※昭和30年代、三瓶さんが看板絵師として活躍した時代の1枚。当時の絵看板を写した貴重な1枚

 

 三瓶さんの話によると、昭和30年代の郡山には、約10館もの映画館が軒を連ねていたという。

 

ビルを建てて開館した駅前松竹(おそらく郡山松竹映画劇場)。駅前のバスターミナル前、駅前アーケード入口にあった。跡地は飲食ビルになっている。

1957年、開館。1989年に閉館。

 

 郡山駅前大通りの郡山アーケードの駅前大通り側の入り口にあった清水座。ここはその後、丸光デパートとなる。丸光撤退後は朝日生命ビルとなるが、それも撤退し、現在は駐車場となっている。

 

1930年、郡山市柳町(現在郡山市駅前)、郡山大映清水座として開館。1966年〜1969年頃閉館。

 

 駅前アーケードにあった富士館(郡山富士館)。1956年以前に開館し、2009年頃閉館。現在は飲食店が入るテナントビルとなっている。

 

 同じく駅前アーケードにあった郡山大勝館。1930年以前に開館。1943年以降1950年の間に閉館。個人的な記憶だが、ここは平成にはいり、いわゆる成人映画を上映する映画館になっていたと記憶している。

 

 洋画劇日本劇場。現在のさくら通り入り口(郡山市清水台)にあった。その後、ホテルサンルート郡山となり、現在はオフィスビルの郡山第一ビルとなっている。1960年開館、1969年から1973年頃閉館。通称は「日劇」

 

 中央劇場は地元で「八幡様」と呼ばれる安積国造神社の参道近くにあった。ここも現在はオフィスビルとなっている。1950年から1953年頃に開館し、1966年から1969年頃に閉館。

 

 名画劇場郡映として、日本映画から外国映画までなんでも上映していた「郡映」。現在郡山に唯一残る郡山テアトルの前身である(郡山テアトルの前身とすれば、テアトル郡山/郡山駅前東宝か)。1956年開館、現在も「郡山テアトル1・2・3」として営業中。

 

 1969年、郡山市駅前に開館した郡山洋画パレス。2010年から2012年頃に閉館。

 

 さくら通りの八幡ビルにあった郡山ピカデリー。1969年から1973年頃に開館、千九百九十年から千九百九十二年ころ閉館。

 

 1975年に開館した郡山スカラ座(郡山東宝・郡山駅前ロマン)。1975年から1978年頃開館し、1990年から1992年頃閉館。

 

 郡山市駅前2丁目にあった郡山駅前パレス。1975年から1978年頃開館し、1994年頃に閉館。建物は現存。

 

 郡山東映パレス。駅前1丁目に1966年から1969年頃開館し、1994年頃閉館。

 

 堤下町にあったみどり座。1930年〜1936年頃開館し、1963年から1966年頃に閉館。

 

 「(首都圏に比べたら小規模な)郡山駅前に、これだけの映画館があったっていうのは、全国的にも珍しいことなんですよ」と三瓶さんは語る。

 
本来であれば、郡山にシネマ博物館があったって、なんの不思議もないよね。

お隣の須賀川市には、特撮の神様と称された円谷英二の記念館、福島市には昨年のNHK連続テレビ小説の主人公のモデルとなった作曲家の古関裕而、宮城県の石巻市には石ノ森章太郎漫画館(石ノ森自体は気仙沼の出身)。それなのに、郡山には何もない。あらほど(あれほど)映画館があったってのに。県庁のある福島市よりも多かったのにね。それなのに郡山の人たちは知らんぷりしてんだ、悲しいよね。

 

 ちなみに現在、郡山にある映画館はテアトル郡山(8スクリーン)のみ。ヒット作は上映されるが、映画を見る環境はイオンシネマや単館ロードショーも上映されるフォーラム福島のある福島市、やはりイオンシネマのあるいわき市のほうが整っている。

 

※郡山市の昔の映画館情報は、「消えた映画館の記憶」(管理人かんた様)の情報をもとに作成させていただきました。

 

 巨大な絵看板が映画館に掲示されるのは、その作品が上映中だけだ。当時はどんなヒット作品であっても、現在のようにロングラン上映はなく、上映期間の延長はなかった。

また、後述するが、絵看板は映画館ごとに制作されていた。だから、その作品がその映画館に掲示されるのは、たった1週間だけ。絵看板絵師たちは、1週間だけ掲示されて、その上から張り替えられ、やがて破り捨てられる絵をたった1日で描いたという。

 

 写真に撮影されることもなく、破棄されてしまう、たった1週間の作品。だが、職人たちは真剣だった。その看板が映画の集客を左右することがある。集客があれば、自分たちの評価が上がり、「またあそこの看板屋さ頼むべ」となり、自社の利益となり、自分の給与につながり、家族を養うことができるからだ。

 

 「映画看板は1週間の命って、先輩が言ってたね。パッと咲いて、パッと散る。花火みたいなもんだって」と三瓶さんは語る。

 

 

 自分で勤め先を探すことになって、「どうしたらいいかな。遠くさは行けないし」となったときに、叔父が郡山市内のある看板屋を紹介してくれた。祖父母も叔父も「そこさ行け」とすすめんだけど、「そこでは絵を描くんですか?」って聞いたら、「絵は描かねえ」って。

 

 そうか、「絵は描かねえのか」となって「困ったな困ったな」となってたら、咲田(郡山市咲田)の畳屋の人が、「郡山にこういう看板屋があるよ」って教えてくれたのが、D工芸社だったの。

 

 D工芸社の社長のこと──俺は「親父さん」とか「旦那さん」「親父」って呼んでたんだけど──親父さんはもともと二本松の出身で、次男だか三男だったのね。

 東京に出てって東京の看板屋に勤めたんだけど、そこの娘と恋仲になって、戦後に駆け落ちして福島に戻ってきた人だったの。奥さんはそこの一人娘だったからね、詳しい理由は知らないけど、結構反対されたんじゃないですか。最初は親父の地元の二本松に戻ってきたけど、岳下だしね、二本松じゃ(仕事が少なくて)飯を食えないから、郡山にたどり着いたんだね。

 

 昔、郡山に孔雀堂って看板屋があったのね。郡山の看板屋の先駆けだった。で、そこでわらじを脱いだんだね、親父は。わらじを脱いだんだけど、郡山にはうまい看板を描くところがないし、独立しようってことで、孔雀堂の近くさ、D工芸社を構えたんだ。映画が全盛期の昭和30年に入った頃だと思うんだけどね。

 その頃の郡山の映画館の看板は、中学生や高校生が描くような出来だったんだよね。だけど、親父さんは東京で修行しただけあって、絵はピカイチだった。だから、お得意様を獲得できたんでしょうね。

 

 俺が出会った頃の親父さんは、50代だったかな。D工芸社は、稲荷町……今の商工会館の裏あたりにあったんだ。職人見習い、外方、フリー営業、ほかにバイトも2、3人いたかな。

 

 

 祖父母に大反対されてしまったの。「絶対遠くにはやらせない」って。親父は俺が3歳のときに亡くなったからね。じさまはすごく頑固だったから。朝から酒かっくらって、クダ巻く人だったからね。「ダメだ、絶対やらせね」って言われて、俺も困って困って困って…。「もう、これは行くわけにはいかないな」となって、東京行きを断念したのね。

 

 

 結局、三瓶さんはN工芸社からの採用を断ることになる。おおぜいの中卒の少年少女が集団就職で東京へ行った時代だったが、中には三瓶さんのように家庭の事情や家族の反対で地元を離れられなかった者もいたという。

 

 

 学校から断ってもらったんですよ。「一身上の都合でいけなくなりました」って。そしたら、学校からね、「おまえの就職の面倒は見られないから、自分で探すように」と言われてしまったの。学校も何10人という生徒の職を斡旋しなきゃならないから、俺一人にかまってられないんだよね。もう12月中旬…下旬かな?になってたしね。

 

 あのままN工芸社に就職してたら、俺、どんな人生だったんだろうな。今とは違う道を歩んでたかもしれないね。その後、N工芸社は、東京オリンピックや大阪万博でも仕事をしてたみたいだしね。

 

 東京へのあこがれ? それは当然あったよ。(N工芸社に就職していたら)地方にはもう戻らなかっただろうね。セットをつくる部署を希望してたから、絵は描いてなかったかもしれない。N工芸社は映画館とかは特別やってなかったから。あくまでセットやイベントだったから。だから、セットやイベントで外国に進出するようになってたかもしんないね。

 

東京の映画館の絵看板を描いてみたかったかって? そんときは東京の映画の絵看板なんて見たこともねがったから、その世界が分からない、イメージできなかったの。でも、その前に郡山で『赤胴鈴之助』の看板は見でだからね。N工芸社に入っても、映画の看板を見せられたら、辞めて他さ行ったかもしれねえな。それは分かんね、なんともね。

 

 映画は見でたと思うよ。だって、あの頃は郡山でも東京でも、全国どこでも、娯楽の王様は映画だったからね。どこいったって映画館は大入り満員だったから。東京さ行ったら、「一番最初に見らっちゃ!」とか言って、行ってみたんじゃないかな。

N工芸社に入ったとしても、映画館の前さいったら、うまい絵見たらば、なんて言ったらいいかな、胸騒ぎはしたかもしんね。根っから絵は好きだからね。

 

 

 三瓶さんを東京に連れていってくれた一番上の兄は、数年前に亡くなった。その葬儀で三瓶さんは、N工芸社との不思議な縁を感じたという。

 

 

 兄が亡くなったとき、甥っ子に葬式の弔辞を頼まれたんだ。そこで、「就職試験のとき、父親がいねえから兄が父親がわりになって試験場に連れていってくれた」って話をしたの。

 そしたら、葬式が終わったあと、分家の息子がやって来て「おじさん、N工芸社とどういうわけだったの?」ってなって、「こういうわけだったんだ」って話したら、「俺は今、N工芸社と仕事をしてんだ」って。

その分家の子は、建築屋やってんのね。だからN工芸社のセットとか、なにか建築物をつくるとき頼まれて行ってるらしいんだよね。不思議なもんだよね、世の中は。本当に不思議だ。俺をN工芸社の試験に連れてってくれた兄貴の葬式で、N工芸社の話が出てくる。だから本当に不思議なものだと思ったの。

 

 昭和32年、三瓶さんは中学3年となった。就職組だった三瓶さんは就職活動に入る。その数年後、日本中が中卒の若者を「金の卵」と呼んだ時代がやって来る。この頃のことを歌ったのが、井沢八郎の『あゝ上野駅』(昭和39年発売)である。

 

 

 学校が安定所(職業安定所・現ハローワーク)と連絡を取りあって、生徒一人ひとりに職を探したんですよ。そこで学校が俺に推薦してくれたのが、東京のN工芸社だったの。

 学校が紹介してくれるまでは、将来何になりたいかっていう希望は特になかった。でも、授業では美術とか工作とか彫刻とかが好きで、成績もよかったから、学校も俺の才能を生かせるところを探してくれたんでしょう。

 

 

N工芸社は、主に博物館などの展示や博覧会などのイベントなどの企画・デザインを手掛ける大手ディスプレイデザイン会社である。創業は明治25年。大正年間から二本松の菊人形の展示を手がけていた。

 

 

 その頃の俺は、N工芸社がどんな会社かなんにも知らなかったんだけど、11月頃かな、10歳年上の兄貴に連れられて、就職試験に行ったんですよ。郡山から上野駅まで、夜行で8時間かかったかな。

 そして、N工芸社の事務室で答案用紙を渡されて受験してきたんですけど。

 

 面接のとき、俺が福島から来たのが面接官の間で話題になって、「三瓶くん、二本松の菊人形って、知ってますか」と聞かれたのね。「いや、話には聞いたことがあるけど、まだ行ったことはありません」って言ったの。昭和31、32年っていったら、二本松の菊人形はまだ始まったばかりだからね。まださほど(それほど)浸透してねかったんだよね。でも、そのセットをつくってたのが、N工芸社だったの。面接官から「うちで年に1回、二本松に通ってるんですよ」って言われたの。

 

 工場も案内してもらったけど、「こんなこともやってんだ。こんなこともやってんだ。デパートのマネキンまでつくってんだ」って。それから今でいう、牛とか馬とか実物大のでっかいものもつくってたんだな。デザインと制作とか、職場が3部門か4部門に分かれてんですよ。大きい会社だからね。

 

 で、12月のはじめに採用通知がきたのかな。「どの部署に入りたいですか」と聞かれて、俺、工作好きだったから、「セットとかをつくる部署に入りたい」ということになったのね。

 

 

 学校を卒業したら上京し、N工芸社に就職してセットをつくる。夢に胸を膨らませていたが、三瓶さんは結局、N工芸社には就職できず、上京もかなわなかった。

三瓶さんが描いた新諸国物語の絵看板リスト

 

 さあ、今度は印鑑の問題ですよ。おふくろには授業を抜け出して郡山さ映画見に行って、先生につかまったなんて、どうしても言えなかった。母子家庭だし、4人きょうだいの下で、よっぱら(とても)苦労かけてっからね。そんときはおふくろのそばで寝てたんだけど、布団さ入っても、黙って寝たふりして、みんなが寝静まるのをジーッと待って、「みんな寝たな」ってときに、起き出して、「いつもおふくろはあのへんさ印鑑入れてんな」ってところを、そーっと開けて、自分で印鑑押して。

 

 このことは、おふくろが死ぬまで言わないで済んだ。今思うと電話のない時代だったから、これで済んだんだろうね。学校から家さ連絡がくっこともなかったから。今だったら、おふくろにもすぐバレてただろうね。

 

 そういうわけで、最初の原点は赤胴鈴之助なの。

 

 個人的に絵看板を描くようになってから、もちろん、『赤胴鈴之助』も描いた。描いてないのは、女性のドラマかな。当時は『少女』という女性雑誌があって、(美空)ひばりだの、(江利)チエミだのが演じた映画も漫画が原作だったんだよね。『あんみつ姫』も元は漫画だったし。

女性向けの絵看板を描いてない理由? 特にないよ。手元に資料がないからだと思う。

 

 

 その後、三瓶少年は、一緒に『赤胴鈴之助』を見に行った宗像くんと絶交する。だが、それは親友の今後を考えてのことだったという。

 

 

 当時、俺たちは中学2年だったんだけど、昔の田舎の学校だから、10月頃から進路が進学コースと就職コースに分かれるんだよね。当然、俺は就職コースで、宗像は進学コース。

 その頃の俺には、宗像以外に優秀な友達がもう一人いたんだけど……そっちも宗像だったな。ヒトシとマサツグ。もうひとりの宗像も進学コースの子だった。私は就職コースだから勉強する気もなくて、遊んでたけど、そうすっと、『赤胴鈴之助』見に行ったときもそうだったけど、二人とも一緒になって私と遊ぶわけ。

 

 それが辛くなって、私は「ヒトシ、マサツグ、絶交しよう」と言ったの。進学コースの友達とは全員絶交して、いっさいつきあいをやめるんです。「俺のことはかまわないで、自分のことを考えろ!」と。

 俺の言葉を、宗像はどうとったのかは分からないけど、俺は悪い意味で言ったんじゃない。そうでも言わないと、二人とも俺から離れようとしないから。

 「おまえらは俺とは違うんだ。おまえは高校さ行くんだから。県立狙ってんだろ。別れよう」と言って。それが中学2年の夏頃かな。

 

 二人とも無事に安高(福島県立安積高等学校)に合格したよ。一人は市の職員になって、亡くなるまで遊びに来てくれていた。もう一人の宗像は法政大学へ進学して、横浜の建設会社に入って、65歳頃、青森のむつ市にいったと聞いてる。こっちは生きてるかどうか、分からないけど。

 

 こうして仲良しだった2人の宗像くんと別の道を歩むことになった三瓶少年は、自身の就職問題に向き合うことになる。

 

 ※第1章おわり→第2章に続きます