2024/04/26 信濃毎日新聞
 渡満を後悔し続けた被差別部落出身者 圧に流されず、道を選ばねば

 決意と緊張がない交ぜになったような視線がカメラに集まる。20日、小諸市で開いた県水平社の創立100周年記念集会(部落解放同盟県連合会主催)で、100年前の創立大会の集合写真がスクリーンに映し出された。その中に、17歳で参加していた高橋角市さん(1907~72年)がいるはずだが、どの人かは分からない。現小諸市の被差別部落で初の開拓団員として満州(現中国東北部)へ。戦後、そのことを悔やみ続けた。

 「角市さんや被差別部落の人たちに満州移民を強いたのは誰か。差別や偏見と闘わなかった社会ではないか」。記念集会の運営に加わった人権センターながの(長野市)の高橋典男さん(64)は問う。

 角市さんと満州との関わりを示す記録は地元にもほとんどない。現在の被差別部落の関係者にも知る人はいない。わずかに、元県短大教授の故青木孝寿(たかじゅ)さんが聞き取った証言が残っている。

 「部落の模範として行ってくれ」。角市さんは、同郷の先輩で県水平社幹部だった朝倉重吉から満州へ渡るよう頼まれた。生まれ育った被差別部落では、1940(昭和15)年から集団で満州へ移る計画があった。頼まれたのはそれより前。朝倉が、国などの力で部落の人たちの地位向上を目指す「融和運動」に追従しつつあったころだった。集団移民の地ならしとして、実績づくりを託されたのか。

 角市さんは貧しい農家の生まれ。小学校から先には進めなかった。「満州に行けば、徴兵もなく、ここよりはましな生活もできるのかな」。39年、北佐久郡町村会が送り出した小古洞(しょうこどう)蓼科郷(ごう)開拓団の一員として大陸に渡り、父と妻、5人の子どもと暮らした。

 だが、土地や家屋は事実上、現地の人たちから奪ったものだった。満州に差別のない暮らしを求めることは、郷里では差別解消への地道な取り組みを放棄することでもあった。開拓団は45年8月、旧ソ連の対日参戦や暴徒化した現地民の襲撃などで、200人余が集団自決。応召していた角市さんも父と子ども3人を失った。シベリアに抑留され、49年9月に引き揚げた。

 「安易だった」。角市さんが戦後、満州に渡ったことを悔やんでいたと、小諸市を拠点に被差別部落の歴史を長年調べてきた斎藤洋一さん(73)=山梨県中央市=は部落関係者から何度も聞いた。被害と加害のはざまで、ままならない人生を省みていた。研究会などに積極的に参加し、若い世代に「戦争は最大の人権侵害。二度と起こしてはならない」と訴えていたという。

 県水平社の創立100周年記念集会では100年間を振り返る動画が流された。水平社が戦時下、解散を求める圧力を国から受け、抵抗して自然消滅を選んだ歴史に触れた。就職活動中の学生のSNS(交流サイト)を企業が調査する動きを巡り、出自や思想信条による「就職差別につながる」といった懸念も出て、新たな形の人権侵害にも向き合っていくと確かめ合った。

 差別や偏見に対する社会の無関心が、満蒙開拓の悲劇や戦争を引き寄せたのだとしたら―。「どの時代でも、どの人間も、差別や偏見について自ら考えて、闘わないといけない」。動画を制作した高橋典男さんは思いを深める。

 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」。水平社宣言が高らかに読み上げられた。「大事なのは、外からの圧力に流されるのではなく、自ら選ぶことだ」。部落解放同盟県連合会書記長の中本栄さん(70)=長野市=は、歴史の教訓をかみしめる。