昨日は終戦記念日。5年前に亡くなった父の遺品を、改めて手に取りました。

 

昭和12年生まれの父は、先に上海に渡った父に呼び寄せられ、戦時中は上海で暮らしていました。

祖父の仕事がうまくいっていたようで、立派な三輪車に乗る父の写真が残されています。

誕生日には中国人の料理人が料理を作りにきてくれた等、戦時中の日本では考えられないほど豊かな生活を送っていました。

 

やがて日本は敗戦し、8月15日を境に中国人と立場が逆転しました。

それまで優越的な立場にいた日本人は敗戦者となり、圧倒的に優勢な中国人に囲まれ、息をひそめて暮らすようになったそうです。

 

しかし、元々中国人と仲良く暮らしていた祖父は、中国人を恐れることなく、普通に過ごしていました。そして、中国人を恐れて逃げてきた日本人たちを家にかくまっていたとのこと。父の記憶では、一時、5〜6家族と一緒に暮らしていたようです。

 

結局、中国人がとても寛容であったため、暴行を受けた日本人はほとんどいなかったようです。

その後は、引き上げ船で命からがら帰国し、無一文になり極貧生活を送った父家族ですが、楽観的な性格なので、「苦しい思いをした」という話は聞いたことがなく、いつも楽しかった思い出を話してくれました。

 

祖父は私が一歳の頃に亡くなったので、私は祖父の記憶が全くないのですが、長生きしてもらって色々な話を聞きたかったです。

断片的な父の上海での記憶ですが、この短い話の中にも学ぶことがいくつもあり、平和について考える時、いつもこの話を思い出しています。

 

写真は、上海国民学校同窓会から送られてきたカルタ。大陸を日本の子どもに知らしめるために、当時作られたそうです。

ちなみに左下の「く」は、「国のためなら、この大陸で、土になるまでご奉公」。

右上の「あ」は、「あーん、あーんと来る泣き女。つづく行列お葬式」。