どうして勉強しなくちゃいけないの?
と子供が言った時の対応
①
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
と子供達が言う時、
本当はその理由を知りたいのではなくて
①やりがいが感じられず、不満をぶつけている
②かまってほしい。注目されたい。
③話を長引かせて勉強時間を短くしたい。
といったことがほとんどです。
②
それを真に受けて、勉強の価値や目的を説明しても、響くことはありません。
そもそも、そんな話を聞く気がないからです。
※そういうことは、もっと別の機会に伝えるべきです。
③
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」と言う子供が訴えているのは、今強いられている方法の「やりがいの無さ」や、「人間関係」についての不満です。
④
大人で言えば、やりがいの無い仕事や、嫌な上司の下で働いているのと同じことです。
報酬があっても、嫌なものは嫌なわけです。
しかし、上司が変わったとたん、嘘のように仕事にやりがいを感じられるようになることは多々あります。
⑤
子供達も同じです。
不満を抑えられないのは、「将来のためになる」ということが理解できないからではなく、今強いられている勉強の仕方や人間関係が「おかしい」と感じるからです。
自分のためになることでも、嫌なことは嫌なわけです。
⑥
会社を変えたら生き生きと働ける人がいるように、
環境変えたら勉強が好きになる子はたくさんいます。
本来、学ぶこと=成長を望まない子供は一人もいません。
かといって、放っておいて子供が勉強をしだすということはありません。
⑦
大切なのは、✕将来のためにと我慢を強いることではなく、〇日々の成長=今の充実感を感じられるサポートをしてあげることです。
今この瞬間の充実感がある時、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と言い出す子供はいなくなります。
⑧
嫌な仕事をお金のために我慢している人ほど、将来のためにと、子供たちに勉強を強いるようになります。工夫ができないからです。
「なんで勉強しなくちゃいけないの?」というのは、そういう大人に対する反発の言葉なのです。
高校教諭(国語科)として、学校に勤めるようになってから8年。
たまたま学校の図書館で一冊の本に出会いました。
それは、喜多川泰さんの『手紙屋』という本でした。
『手紙屋』には、『受験編』と『就活編』と、二冊あって、どちらを先に読んだのかは忘れてしまいましたが、そこには、
「勉強するとはどういうことか」「働くとはどういうことか」そして、それは「何のためなのか?」ということが、主人公の悩みとそれに対する手紙屋からの返事という形式で解き明かされていく内容でした。
詳しい内容については、是非この本を読んでもらいたいのですが、僕はこの本に心を打たれ、三日もしないうちに、喜多川さんの全著作を読破しました。
ではその時僕は、何に心を打たれたのでしょう?
当時のことを思い返してみると、
教師として自分が大切にしたいこと
生徒に伝えたいこと
それがうまく伝わらないこと
職場環境への不満
理解してくれる人が少ないと感じていたこと
これらの要素が重なって、この本には、自分の思いがすべて詰め込まれているような気がして、「自分の考えていることをこんなにも的確に表現してくれる人がいるんだ」って、そんな気持ちになって、心臓が高鳴ったことを覚えています。
そして、すぐに、「作者は誰だ?」「いったい何をしている人なの?」と気になって巻末を見てみると、神奈川で学習塾を経営する塾の先生だという。
瞬間、僕の心臓はさらに高鳴りました。
喜多川泰。学習塾の先生。神奈川県。
気づいたら喜多川さん宛に一通のメールを送っていました。
そこに何を書いたのか詳しくは覚えていませんが、要は
・自分がこれまでどんなことを大切にし、何をしてきたか
・これからどんなことをしていきたいか
・それを是非、喜多川さんの元で一緒にやらせてほしい
という内容でした。
ドキドキドキドキ
本の著者に手紙を送ったことも会いに行ったことも、もっと言うと、手紙を送りたいと思ったことも、会ってみたいと思ったことも初めてで、今思えば、一読者が勝手にメールを送っているだけなのですから、返事を期待するのもどうかと思うのですが、自分にとっては、渾身の思いを、可能な限り短い文章に詰め込んで書いた文章でした。
たとえて言うなら、きっと、返事が返ってくるかどうかわからないエントリーシートを勝手に送り付けて、返信を待っている就活生のような気持ちだったと思います。
皆さんどうですか?
返事が返ってきたと思いますか?
今にしても思うと、「何一人で勝手に熱くなってるの?」という話なのですが、その時は、「僕こそが、喜多川さんの最大の理解者であり、喜多川さんと一緒にお仕事をすべきだ」くらいに思っていて、「一度お話する機会さえもらえれば、必ずそれは伝わるはずだ」「もし返事が来なかったら、直接塾に会いに行って直談判しにいこう」くらいに思っていたんですね。
もはや、ストーカーです(笑)。
自分の頭の中での世界だけで話が完結していて、今にして思えば、本当に社会を知らなかったんですね。
社会を知らないというのは、社会とのコミュニケーションを十分にとっていなかったということです。若い人は、こういうことになりがちだと思うし、もちろん、そうなることも許されているわけなんですが、独りよがりは気を付けてくださいね。
さて、話を戻すと、返信はどうなったのか。
来たんです。実は。
ちゃんと喜多川さんから、メールでの返信が返ってきたんですね。
そこには、こう書いてありました。(※僕の記憶では)
「そこまで教育に対する自分の思いや考えがあるなら、あなたは自分の船を出すべきです。あなたには十分それができるはずです。喜多川泰」
確か、このような内容でした。
少なくとも、僕は、そう受けとったわけです。
さて、それから僕は何を思ったのか。
続きは次回へ
とにかく褒めまくる、ということをうたい文句にしている塾があります。
とっても危険なので近づかないようにしましょう(笑)。
褒めるも叱るも、子どもに上下関係を強いている大人がやることです。
大人が有能であれば、子どもにとってはこんな楽なことはありません。
言われたとおりに、先生に褒められるようにいつも行動していればいいわけですから。
しかし、それが本当に目指すべき姿でしょうか?
褒められることを目的にした行動は、褒められるに値しません。
そもそも、勉強ができるかできないかということで、なぜ人に褒められたり叱られたりしなければならないのでしょう?
褒めたり叱ったりをして、子どもをコントロールする大人は、無意識のうちに、子どもを支配し、依存的な人間関係を強いています。
そのような場合、人の顔色ばかり見て行動する集団が育っていきます。
それでは誰も心地よく生きることはできません。
大切なのは、褒めることや叱ることではなく、現在地を教え、目的地まで寄り添ってあげることです。
それは、子どもの人権を守り、自立した人間としての、民主的な態度を養うサポートです。
大人がそのように寄り添うことさえできれば、子どもは必ず主体的に学び始めます。
褒めるにしろ叱るにしろ、上下関係を強いている限り、そこに主体性というものが生まれるはずはないのです。
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