はるか昔、ドイツのウエストファリア地方に、とある純真な若者がいた。
名をカンディードと言い、裕福な男爵の息子である。
立派な城に住み、何不自由ない毎日を過ごしていた。
たった一つ、決して叶えることのできない恋に苦しむことを除いては。
 
恋するその人の名はクネコンデ。
カンディードの腹違いの姫君である。
 
ある日、城の中ですれ違いざまに出会った二人は、若い恋の炎をたぎらせ、あらぬ行為に及んでしまう。
カンディードの実の父である男爵はこの光景を見るや激しく怒り、カンディードをボコボコにしたうえで、城を追い出してしまう。
 
地上の楽園を失ったカンディードは、ほとんど逃避行と言ってもいいほどであるが、行き場を探す旅に出る。
「カンディード」の幕開けである。
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本作は、18世紀のフランスの思想家ヴォルテールによって書かれた。
ヴォルテールについては、以下を引用する。
 
ヴォルテール(Voltaire)こと、本名フランソワ=マリー・アルエ(Francois-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。また、ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなどとともに百科全書派の学者の一人として活躍した。
(Wikipediaより)
 
「近代哲学の父」デカルトよりは少し後で、カントとほぼ同時期の人物だから、まさに啓蒙時代の真ん中を生きたことになる。
wikiでは「哲学者、文学者、歴史家」とあるが、「哲学書簡」「寛容論」といった名作を世に残しているので、一般的には哲学者とか思想家といったカテゴリーが一番しっくりくる人物のような気もする。
 
ただし、個人的にその「哲学書簡」や「寛容論」、そして本作を読んだ感想としては、ヘーゲルに代表されるような「学者然とした知識のひけらかし」のような嫌味さを感じない。
 
どの作品も眉間にしわを寄せて読む必要もほとんどなく、初めての人でも読みやすい作品が多いと思う。
その一方問われている内容は深く、彼の没後200年以上の月日を経た現代人にとっても、考えさせられる部分は多い著作群だとも思うのだ。
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読後の感想として、今回僕は、以下4つのポイントに絞って書きたいと思う。
 
・聖書のパロディ
 
実の父の怒りを買うことによって、地上の楽園のような自分の城から追い出されてしまい、世界をさまよう様子。
これはまさに、旧約聖書の失楽園のエピソードに瓜二つであり、作者のヴォルテールが意識している可能性は高いだろう。
さらに別の個所でカンディードが拷問を受けるシーンがあるのだが、同時に絞首刑や火あぶりの刑にあった囚人とともに、以下の描写がある。
こうした処刑がおこなわれたその日、大地はふたたびものすごい地鳴りの音とともに激しく揺れた。
(第七章)
これも、福音書に書かれているイエスの磔刑シーンを思わせる。
 

・「お国柄」に対する風刺

 

世界中を放浪している中で、各国の「お国柄」ともいえる事情を知ることもできる。
 
例えばフランスでは、
「みんなで食事をするときだけは例外で、そのときだけはみんな楽しく、和気あいあいとした様子を見せるが、そのとき以外はくだらない言い争いばかりしている。ジャンセニストとモリニストの争い、高等法院と教会の争い、文学者どうしの争い、宮廷人どうしの争い、徴税官と民衆の争い、妻と夫の争い、親族どうしの争いなど、とにかく戦争はやむことがありません」
(第二十二章)
という描写があるし、イギリスの海岸では三人がかりで一人の男の頭に銃弾を撃ち込み、民衆が満足している様子をみて青ざめてしまう描写がある。
こちらの国では、提督らに活を入れるために、ときどき提督を誰かひとり殺すのが良いとされているのです
(第二十三章)
 

・聖職者の腐敗

 
ちょっと気になったのが、聖職者の腐敗とそれに対するヴォルテールの痛烈な批判や皮肉が随所にちりばめられているという点である。
 
(現在は違うだろうという留保をつけておくが)
具体的にはカトリックの有名修道会士の風紀の乱れや、プロテスタントの牧師の狂信性である。
ちなみに、イスラム教の導師(イマーム)が登場する箇所もある。
 
各宗派に対するヴォルテールの考え方がどうであるかについては、「哲学書簡」や「寛容論」にも記述があった記憶がある。
よろしければそちらも参照されたい。
 

・ニヒリズムにあふれた人々

 
物語全体を通して、カンディードは行く先々で沢山の人物と出会うのだが、ほとんどの人物が妙に冷めている。
仮に本作がヴォルテールが生きた啓蒙時代のシンクロ作品であると考えるならば、知識人層は勿論、徐々に庶民階級にもいろんな情報がいきわたり始めた時代。
皆の物分かりが良くなり始めた時代と言えるかもしれない。
 
人々はまた、疲れている。
相次ぐ戦争や理不尽な決まりのもとで、物分かりが良くなった人々は素朴さを失い、生きることに疲れてしまっているようにも見える。
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カンディードは、愛しいクネコンデへの恋とともに、家庭教師であったパングロス先生の言葉を固く信じていた。
それは、
「すでに証明されていることであるが、ものごとは現にそうなっているようにしかありえない。なぜなら、ものごとはすべて何らかの目的のためにつくられたものであるから、必然的にすべては最善の目的のために存在する。」
(第一章)
というものである。
 
これはいわゆる「最善説」というもので、「世界は善なる神が創造したものゆえ最善のものであるという考え方だそうである。
ヴォルテールよりもさらに100年ほど前に、大陸合理論者として知られるライプニッツによって提唱された説として有名である。
 
カンディードの旅は、この「最善説」に対する自問自答の旅であるとも言えるだろう。
だから本作は壮大な旅行記としてと同時に、ある種の処世訓としても読むことができると思う。
 
パングロス先生(ライプニッツ)の「最善説」を信じて疑わなかったカンディードの、長い長い旅の結末やいかに。
 
読者諸氏が、ぜひその目で見届けてほしいと思える作品である。