「自分を受け入れる」を、
別の言い方をしてみるなら、
「自分に気づく」、
「自分に気づいていく」でも、
いいかもしれない。
自分らしく生きようとするのなら、
「気づくこと」は、
とても大事だと思う。
もし、このブログのタイトルを、
もっと目を引くように変えるとしたら、
「自分を好きになりたいなら、〇〇だけでいい」
「幸せになるための、たった一つのこと、それは〇〇こと」
とかにしてしても良いぐらい、大事。
その〇〇に入るのが、
自分に「気づく」ことになる。
何かを得たり、
何かをできるようになったときの達成感なんかも、
捉え方を変えてみたら、
自分が何に喜びを感じるかを、
それを達成したことで、
体験を通して気づくことができた。ってなるし、
上手くいかなかったときだって、
その失敗や挫折は、
自分がどうしても手に入れたいものに、
改めて気づかせてくれた。ってなるはず。
すべての体験を通じて、
人は何かを感じ、
そして、
感じている感覚を通じて、
自分は何者であるのかに、
気づいていっているのだと思う。
それこそ、一瞬一瞬、
たとえそれが、無自覚だとしても、
自分に気づき、
自分を知っていっている。
昔、娘と一緒に、
近所のちょっとしたお祭りに行ったとき、
その会場の特設ステージで、
特撮ヒーローもののショーをやっていた。
その当時、幼稚園に通っていた娘は、
そのとき、
ショーの中で戦っていたヒーローや悪役は、
いつも休みの日にテレビで出てくる方たちと一緒だと、
フツーに信じていて、
何なら、
「今日は大きなロボットはでなかったね~」ぐらいの感想を言っていた。
これを「いやいや、アレはニセモノで、本当はね」って、
撮影がどうのとか、
出演者がどうのとか、
そもそも、このヒーローは実在しなくてとか、
一から説明するのは、なかなか面倒だし、
じゃあ、何から何まで、教えればいいのかって話だし、
娘は何も知らないまま、問題なく楽しんでいたわけだし、
だから、お父さんとしては、
「そうだね~、今日は近所に悪者が来て大変だったね〜」ぐらいに、
娘に話を合わせていた。
それが、真実なのか、空想なのかは置いといて、
彼女の中の世界では、
まだ幼くて、
限られた知識しかない世界では、
曖昧なまま、でも、
しっかりと、辻褄が合っていたんだと思う。
で、それから10年ほどたった今では、
もう、当たり前に、
あのとき、説明しようか迷ったことは、全部、
それこそフツーに、知っている。
じゃあ、あの頃のピュアピュアだった頃に比べて、
つまらない毎日を送っているのかって言えば、
そんなことはなく、
小学生になった今では、
お気に入りの俳優さんが出演しているドラマとかを、
自分でチェックして、
楽しみに観ていたりする。
成長する = 知っている範囲が増える
って考えても、良いと思う。
そして、ここで使う意味での「成長」は、
特別に手を加えなくても、
正しい知識を植え付けなくても、
あくまで自然に育まれていくものだと思う。
今、認識できる世界が、
自分の世界のすべてなんだと思うし、
その自分の世界で、もしも100%満足出来たとしたら、
それが、
本人にとって、100%の満足なはず。
人が成長するって考えると、どうしても、
「賢くあらねば」的に、
知識とか、
「知っていること」を増やしていくことを、
求めがちだけど、
知らないことや、
できないことを、
少しでも減らすことに追われて、
劣等感なんかを混ぜ込んで、
無理やりに成長させることは、
別にしなくてもいいと思う。
もちろん、無知だったり、未熟だったりで、
生活する上で困ることなんかが、
もしも、生じたのなら、
そのときは、
「正しい知識」を知っていく必要はあるけれど、
まわりからバカにされないようにとか、
まわりから認められるためにとか、
そんな方向での成長は、
本当の意味で満たされることは、
難しいと、
私は思っている。
その時々の、
自分が感じていることに、
ちゃんと繋がって、
その繋がっている感覚が、
自分が本当に求めているものだったら、
心は自然に満たされる。
まわりと比べて、
正しいとか、間違っているとか、
そんな枠に囚われない、
自分にとっての真実は、
自分を満たしてくれるし、
さらに、
その満たされ感は、
先へ先へと自分を導いてくれる。
あのとき娘と観ていたヒーローショーは、
たまたま、男の子が好きそうな戦隊モノで、
娘は、テキトーな感じで観ていたから、
あんな感じの感想だったけど、
もし、あのショーが、
当時、気合いを入れて毎週かかさず観ていた、
プ◯キュアとかだったとしたら、
娘のリアクションは違っていたかもしれない。
テレビとショーと現実が、
ごっちゃになって、
混乱して、
あんなのは違うって、お怒りだったかもしれない。
それは、それで、
じゃあ、どんなのなら満足なの?を、
探すことになるのだけれど。
変に知識を増やして、
純粋に楽しめなくなるぐらいなら、
おバカで能天気なぐらいが、
ちょうどいい。
要は、今の自分と100%繋がって、
本心が求めることを満たせばいい。
自分のことは、自分が一番、よく知っているはずだから。
自分のことは、自分にしか、わからないのだから。
でも、
そんな当たり前みたいなことが、
なかなか、というか、
かなり難しいのだと思う。
人間として生まれて、
肉体を授かった時点で、
制限だらけの、
思うようにならない毎日が待ってるし、
何かあると、
すぐにストレスにまみれるし、
自分の本当の気持ちなんて、
簡単に見失ってしまうし。
そればかりか、
そのときは納得できない、
不満な出来事だったとしても、
ずっと後になって、
あれはあれで良かったよね的な、
良い思い出にもなったりするし。
そもそも、人は、
自分の身に起こっていることすら、
認識しきれないことばっかりだし、
感じていることを、すべて、
把握することなんてできない。
そんな、
見えていないものたちの中から、
「あぁ、これがあったんだな」って、
何かのきっかけで、
自分にあるものに気づくことができたなら、
感じていることに、
気づけたのなら。
その瞬間こそが、
自分の内側にあった感覚が、
潜在意識から顕在意識へと上がってきた証であり、
それこそ、
自分で言語化できるぐらいに、
自分を把握できたってことだし、
そんな、体験の繰り返しが、
自分と繋がったような、
自分を思い出したような、
大切な瞬間の積み重ねとなって、
自分に対する信頼感みたいなものが、
増していくのだと思う。
岩佐利彦