
そして、一応独立した作品である『螺鈿迷宮』はおさえておかなくても問題ではないが、最新作『イノセント・ゲリラ』を読む場合、『螺鈿迷宮』を読んでいた方がより面白いだろう。

メインストリームだけでもこうつながっていくのだからたまらない(笑)。
こういう作り方は面白いが、一度新作を読むと、前のを再読したくなったりするので始末に悪いとも言えるな。

ともあれ……。
『チーム・バチスタ~』に続いて、本作でもある殺人事件が中心となって展開し、前作にあたる『チーム・バチスタ~』同様、最も本来のミステリ的要素が強い作品と言えるだろう。
中身としてはけっこう猟奇なシーンもあるのだが、あまり生々しくないのは、基本的に病院が舞台だからか。
内臓などがぶっちらばっていてもちょっと無機的(ほんとか?)。
そして、共感覚にちなむ、音と映像の関係をMRIで解明していくあたりは、ちょっとスリリングかつファンタスティック。
ミステリアスで破滅型の人気歌手に、主人公田口が対応するあたりも、ドラマとして面白い。

そうそう、シリーズに欠かせぬ白鳥は、並列した作品である『ジェネラル・ルージュ』にはほとんど顔を出さないかわり、こちらにはきっちり登場する。


ナイチンゲールの沈黙(上) [宝島社文庫] (宝島社文庫 C か 1-3 「このミス」大賞シリーズ)/海堂尊
ナイチンゲールの沈黙(下) [宝島社文庫] (宝島社文庫 C か 1-4 「このミス」大賞シリーズ)/海堂尊
2008m年9月19日初版(文庫版)
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2009-01-25 20:07:33

『アタゴオルは猫の森 (13) 』

テーマ:日本SF・ファンタジイ
このシリーズ、出版社を移るたびに微妙にタイトルを変えているわけなんだけど、それはいわゆる大人の事情ということで、総じて「アタゴオルの物語」でくくられる。
その上で、今のこのタイトルに少し想いをはせる。
猫の森。
もちろん、猫があとあし歩行をして、人間と同じ大きさで、人間といりまじって生活しているという最大の特徴がある。
しかし、それ以上にこの物語世界を最初から象徴していたのは、「森」ではないだろうか。

それも、実に不思議な森なのだ。
地球上のどこにもないような、不思議な森。
巨大だが、密林のように閉塞的ではなく、あたかも熱帯の植物を思わせるところがあるし、縦横につるが走って道路の役割を一部になっているし。
温帯の植物のようでもあり、熱帯のようでもあり……。
妙にでかい葉っぱみたいなのがはえていたりね。
見ようによっては、原始の地球を思わせるようなイメージのものもあったりする。
しかも、どこか熱帯風な感じがつきまとうわりに、がっつり雪が積もるんだよね、アタゴオルって。

この世界、な。
ふと思ったのだ。
草むらに寝転がった時、ふと横を見る。
すると、密生した(またはそんな密生していない)草が、密林みたいに見えるんだ。
ちょっと背の高い草は、木に見えるし。
まあ、もとは同じ植物だから、視点をかえればそう見えても不思議ではないだろう。
アタゴオルの森というのは、そういう視点から見た植物かなあ……と想像する。


アタゴオルは猫の森 13 (13) (MFコミックス)/ますむら ひろし
2008年9月30日初版
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2009-01-24 20:25:56

『鋼の錬金術師 (21) 』

テーマ:日本SF・ファンタジイ
いよいよ、最終章に入った、と作者が宣言した。
ということは、いよいよ、一国そのものを使った錬成陣が動き出す、とそういう事だ。
演習のさなか、敵味方とも、軍いにるものはどう動くのか。
ホムンクルスたちは?
そしてエドワードたちは?

と、今のところは、クエスチョンだけがずらずらと並ぶ、スタートラインな状態だが、そうまたされる事もなく、ゴールに向かって一気に動き出しそうだ。

それにしても、おそるべきはプライド。
前数巻にわたり、不気味な動きを見せ始めていたわけだが、ここに来てその動きがより大きくなった。
今のところ、こいつが一番の注目株、ダークホースはやはりリン/グリードかな。
ホムンクルスのキャラはどいつも個性的だけれども、この2体が一番面白い事になりそうだ。その分、主人公のエドたちにも、大いに活躍してもらいたいところ。

また、そもそも「鋼の錬金術師」とエドが呼ばれる事になった発端の事件にからむ、「真実の扉」の謎についても、当然明らかになる時が近づいているわけで、さてさて、アルはどうなるのか。
これはやはり、読者としてはハッピーエンドになってほしいところだけれど。
それについても、期待、というところだな。


鋼の錬金術師 21 (ガンガンコミックス)/荒川 弘
2009年1月22日初
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2009-01-23 21:06:36

『ジェネラル・ルージュの凱旋』

テーマ:ミステリ


これは、このミスから出たシリーズだし、一応、きちんとそれぞれに「謎」があって、解くべき謎がある限り、それは「ミステリ」だ。
しかし、それでもやはり、本作はミステリとは言えない。
本巻は、実際には『ナイチンゲールの沈黙』と、1巻の物語として描かれるはずだったという事で、どちらかといえば、いわゆる「ミステリ」……犯罪があり、それを探偵役のキャラクターが解き明かすという意味でのミステリの要素は、そちらにほとんど吸い取られてしまっている。
しかし、そういう事以前に、これは小説ではない、とも思う。

いやいや、勿論、架空の土地を舞台に架空の人物が織りなすエンタテイメントである、という意味では、凄く面白い小説だ。
しかし、それであるにもかかわらず、やはりこれは、まず第一に、啓蒙書であると言わなくてはならないだろう。
シリーズ最新作『イノセント・ゲリラ』などは、本巻よりもその傾向が強くなっているけれども、作者は、現場にいる当事者しかわからないさまざまな問題点を、小説の中で洗い出し、並べてみせる。
しかも、一応自分が支持する方法は明示しつつ、さまざまなオピニオンを公平に紹介して、結論は提示しない。
従って、もの凄く面白い物語を堪能しながらも、読者は、そこに並べられた問題を考えなくてはいけなくなる。

うまいよなあ、と思う。
だってね、医療問題というのは今はいろいろと本が出ているけれど、よほどの興味があるのでもなければ、そういう本を読む人はいない。
新聞や雑誌の記事、テレビなどではどうしてもいろいろと不足が出るし、そもそも、現場の人間が作ったものではない以上、記者や製作者の視点というフィルタがどうしたってかかってしまっている。

印象的なキャラクターを何人も使い、しかもそれらのキャラがきちんと立っていて、ミステリとしてもなりたっていて、かつ作者がおそらく一番やりたいことであるはずの啓蒙も、啓蒙と感じさせないさりげなさで、きっちりできている。それはもう、イヤミなほどに(笑)。
しかし、それだからこそ、このシリーズが出るたびベストセラーで、海堂尊が人気作家であるというのは、素晴らしいと思う。
それほど普段ミステリを読まない人にも面白いようだ、というのは、自分の周辺で、あまり本を読まない人が口をそろえて「すごく面白かった」と言っている事からもうかがえる。


ジェネラル・ルージュの凱旋(上) [宝島社文庫] (宝島社文庫)/海堂尊
ェネラル・ルージュの凱旋(下) [宝島社文庫] (宝島社文庫)/海堂尊
2009年1月22日初版(文庫版)
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2009-01-22 17:58:24

『機動戦士ガンダムUC (7) 黒いユニコーン』

テーマ:冒険・アクション
この世界で最も凶暴な生物とは、ヒトである。
ロンドン動物園にはそういう表示とともに鏡がかけてあったというが、これは実話かどうか知らない。
しかし、それをタイトルに利用したイギリスの冒険小説家がいて、確かに、それはユーモアの枠をこえて、納得させられてしまうような、冷たい恐怖を感じる真実では、ある。

たとえばの話、超能力だろうがなんだろうが、何かしら、衆に優れた能力を持つ人というのは常に存在するのだけれども、真実怖ろしいのは、その人自身ではなく、彼等を何かに利用しようとする側の人、あるいはシステムであろうと思う。
思えば、ガンダムという世界は、常にそれをテーマにしている。
すなわち、ニュータイプであり、
それに類似あるいは対抗しようとして作られた強化人間であり、
当然、「ガンダム」もそのひとつ。

従って、今回のエピソードで最も怖ろしいのは、ものごとを操ろうとするマーサという女なのだが、奇しくも、物語は、マーサとミネバの対立という図式を打ち出していて、彼女らが素で対決するシーンは、ちょっと泥臭くはあるが、重要だろう。
人の凶暴性、あるいは凶悪さを体現していくかのようなマーサの言動を、ミネバはどう評価し、どう対していくのか。
しかし、ミネバ自身、まだ若く、どう対抗していくのかを模作している状態で、彼女の成長していく段階は、間違いなく、主人公であるバナージの成長と対をなす軸となっていくのだろう。
そう、本巻に関して言えば、主人公はミネバと言ってもいい。

そしてもうひとり、マリーダの存在も注目しなければならない。
利用される側の代表ともいえる彼女が暴走に至る過程、そしてそこから救出できるのかどうかというのが、重要なエピソードになっているから。
とはいえ、ジンネマンと彼女の結びつきがどう変わるかは、今後の事になりそうなのだけれども、マーサとミネバの対立の中、主人公とその乗機であるガンダムを抑える手駒として登場する黒いユニコーン、そしてマリーダの存在は、マーサVSミネバの代理闘争のようなものだ。
一見、アルベルトとジンネマンの対決お呼びその差と見せながら、実際には、マリーダを引き裂いているのは、マーサの論理とミネバの論理とも言える。

物語全体としても、いよいよ、ガンダムは連邦、ネオ・ジオン、いずれの勢力にも与しない、逸脱した存在として明確なポジションを占めるようになった。
これは、ガンダムというものが誕生してからずっと変わらないポジションではあるけれど、シリーズに作品を重ねられるごとに、より強く打ち出されていっていると思う。
ガンダムとは(その物語の)時代における象徴とならざるを得ない。
それは、闘争の物語を通じて、作品が何を語りたいのか、というテーマそのものでもある。
今回はアニメや漫画が先行する事のない、小説オリジナルの物語、しかも書き手が書き手であるから、いったいガンダムUCを通して作者が何を主張したいのか、見えてくるのはこれから……と考えられるだろう。

いや、ミネバの凛々しさや、マリーダの悲愴に思いを馳せるのみでも、それはそれで良いと思うのだけれど。


機動戦士ガンダムUC (7) 黒いユニコーン (角川コミックスエース)/福井 晴敏
2008年12月26日初版
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