3月27日(日)は茨城県水戸城での日本城郭史学会主催の見学会がありました。
水戸城は水戸市市街地に中心にあります。城跡には堀や土塁の一部がよく残っていますが、これまでは都市化に埋もれてあまり城跡らしくは感じませんでした。近年、大手門や櫓が復元されて城跡の様子はだいぶ変わったとの話を聞きました。水戸市教育委員会の関口慶久氏が案内講師を勤めてくれました。水戸城に行くのは10年ぶりだったので、水戸城の変貌が楽しみだった見学会でした。

 

水戸城大手門

 

 当日は水戸駅前の水戸黄門像前に集合です。東京から少し遠い水戸でしたが40人近くの人が当日参加されました。最初に案内人の関口さんからこの日の見学コースについての説明がありました。

 

駅前水戸黄門像前

 

 2020年に復元された二の丸角櫓は水戸駅前からも見えます。駅前の歩道橋を進んで角櫓から一番近い場所に移動します。以前は櫓がある場所は学校敷地で森でした。木がうっそうと生い茂っていました。城跡だと意識しないと分かりにくい場所でした。水戸の地元の人たちもここが城跡だとあまり認識していませんでした。今回復元した角櫓は水戸駅から一番近い建物でした。今回の角櫓復元には駅の間近に城があることを認識してもらう目的もありました。

 

二の丸角櫓

 

 水戸市では水戸駅前や城跡周辺の電線除去を行いました。そのために地上に電線関連機器の設置が必要になりました。その機器の平面部分を利用して、江戸時代城下町と現在の地図を重ねた案内図を設置しました。街の各所にこの案内はあり、街中を歩いていると今どこにいるか分かりやすいです。10年前にはなかった案内です。
 

水戸駅前

 

水戸城周辺案内図(電線機器を利用)

 

 昭和20年8月2日の米軍による水戸空襲があり、水戸城三階櫓を始め、市街地の大半は焼失しました。このイチョウも黒焦げになりました。戦後しばらくしたら黒焦げの木から新芽が生えてイチョウは蘇りました。今でもここにはイチョウがあります。

 

大銀杏

 

 三の丸跡にある三の丸小学校は学校改築時に冠木門と土塀を模擬で作りました。江戸時代当時はこれらの門や土塀はこの場所にありませんでしたが、城跡の雰囲気に合うように作られています。土塀は外側から見れば白壁の土塀で城跡にあっても違和感がありません。外側からの見栄えをよくしたので小学校側の内側部分は普通のブロック塀でした。

 

三の丸小学校冠木門

 

三の丸小学校白壁

 

三の丸小学校白壁裏側

 

 水戸城は現在でも本丸、二の丸、三の丸の空堀が残っています。本丸空堀はJR水郡線が通り、二の丸空堀は道路が通っています。三の丸空堀が一番原型を留めている空堀です。空堀は今では土橋が二本あり、三ヶ所に分かれていますが、本来は一本につながった空堀でした。空堀の内側には土塁もあり、基底部は30Mと幅がある土塁です。

 水戸城では石垣は使用されていません。江戸時代初期の初代頼房時代に石垣を使った築城を計画しました。沼津に石切り場を準備するもそれ以上は進まずに石垣使用は頓挫しました。正確な理由は不明ですが財政難で頓挫したのではといわれています。
 

三之丸空堀跡

 

 三の丸の北西には二つの歴史建物があります。どちらも江戸時代からの建物ではありませんが、一つは明治7年に建てられて剣道場の水戸東武館です。今は市の文化財になっています。ここ東武館では北辰一刀流を教えていました。幕末、水戸藩では藩主斉昭によって千葉周作が水戸藩士に取り立てられて、江戸と水戸で北辰一刀流を教えました。その後、江戸の北辰一刀流が絶えるも、水戸の北辰一刀流は続きました。

 

水戸東武館

 

 東武館の隣には昭和7年建設の配水塔があります。こちらは国の登録有名文化財になっています。

 

水道配水塔

 

 三の丸の北側には北指御門があり、現在は復元されています。この門は写真はなく、発掘調査でも詳細分からず、絵図にかろうじて門の特徴が記されていました。柱をつなぐ貫(ぬき)は二本あるのが特徴の門です。

 

北柵御門

 

 三の丸の弘道館にも土塁がありました。この土塁は外側の土塁に比べて低く復元しています。弘道館は有料ですが、孔子廟や八卦堂は有料エリア外なので見学出来ます。

 孔子廟は今では弘道館の裏側に見えますが、本来は弘道館の中心に近い場所にありました。神獣が門の屋根に2頭、4頭の合計6頭あるのが特徴です。同じ構造の門は湯島聖堂と潮来にあります。
 八卦堂が弘道館の本当の中心に位置します。建物内に記碑があり、日本で始めて尊王攘夷の言葉がこの記碑に記されています。記碑は東日本大震災で破損しました。これまでで一番大きな被害でしたが、長い時間をかけて破損した部分を一つ一つパズルみたいに戻して、修復しました。

 

三の丸弘道館周辺

 

弘道館にも梅林がありますが、この時期だとだいぶ散っていました。

 

弘道館の梅林

 大手門の復元計画が過去二回ありました。一回目は土塁を削り、車も通れるようにする計画でした。遺構を破壊しての復元計画だったのでこれを実行したら問題になった事でしょう。
 二回目は可能な限り本物に近い復元を目指しました。絵図、写真、発掘調査を5年かけて事前の調査を行いました。それでも大手門脇の袖塀の写真や記録はあまりなくて詳細不明でした。この部分は弘前城を参考に復元しました。
 大手門は外側から向かって左側に番所、右は吹き抜けになっています。左側部分から硯が出てきたのでここに番所があったと推定されます。大手橋と大手門の中心部分は合っていません。大手橋は何回か架け替えているので、その時に橋の位置がずれた可能性はあるのではとの事でした。

 

徳川斉昭像と大手門

 

 今回は大手門の番所から二階部分を見学できました。ここは通常は非公開です。二階は今より急傾斜の手すりがない階段でしたが、そのまま復元すると危険なので昇り降りしやすい階段にしています。昇りやすいといっても本来の階段よりはという事で少し急な階段でした。大手門の裏側は写真がなくて、窓の詳細が分からなかったので窓は作りませんでした。二階は物見と太鼓があり時報を知らせていました。釘は洋釘である丸釘ではなく、角釘を使用して復元しています。

 

大手門二階への階段

 

大手門二階部分

 

大手橋(大手門二階から)

 

 大手門先は学校の塀として白壁の土塀で模擬で作られています。大手道は当時は十間でした。今も同じ幅の道が通り、左右の土塀とともに当時の雰囲気を出しています。

 

二の丸大手道跡

 

 高校と小学校の境目を通る狭い道を通って二の丸角櫓に向かいます。大手門は三つ葉の葵の軒丸瓦、隅櫓は巴の瓦で復元しています。
隅櫓からは葵の瓦は出てきませんでした。

 角櫓内には資料が展示されています。坂東市の万蔵寺にあった伝大手門扉もここに展示されています。実際に城内で使用された門だと思われますが。大きさを考えたら大手門扉としては小さい扉です。この門扉が水戸市に寄贈されてから、大手門復元の気運が盛り上がりました。

 

二の丸角角櫓

 

二の丸角櫓から東側本丸方面

 

 二の丸には杉山門が復元されています。6割の大きさで復元されているので少し小さな門になっています。

 

左側は杉山門

 

本丸空堀跡

 

 現在はJR水郡線が通っている空堀跡を渡れば本丸です。本丸跡は高校になっていますが、虎口周辺は枡形と土塁がよく残っています。学校敷地になっていますが、他にも土塁が残っています。

 

本丸西側虎口と土塁

 


 橋詰門は本来の場所から少し奥に移築されています。門がこの場所に移築されるまで色々経緯がありました。明治20年に県令官舎の門として移築、昭和17年に祇園寺表門として移築されます。昭和56年に本丸に移築復元されます。この門は構造や技法から江戸時代以前の佐竹氏時代(1591から1602年)の門だといわれています。無骨な感じの藥医門です。

 

橋詰門(現存門)

 

  橋詰門を見学したら水戸駅に戻りました。集合場所の水戸黄門像に戻って、見学会は解散です。

 10年ぶりの水戸城は予想以上に変わっていました。建物復元、城跡に似合うような塀や門、街中各所に案内図設置と以前より地元水戸では水戸城への思いが強くなったと感じました。今回の見学会は午後からに半日でした。弘道館や水戸東照宮も見学したら見学に一日かかるでしょう。大手門、角櫓と復元されたので次は三階櫓の復元を期待したいですが、学校敷地ということもありすぐには出来そうもありません。

 最後に水戸東照宮に安楽車の写真で今回のブログは終了します。幕末に徳川斉昭が作らせた日本最古の戦車です。実戦で役に立つかは疑問ですが、インパクトのある展示でした。

 

安楽車(日本最古の戦車)