聖德太子



「和を以(もつ)て貴(たふと)しとなす」


 聖德太子の作られた十七條憲法の第一条に出てくることばです。


 太子の定められた憲法は、國の理想人間の生き方の根本の道德から、國の法律の根本となるものを敎えられました。



 ここで「和」といふのは、人と人とが互ひに助け合つて暮らしてゆくことです。


 それは、世の中は生存競爭の闘爭を根本とした考へ方ではなく、相互に助け合ふ生活の仕組みを本來のこの世の中と考へられたのです。


 さういふ生活をすることが國の本來の形で、また理想と考へられたのです。


 この考へ方は農業の仕組みをもとにしたものです。



 太子は隋國(今の支那を支配していた昔の國名)へ初めて大使を使はされる時、



「日出づるところの天子、書を日歿するところの天子にいたす」


とその國書(こくしよ)(國と國とでやり取りする手紙)に書かれました。


 當時の隋は大國でしたが、太子には相手に強大に恐れる心など少しもなかつたのです。


 日出づるところといふ言葉は、いつも若々しく、永遠に青春である日本と、日本人の姿を示されたのです。


 その頃大陸の「伎樂(ぎがく)」が入つてきたので、太子は今の奈良縣櫻井市に、國立の演劇研究所を造られました。


 今も宮中と奈良の春日大社と大阪の四天王寺に傳(つた)はつてゐます。


 これは世界の文化の歴史に例のないことです。


 太子は日本の文化や藝術や宗敎の總(すべ)ての開祖のやうな方なので、この演劇のことなどは殆んど知られていない功績の一つです。


聖德太子 了