【後鳥羽天皇御製】
 『詠百首和歌』
  正治二年第二度百首
 「神祇」
いすず河たのむこころし深ければ
  あまてる神ぞ空にしるらむ

「いすず河」…「五十鈴川。伊勢神宮」。
「たのむこころし」…「願ひを掛けた心が」。
「深ければ」…「眞實(まこと)で有れば」。
「あまてる神」…「天照大御神」。
「空にしるらむ」…「必ず知つてくれて護つて下さるだらう」。
 ◇ ◇ ◇
 本日より師走十二月です。この令和五年の締め括りの月といふことになります。
 十一月も多くの方々の眞心に因つて、充實した日々の時間を送らせて戴くことができました。
 先日(十一月二十五日)に伊勢の内宮外宮を正式參拜した時の心を思つた時、後鳥羽天皇の冒頭の御製が惱裡に浮かんでゐました。
 今月も「いのりの心」を以て日日を送らせて戴き、令和五年の最後を示させて戴きたいと願つてゐます。
 今朝は、「鞠躬盡力」といふ言葉が惱裡をよぎりました。けふは、この「鞠躬盡力」について私の調べたことを御紹介させて戴きます。
 
 ◇ ◇ ◇
 
【鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)について】
 
 この言葉は『三國志』の諸葛亮孔明の『後出師表(すいしひやう)』に於ける言葉であります。
 
「鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)死して後已む。成敗利鈍に至りては臣の明の能く逆覩(げきと)する所にあらず」
 
 「鞠躬」とは「躬をかがめて敬み畏まる」といふことです。
 つまり、此處では謹んで誠の精一杯を」といふ事になります。「盡力」とは「力を盡す」といふ事です。
 「成敗利鈍」とは、「成功や失敗、利であるか鈍であるかとの評價(ひやうか)」のことをいひます。「逆覩(げきと)」とは、「あらかじめ圖り見る」といふことです。
 つまり、この意は
「唯々誠を致し、忠義を盡し、我が生命のあらん限りは止まぬ覺悟です。成功するとか失敗するとか、利であるか、鈍であるかなどの所謂(いはゆる)成敗利鈍に至つては、固より私の予め圖り見る所ではありません」
 このやうな意味になります。
 この出師表(すいしひやう)は前と後があります。そして出師表(すいしひやう)とは、軍隊が出陣するに當り臣下が君主に奉る文書の事を言ひます。
 一般的には出師表(すいしひやう)といへば諸葛亮孔明が劉備(りゆうび)の子劉禪(りゆうぜん)に奉つた上表文の事を言ひます。前出師表(すいしひやう)の方は、自らを登用し、信頼してくれた先帝劉備(りゆうび)に對する恩義を述べると共に、若き皇帝劉禪(りゆうぜん)に對してまるで我が子のやうに諭しつつ、自らの報恩の決意を述べたものです。遙か古へより支那では名文中の名文といはれ、
「諸葛孔明の出師の表を讀みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」
と言はれるほどでした。これは、西暦227年の事になります。

*『箋解古文眞寶』;元の黄堅編。本書は元の林楨による注釋書で、元明代に流行した。日本には南北朝 初期に伝わり、江戸時代まで漢詩文を學ぶ者の必讀書とされ広く流布した。 前集に詩、後集に文章を収録する。各時代の様々な文體の古詩や名文を収め、簡便に學習することができた爲、初學者必讀の書とされて來ました。

 この戰ひでは信頼してゐた部下馬謖(ばしよく)の失敗で敗れてしまひます。
 皆さんもご存知の諺「泣いて馬謖を斬る」といふのは此の時の事です。
 そして、その翌年改めて軍を起した時に奉つたのが「後出師表」になります。
 この後「出師表」が日本に於て知られるやうになつたのは、﨑門學の儒者淺見絅斎(あさみけいさい)の著した『靖獻遺言(せいけんいげん)』に詳しく載せられてからの事です。この『靖獻遺言(せいけんいげん)』は幕末の志士達の心を搖り動かした影響力を持つた書であります。
 吉田松陰先生の『講孟剳記(かうまうさつき)』に於ても梁恵王(りようけいわう)上篇首章の中で採り上げて、「これ道學の根元、先賢の論ずるところ備はれり」と述べてをられます。
 吉田松陰先生の採り上げられた一説こそ標題のものになります。
「鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)死して後已む。成敗利鈍に至りては臣の明の能く逆覩(げきと)する所にあらず」
 この一説は、『後出師表』の最後の一節といへるもので日本に於ては、多くの人間の心を揺り動かした名文です。
 この言葉は、甚く明治天皇に愛されました。勅語に於て澤山使はれてゐます。

◎毛利敬親ヘ勅語(明治元年六月二日)
解逅上京先以滿足候從前の件件不可言儀ニ立至候處内外大難ヲ凌キ鞠躬盡力終ニ朝廷ヲシテ今日有ニ至ラシム偏ニ汝至誠ノ致ス處感喜述フルニ辭ナシ然レトモ朕不徳カカル大創業ノ事イマヨリ以往ノ處置如何ト夙夜懸念候汝益朕ヲ扶ケ宜シク早ク天下平定萬民安堵ニ到ルヘク樣偏ニ勉勵依頼候。(勅語としては不完全?)

 解逅上京先づ以て滿足に候。從前の件、言ふ可からざるの儀に立ち至り候處、内外の大難を凌ぎ、鞠躬盡力、終に朝廷をして今日有るに至らしむ。偏へに汝至誠の致す處。感喜を述ぶるに辭なし。然れども朕の不徳かかる大創業の事今より以て往の處置如何と夙夜懸念に候。汝益々朕を扶け、宜しく早く天下平定、萬民安堵に到るべく様に、偏へに勉勵依頼候。
 ◇ ◇
◎陸軍中將西郷從道(つぐみち)ヲ賞スルノ勅語

  (明治九年二月二十二日)

汝曩(さき)ニ臺灣蕃地事務都督トシテ彼地ヘ出張鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)畫策其宣ヲ得速ニ成功ヲ奏ス朕深ク之ヲ嘉(け)ミス依テ勲一等ニ叙シ賞牌ヲ賜與(しよ)ス

 汝、先に臺灣(たいわん)蕃地事務都督として、彼地ヘ出張し、鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)畫策(かくさく)し、その宜りを得、速やかに成功を奏す。朕深くこれを嘉みす。依りて勲一等に叙し、賞牌(しようはい)を賜與す。

*西郷從道;西郷隆盛の弟。小西郷と呼ばれた。海軍大將、元帥、侯爵。
 明治七年(1874年)に陸軍中將となり、同年の臺灣(たいわん)による日本人虐殺に對する
 臺灣(たいわん)出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮。

◎湊川神社御創建の御沙汰書

  (明治元年四月二十一日)

太政更始之折柄表忠之盛典被為行天下之忠臣孝子ヲ勸奨被遊候ニ付テハ
楠贈正三位中將正成精忠節義其功烈萬世ニ輝キ眞ニ千歳之一人臣子之龜鑑ニ候故
今般神號ヲ追諡シ社壇造營被遊度思食ニ候依之金千両御寄付被爲在候事
 但正行以下一族之者等鞠躬尽力其功勞不少段追賞被遊合祀可有之旨被仰出候事

 慶應四戊辰四月廿一日

*太政(だじよう)更始(かうし)の折り柄、表忠(ひようちう)の盛典行ひ被る爲、天下の忠臣孝子を勸奨(かんじやう)被り遊ばし候に付きては、楠贈正三位中將正成精忠(せいちう)節義、其の功烈萬世に輝き眞に千歳の一人。
臣子の龜鑑(きかん)に候故、
 今般神號(しんがう)を追諡(ついし)し社壇(しやだん)造營遊ばされ度く思召しに候。
 依つてこゝに金千兩御寄付在り被り爲す候事。
 但し、其の子正行(まさつら)以下一族の者等、鞠躬盡力(きくきゆうじんりよく)、其の功勞少なからぬ段、
 追賞被り遊ばし合祀(がうし)のこれ有る可く旨仰せ被り爲し出で候。