(もうひとつのブログより)
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いろんな気持ちや想いを言葉にできたらいいと
そう思い始めたのは、
確か小学生の頃だったと思う。
頬の横を吹き抜ける風の匂いや温度
同じようで昨日とは違う空の色
毎日ほんの少し色が変化していく草花
それらを、どうにか言葉で繋いでおきたかったのだ。
そして言葉で表現する、ということについて
私の中に羨望と嫉妬が確実に存在した場面を
今でも鮮明に思い出すことができる。
それは幼馴染の書いた一片の詩。
私が小学3年か2年のとき、一つ年下の彼女の教室の外。
廊下には、そのクラスの児童が書いた詩が掲示してあった。
詳細は忘れたが、そこには
「どうして煙は上に向かっていくんだろう。下には流れないんだろう。」
というような内容の詩があった。
それを読んだときに、
「あぁ、私にはその観点がなかったな」と
痛烈に悔しく思ったことを、昨日のことのように思い出す。
煙は上に向かっていくのが当然で、
それに疑問なんて持ったことがなかった…
そこに目を付けたことに、羨ましさと
悔しさと妬ましさがあった。
それから、いろんな本を読み、多くの人の考えに触れ、
言葉で表現するということを、その都度考えたり、挑戦してみたりしたが、
常にそのときの衝撃が頭をよぎる。
そして、だからこそ
「私も」と
「表現したい」と
思う気持ちが常に心の中にあるようになった。
そして時は流れ。
私は今、言葉で記したことについて
「ああそうだ、それを伝えたかったのだ」
「それを表現したかったのだ」
という想いを、誰かと共有したいのだ。
ということに思い当たる。
そして、あの時の気持ちがある限り、
これからも言葉をそっと紡いでいくのだろうと思う。
本日の読書
「ふるさと銀河線 軌道春秋」 髙田 郁
