私が大学生の時に書の授業をとっていました。

 

その先生は寺山旦中先生という方でした。

 

私は全く偶然に、単純に書道を習っていたからその授業を選んだだけでしたが、寺山先生は直心影流剣術を深く修練されている方でした。

 

私は授業をとってる途中で古書店で月間秘伝という雑誌のバックナンバーを購入して、それで知りました。

 

 

今でもYouTubeで検索すると直心影流剣術で著名な大森曹玄先生との演武が見られますが。

 

私が授業をとった時は映像で見られるような気迫漲る武士のような印象ではありませんでした。

 

 

いつも作務衣のようなものを着て、若い頃の映像よりだいぶ痩せておられて、常に非常に穏やかに話される品のある先生でした。

 

最後の授業の日に、癌である事を告白されて、その後何か話されていたと思うんですが内容が思い出せません。

 

ただ、非常に淡々と、いつも通りに穏やかに話されていた事だけ覚えています。

 

 

その最後の授業の後に先生の所に行って「月間秘伝見ました。」と言ったら、「?。ああ、あの雑誌ね。」とそっけない感じで会話が終わりました。

 

さほど熱心でもない関係性も無い学生たち相手にもずっと穏やかに真摯に授業をされてきて、癌である事を告白された最後の授業の後に、

 

わざわざ「秘伝見ました」などど馬鹿みたいな事言われてもそりゃあ塩対応ですよね。

 

今思い返すと、何というか本当に私は阿保な奴だなと思います。

 

まあ、子供みたいに武術の話がしたかったんでしょうね。相手の気持ちも考えずに。

 

 

 

寺山先生が授業の中でよくおっっしゃていたのは「墨気(ぼっき)が大事」という事でした。

 

墨に宿る気、という事ですね。

 

墨気が宿った書は、そうでないものと全く違うもので、それが山岡鉄舟の書などには明確に感じられると、そういう話だったと思います。

 

確かに、と思いますよね。

 

今、書道が上手い人の書というのは、私にとっては何というかイラストが上手い、みたいな感覚になる人が多い気がするんです。

 

それの何が悪いの?って言われると困るんですけど。

 

 

書ってなんなんでしょか、上手下手ってなんなんでしょうか、

 

書道を見るとそういう疑問がわいてくるのが不思議だなと思います。

 

寺山先生は剣と禅の修練から書は筆禅であり、墨気があってこそとされたし。

 

願立剣術物語という古文書には剣の使い方を「上手の文字を書くごとく」とか「ただ一の字を云々」などと筆遣いに重ねてる描写があるんです。

 

 

私も子供の頃書道習ってましたけど、頑張ると凄く疲れるんですよね。

 

私の中で自覚ある頑張りを初めてやった記憶というのが書道教室なんですよね。

 

一生懸命何枚も書いて、それで凄く疲れたという記憶が凄いある。

 

嫌な疲労感が残った感じが凄くしたんです。

 

おかげで色々金賞とか銀賞とかもらった事ありますけど、以降習い事をする時に全て努力して技術をコントロールする癖がついてしまった。

 

全ての過程で集中して流れをコントールして身につけようとする癖みたいなものが無自覚に当たり前になってしまって、

 

 

 

ピアノにしても「指先に神経込めて」といわれると、全てに集中して丁寧に丁寧にやっていこうとするので、一曲を納得いくまで仕上げるのが大変で大変で。

 

後に、大人になって中国の天才ピアニストが石に手を置いて指先を叩きつけているのを見て自分の概念が音を立てて崩れていきました。

 

 

でも考えてみればピアノの先生にも、そういう教えを受けていた事あるんですね。

 

私は鈴木メソッドという所で習ってたんですが、その先生に「ころんだ時」に全部一音一音スタッカートで指を高く上げて五回間違えずに弾くように言われたんですね。

 

「ころんだ時」というのは緊張したり、力んだりしてスピードが速くなってしまった時に、先生が「あ、ころんだ」と表現するんです。

 

その弾けなかった部分を全音スタッカートでターン、ターンとゆっくり五回間違えずに弾いてから、通して引くと見事に滑らかに正確に弾けるようになってるんです。

 

子供心に感心しまたね。

 

 

これは一音一音途切れて力を連続させてないから、力みが抜けて勝手なコントロールの癖が無くなるから良くなるんです。

 

だからプロになるようなピアニストは指の力強いし、割としっかり勢いに任せて弾いてますよね。

 

そういう勢いを阻害しない土台が出来たうえで、コントロールを学ぶのがすごく大事なんですね。

 

それをもっと早く知ってたら、もう少し楽しく練習できたのかなと思ったりするんです。

 

 

それを素人の母親に「指先に神経込めて、丁寧に」などと横に座られて家では指導されたもんだから(笑)

 

全部を丁寧に丁寧にコントロールして仕上げるようになってしまったんですね。

 

大変でしたよもう。(笑)

 

幼稚園から中学生くらいまでやりましたけど、最後の方にはピアノ弾いてると嫌な事ばかり頭に浮かんでくるようになりました。

 

 

 

 

こういう全てをコントロールして仕上げる努力というのは大人になるにつれて無理が出てきますよね。

 

生活上のタスクが増えたり、体力の問題もあるのに、やるべき事がどんどん増えるんですから。

 

そりゃあどんなに健康でも無理ですし、どんなに純粋な頑張り屋でもいずれ快楽を代償に求めるようになるし、怠けたり、狂気をはらんだりしますよ。

 

私なんて最初から喘息とアトピー持ちでしたからね、今考えると自分で自分をほめてあげたいですよ。

 

 

だから芸事とか習い事というのはコントロールより勢いを大事に育てたほうが良いんですよ。

 

問題はその「勢い」のクオリティをいかに洗練されたものにするかなんです。

 

勢いを洗練する方法を知らない人が、指導者になってはいけない。

 

そしたらコントロールして押さえつける指導しか出来ないからです。

 

元々の日本の茶道とか能とか小唄とか三味線とか、そういうものは「勢い」から雑味を抜いて大成するものだったはずです。

 

それがいつしか枠にはめて押さえつけるものになってしまった。

 

 

もちろん昔だってイザベラバードが辟易したように、うるさくがなるだけの芸しかなかった人も沢山いたでしょうね。

 

でもいいじゃないですかそれで。

 

近くにいたら凄くウザいかもしれないですけどね。