今から6四半世紀前の幕末に、幕府体制の拠って立つ基本貨幣である「両」は、市場でハイパーインフレを起こして(下のグラフを参照ください)破綻しました。そしてそれからさらに3四半世紀が経った、つまり今から3四半世紀前の太平洋戦争での日本の敗北の結果として、戦前日本政府の基本貨幣であった「円」もまた、ハイパーインフレを起こし(さらに下のグラフを参照ください)、あるいは預金封鎖と財産税課税(何れも1946年)によって日本人個人の金融資産をほぼ無価値に落とし込むという形で、破綻しました。

 

 

出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)に示されたデータを素に作成

 

 

出典:総務庁統計局監修 日本統計協会著 『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)に示されたデータを素に作成。

 

「円」は、幕府体制を否定して成立した明治の維新政府が、幕府財政を支えていた「両」にとって替わる近代的貨幣として登場させられたものだ、と一般に理解されています。私も、ついこの間までそう信じていました。

 

しかし事実はそうではなく、「円」は、多少体裁を変えただけの「両」であったのです。

 

経済学者の三上隆三19262019年)は、その著書『円の誕生(増補版)』1989年)に、1871(明治4)年に明治新政府が「新貨条例」を発して新しい「円」を基本通貨の呼称とする貨幣制度に至るまでの経緯を詳しく書き著しています。そのなかで、貨幣制度改革と「円」という呼称についての基本的で合理的な解釈とその解説が加えられています。

 

しかし私にとって最も印象的であった歴史的「事実」は、幕末の時代において庶民のみならず、知識人たちも、「両」のことを「円」と呼ぶ習慣をもっていた、ということです。

 

例えば、幕末の思想家を代表する橋本佐内は、1851年に出した書簡中に、「金五円ならバ売渡度由申参候(値を5円とするなら売っていい:著者訳)」と書いているし、慶応3年(1867年)に、京都詩仙堂の近くにある金福寺という禅寺に檀家が共同して「一金五円二歩三朱六百文」を寄付したとの記録が残されていること等を、三上はその例示として挙げています。ここに「円」と書かれているのは、もちろん公式の幕府貨幣制度上の呼び名は「両」です。

 

そのことについての公式の説明は、1872(明治5)年とその翌1873年に江戸城内で起きた火災によって紙幣寮と太政官衙が失われたことにより、1871年までの「貨幣関係の中心的重要書類が消失してしまった」ためにない、と三上は信じられない記述をしています。なぜなら、徳川時代の初期に、武士から官僚にその幕府治世の主人公が入れ替わる頃より、今に至るまで官僚の「文書主義」というのは徹底していて、「前例主義」を専らとする官僚にとって、文書の作成と「保存」以上に大切なものはなかったからです。

 

しかし、新政府の治世の最も根幹であった貨幣制度がいかにつくりあげられたのか、それについての「記録」を官僚たちが残してはいない、というのは驚天動地以上のことです。仮に、正本が消失したとしても、幕府官僚たちは私蔵する書類をかき集めて、正本を復元することに必死に取り組んだはずです。しかし、新貨幣制度がいかなる政府内の検討と審議を経て決定され、施行されたのか、そのことについての公式文書が存在しない。

 

私にとって、合理的な説明は一つしかありません。彼ら明治の新貨幣制度の策定に関わった官僚たちは、その公式記録を残したくはなかったのだ、ということです。

 

勿論そのことは、「下司の勘繰り」であるという以上の域に出ません。しかし、それほど不自然なことであるのです。

 

幕府官僚たちは、幕末に1858年に結ばれた「日米修好通商条約」に基づいて、当時の国際通貨とされたメキシコ・ドルと日本の銀貨の間の交換について約しているのですが、その際の不手際がたたって、それまで進行中であった日本の悪性インフレは一挙に加速されて未曽有のハイパーインフレに陥っています(その様子は、冒頭のグラフに掲げた通りです)。

 

それは基本的には、日本の金貨と銀貨の間の「公式」交換比率が当時の国際的な金銀比価と大きく違っており、さらにはそれとほぼ等しい日本国内での実態的な金銀交換比率とさえ違っていたことが引き起こしたことでした。そしてそのことは、万延元年(1860)に従来の小判(金貨)の3分の1しか金を含有しない万延小判を発行することによって通貨問題としては落ち着いたのです。

 

しかし、驚くべきは、そのような金銀含有量の公式と実質の食い違いによって金の大流出という大事をおこし、さらにはハイパーインフレを引き起こして日本経済に大混乱を引き起こしていたにもかかわらず、11両の価値をもつ最も基本的な通貨である万延小判に対して、公式にはその2分の1の価値をもつとされる万延二分判金(金貨)が、2枚合わせてもその合計含有金量が万延小判のそれの4分の3にもはるかに満たない72.5%)量しかもたせてはいなかったのです。

 

つまり、幕府官僚たちは、金貨が幕府の主要な貨幣であって銀貨はそれに従属する意味しかないのだと主張しつつ、その金貨について再び不公正な鋳造に及んだのです。

 

そして、1871年に新貨条例を発する際に「1円金貨」の原型としたのは、徳川幕府が最後に残した公式基本貨幣である万延小判ではなく、万延二朱判金2枚を併せた「1両」であったのです。それは、万延小判発行後も、「悪貨は良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」に則り、1860年以降の日本の市場に流通したのは、万延小判ではなく万延二朱判金、つまり「悪貨」であったからです。

 

万延二朱判金と新1円金貨

【画像出展:Wikipedia File:Manen-2shuban.jpgauthor:As6673File:1yenM4.jpgauthor:As6022014

 

つまり、日本の新しい近代貨幣である「1円金貨」は、幕末の「悪貨」を土台にしてつくられたのです。「円」は良貨である「1両小判」ではなく、悪貨である「二朱判金」2枚に等価なものとしてつくられたのです。ここに、明治新政府の貨幣制度の困難が始まっています。

 

1871(明治4)年に明治新政府は一旦銀本位制度を採用しながら、その年のうちに金本位制度に改変するという、これまた驚天動地の大変革を行っています。そして上に述べた「1円金貨」が発行されているのですが、しかし世界の金銀比価相場が銀の産出量の増加により1875年以降高騰したのに対して日本の公式金銀比価は変更されず、そして日本国内での金銀比価が1877年以降高騰してもなお、公定金銀比価を維持したことから、再びグレシャムの法則が働いて「1円銀貨」が「1円金貨」を市場から駆逐して、日本は、「実質的な銀本位制度」(「実質的な金銀複本位制度」と称する学者もいます)に戻ってしまったのです。

 

 

明治新政府が「本位」とした「1円金貨」の実に81パーセントは海外に流出して、日本国内の基本貨幣としての役割を果たすことはなかったのです。「悪貨」は「良貨」に変り身した、そしてその変り身ゆえに、新政府自身が自ら産み出したそれ以上の「悪貨」により駆逐された、という不幸な負の連鎖が明治初頭期に起こったのです。

 

現代日本人が、「円の信用とはいったい何か?」を考える上での、一つの重要なヒントをこのことは提供しています。

 

 

この負の連鎖が起こった背景には、明治初期の日本が輸入超過を続けていて、金本位制を実施するのに必要な、当時の自国ではごく少量しか産出しない、金を入手する手立てをもたない日本政府が、無理やりに金本位制度を採用したということがあります。そしてそのこともまた、幕末に幕府が金を潤沢に用意できないままに、銀貨を実質的な従属貨幣として実質的な金本位制度を敷いたという点に共通しています。つまり、どの角度から見ても、1871年に発行された金本位制度に基づく「1円金貨」は、幕末の「金貨」の変り身であったのだ、ということが判然とします。

 

 

1895年に日清戦争に勝利した日本は、清国より銀貨で得た賠償金をロンドンでイギリス金貨に替えて受け取って、実質的な金本位制に移行するに必要な金を準備できたことから、1897(明治30)年に至って「貨幣法」が制定されて(松岡正義内閣)、ようやく名目的にも実質的にも近代的な金本位制を実現するに至っています。日本が国を立て、維持するには、内国経済を発させる以上に「戦争での勝利を必要とする」、という、悪い歴史の記憶がこの時に生まれてしまった、と見ることもできます。

 

 

このように、1871(明治4)年に制定された「新貨条例」によって成立した新しい日本の貨幣である「円」は、実態的には270年近くにわたって徳川幕府が維持し続けてきた伝統の貨幣制度にもとづく「両」の変り身であったに過ぎず、しかも徳川幕府時代を通して改悪され続けた貨幣制度が産みだした「悪貨」を引き継いで成立したものです。

 

現在の日本の貨幣である「円」の信用はいったいどこに由来しているのか? そのことを考えるには、江戸時代の貨幣制度にもとづく「両」の信用とはいったい何であったのか、という所から議論を始めなければならない、と私が考えるのは、そういった「円の誕生」の歴史にその根拠があります。

 

 以降、回を重ねるうちに、ついに現代の「円」の信用とはいったい何であるのか、というところにまで辿り着きたいと考えています。