koroのいきあたりばっ旅:アメリカ大陸横断編 -3ページ目

暑いぞ!マレーシア

みなさんこんにちは。koro in Malaysiaです。


僕の旅はいつもいきあたりばったりなわけですが、いつのまにやらここマレーシアにまで来てしまっていました。びっくりだなぁ。アメリカからながーい旅をして(丸二日つぶれる)ここに到着してはや一週間。早いものです。


この国のことは何も知らなかった。来るまで。もちろん、ここでは勉強をするわけなので(これは大学の短期留学プログラムなのです)、観光客的なところはあまり知らなくてもいいわけだけど、やっぱり基本的なことは知っておくべきかなーと思いつつ、結局来るまであまりこの国のことについては調べなかった。


実は僕、アジアに来るのはこれが初めてなのです。クアラルンプールに着いて、空港のイミグレーションを抜け、しつこい客引きのタクシーをかわし、ターミナルを一歩抜け出ると、


「うおーーーー!!


あちーーー!!」


熱気、熱気!あつい!マレーシアってこんなに暑い国だったのか!とただひたすら驚くkoro。べたっとする空気に包まれて、ただひたすら感動しまくっていたのでありました。



マレーシアはご飯がおいしい。これは好き嫌いもあるかもしれないけれど、中華、マレー、インドの料理が食べられる。僕が今まで食べたものはだいたいどれもうまかった。


もう一つ驚いたのは安いこと。一度、名前は忘れたけれど市内の地元の人が行くようなマーケットの近くでご飯を食べたとき、インドカレーとナンとライム・ジュースを飲んでわずか2リンギット(60円くらい)だったのでものすごーく驚いた。今日本で60円で買えるものって一体なんだろう?まぁ、これはマレーシアの中でも安いといえるものだったけれど。


ついでだからもう一つ書いておくと、マレーシア料理はなかなかいけるけれど、ジュースもうまい。果物が新鮮だからかもしれないけど、ジュースはどこで飲んでもまぁなかなかのもんです。マレーシアに行くことがあったら、ぜひジュース飲んでみてください。


ま、そんな感じで日々生活してます。こちら にも書いてるので、のぞいてみてください。ではまた。

スペイン旅行記最終章

11月1日(月)


飛行機が低くたちこめる雲を突き抜けて降下すると、暗く湿った寒そうなブリュッセルの街が見えてきた。やれやれ、戻ってきたな、と僕は思った。


今朝は朝4時半に起きて、5時前にチェックアウトして近くに止まっていたタクシーに乗って空港に向かった。深夜料金とかなんとか言いがかりをつけてボラれるんじゃないかと僕はずっと警戒していたのだけれど、そのおじさんはいい人そうで、僕が予想していたより安い値段で空港に着いてしまった。そして朝7時の飛行機に乗ってブリュッセルに戻ってきたのだ。


ブリュッセルは予想通り寒く、街は暗くとても静かだった。これは今日が休日だからだろうけれど人も少なく、スペインの明るく開放的な雰囲気から比べると、その落差に少し驚いてしまう。良くも悪くも、僕はこの街に戻ってきたのだ。


しかし何て静かなんだろう、と思う。まるで誰もこの街には住んでいないような気さえする。しかし、ともかく僕は戻ってきたのだ。


と、いうことでこれで僕のスペイン旅行記は一旦終わりです。これはほとんど日記を元に書いたものだけれど、今になって読み返してみると、あぁやっぱりスペインは僕にとってとても新鮮なところだったんだなぁと思います。 もちろんベルギーとかフランス、ドイツなどにはそれなりの楽しみがあるけれど、僕はあのラテン的な「まぁいいじゃん、太陽も出てるしさ、適当にやっていこうぜ」というような感じがー実際にはもちろん違うんだろうケド、感じよ、感じ-何ともいえず好きでした。また機会があったら行きたいですね。


ブリュッセルに帰ってきてからのことはまた書きます。書くこともたくさんあると思いますし。


ところで、僕は今マレーシアにいます。なんだか突然かもしれないけれど、大学のプログラムで、他のアメリカ人10人ほどと共に、クアラルンプールで1ヶ月だけ勉強することになっています。なので、次からはマレーシアのことをいろいろ書いていきたいと思いますが、ここはネット環境が悪いので次はいつ更新できるやら・・・。でも、必ず書きますから見に来てください。ではまた。

さらばバルセロナ

10月31日(日)-バルセロナ、マドリッド


朝起きると、夜遊び族も戻ってきてくかくか寝ていて、部屋中に酒の匂いがした。僕はしばらく天井をにらんでいたが、起き上がった。下のベッドの男は一足先に起きているようだった。


手早く荷物をまとめ、やや時間があったが駅でゆっくりしていればいいや、と思ってチェックアウトしようとしてフロントへ行くと、下のベッドで寝ていた男が腕時計を指差しながらフロントのおじさんと何事か話している。スペイン語だったのでよくわからず、フロントの愛想のよくないおじさんにキーを返し、何気なく時計を眺めるとまだ7時だった。あれ、おかしいな、7時半に起きたはずだったのに、この時計狂っているのかと思ったら、下のベッドの男が英語で「夏時間が終わったから1時間マイナスなんだよ、俺も今気づいてさ」と言った。


最初、その説明は僕の頭の中で全く意味をなさなかった。こいつは何を言っているのだろうと思ったが、だんだん飲み込めてきた。サマータイムが終わることをすっかり忘れていた。ということは僕は7時半に起きたつもりだったのだけれど、実際は6時半に起きたことになる。めんどくさいシステムだな。しかし早いのならまだ許せる。これがもし進んでいたらと思うとぞっとした。


何もやることがないのでフロントのベンチに座ってそこにおいてあった衛星版の朝日新聞を読んだ。なんだかずいぶん久しぶりに日本の新聞を読んだ気がした。新潟の地震のニュースばかりだった。それほど亡くなった人はそれほど多くないようだったが、怖いなぁと思った。


読んでいると、他の泊り客も次々にフロントに出てきて時計を見上げ、「時間間違っているよ」とフロントの人に言うのだが、そこで一時間マイナスだよと言われるとみんな驚いたり「しまった」という顔をしている。そういうのを見ていて面白い。


1人の女の子がやってきてやはりフロントで気づき、「何てことなの」という顔で苦笑しながら僕のほうにやってきて「Did you know the time has changed?」ときれいなBritish Englishのアクセントで言った。いや、フロントで気づいたんだよ、と僕は笑いながら言った。それから少し雑談をした。


彼女は思ったとおりイギリス人で、おそらくインド系の顔をしていた。ロンドンで働いているのだという。彼女は「時間があるし、近くのカフェにコーヒー飲みに行くけど行かない?」と言うので、朝食代わりに僕も行くことにして巨大なバックパックを抱えて外に出た。


朝のバルセロナは夜の喧騒が嘘のように静かだった。すぐ近くのカフェに入って、またカフェ・コン・ラチェを飲む。


飲みながらまたしばらく話をする。「イギリスには行ったことある?」とその人がきいた。「ロンドンだけなら」と僕が言うと、「私の家はコーンウォールっていう、ロンドンから離れた田舎のほうにあるの。いいところだから一度行ってみるといいわ」とイギリス人は言った。


やがて僕の電車の時間が近づいてきたので僕たちは外に出た。勘定は彼女が払ってくれた。「私もいつか日本に行きたいわね、時間ができたら」とその人は言って、僕らは別れた。



バルセロナ・サンツ駅からマドリッドまでの電車の道のりは面白かった。しばらく地中海岸を走り、きれいな海を眺め、それから内陸に入って、台地だが意外に変化に富んだ道を行く。


車内のテレビで-スペインの長距離電車にはたいていテレビがついている-映画をやっていた。「Holes」だったので驚いた。僕はその本を少し前に読んだことがあったからだ。スペイン語だったのでよくわからなかったけれど、まずまずの映画だった。


マドリッド・アトーチャ駅に着いたのが午後の2時過ぎで、ホテルにチェックインする。安いけれどバスもシャワーもちゃんとついている部屋を、最後くらいいいかと思って取ったのだ。


そこからてくてく歩いてプラド美術館にまた行く。小雨がぱらつく中を並んで、今回はうまく入れた。瀬名秀明の「Brain Valley」に出てきた「キリストの変容」(ラファエロ作)があったので思わず見入る。小説の中ではラファエロがなぜこのような画を描いたのかは謎だということになっていたが、確かに不思議な絵である。スペイン語の解説は読んでもよくわからなかった。


美術館を出てから少しそこらへんを歩き、適当な食堂に入ってカラマリを食べて(俺カラマリけっこう好きだし)、部屋に戻ってすぐに寝てしまった。明日は早いのだ。

バルセロナ(3)

10月30日(土)-バルセロナ


朝、まわりの人たち-というのは、昨夜遅くまで遊んでいなかった人たちのことだ-が起きてごそごそやる音で目が覚めた。久しぶりに飲んで、頭がぼんやりする。こんなに飲んだのはロンドン以来だ。


オージーもイタリア人も、まだ寝ていた。最初、昨夜のことがあまりよく思い出せなかったけれど、何となく思い出してきた。ふうっ、とため息をついて、意味もなく首をぐるぐる回した。ベルギー人の2人はもういなかった。


ともかくシャワーを浴びて、本日の行動に移る。まずバルセロナ・サンツ駅に行って明日のマドリッド行きの切符をとり、それからバルサの本拠地、カンプ・ノウスタジアムに行く。しかし結局何も買わずに街へ戻って、カテドラルとゴシック地区を見て歩く。バルセロナは大きな街だけれど、この地区をはじめとして趣のある建物が多い。


そしてまた港へ出る。バルセロナは港があって、なんとなく伊東 を思い出させる。そこでしばらくぼおっとしている。


旅の疲れか、そこまで歩くと何だかぐったりと疲れてしまったのでホステルに戻って一休みしようかと思って部屋に帰ると、15人くらいの男女が部屋の電気を消して寝ていた。


なんだこいつらは?と思ったけれど、まぁ邪魔するのも何だし、香水と酒の匂いが部屋中に漂っていてとても休めそうになかったのでラウンジでぼんやりと本を読んだり、フランス人のトーマス(昨日出会っていた)と話をしたりしていた。


彼はフランス人なのに英語が上手だった。きくと、特に留学をしていたわけではなく(ロンドンには何度も行ったことがあるらしいが)英語の厳しい教育を受ける学校に行っていたらしい。彼は「日本で事件があったね、ええと、何だったっけな、あの英単語は・・・」と言った。「そうそう、earthquake(地震)があったよねつい最近」と彼は言った。


僕はてっきり彼が阪神大震災のことを言っているのだと思って、「そうだねえ、あれはコーベというところでね、5千人くらいの人がなくなったはずだよ」と説明していたが、トーマスは「そうじゃないよ、コーベっていう名前じゃなかったな、たしか。それに、つい何日か前のことだよ。昨日じゃなかったかな?」と言ったので僕は最初半信半疑だったのだけれど、もしかして、と思ってあわててそこに一台だけあるネットに飛びついて調べてみると、新潟で大地震があった、というニュースばかりだった。


うおーなんてことだ、と僕は思った。スペインを旅行していたから全く知らなかったのだ。とりあえず僕の親戚にも家族にも新潟にいる人はいないから一安心した。しかし、もしこれが東京で、あるいは家族のいる埼玉での大地震だったらどうしたんだろう?情報というのは普段は気にもしてないけど、ないと困るときもたしかにある。


7時過ぎに近くの適当な食堂で食事をし、大通りをあてもなく歩いた。今週末はヨーロッパでは月曜日が休み(カトリック系の休日らしいが詳しくはわからなかった)なので余計に人が多いようだった。夜も通りには人があふれ、大道芸人が人を集めていた。スパイダーマンもいた。


そしてホステルに戻ると、予想通りさっきまで寝ていたクレイジーな同室者達は再び夜遊びにでかけていていなかった。昨日のイタリア人とオージーはいなかった。僕のベッド(2段ベッドだ)の下で知らない男がすでに寝ていた。僕もシャワーを浴び、隣のベッドのアメリカ人の女の子(シカゴから来たんだけど、今はグラナダで勉強しているの)と話をし、本を読んで寝てしまった。

バルセロナ(2)夜がはじまる

2004年10月29日(金)―バルセロナ


(続き)

イスパニア広場から美術館への道は、水路と噴水で階段状に飾られていて美しい。僕が坂道を下っていった時にはちょうどあたりが暗くなるころだったので、その光景がよく見えた。僕は思わず足を止めた。


巨大な噴水ライトアップされているのだ。そして、僕が立ち止まって見ていると、音楽と共に水が様々な形で噴きだした。ライトの色も音楽にあわせてピンク、緑、青、赤と変わって幻想的に美しい。まわりにも僕と同じように「なんだなんだ」と足を止めてみている人が大勢いた。あるいはバルセロナ市民にとってはこんなの普通のことなのかもしれない。


思わず見とれていると、市の職員のような人が何かを配り始めた。僕もひとつもらってみたが、何なのかわからない。細長くて、中に何かが入っているようだけれど、スペイン語だけしか説明がないのでさっぱりわからない。


周りを見ると、人々はその袋をちぎって中の物に火をつけはじめた。花火だった。線香花火のように火がしぱしぱと飛ぶので僕の家族が「シパシパ」と呼んでいる花火だった。


僕も火をもらって花火につけた。広場の周りで、美しい噴水を囲んで人々がにこやかに笑いながら花火をしているのは、とても感動的な光景だった。いい風景だ、いいことだ、と僕はしみじみと思った。



ホステルに戻ると、1人同室者がいた。彼はジョンというオーストラリア人で、ここ一週間ばかりバルセロナにいるが、その前はポルトガルに一ヶ月ほどいたのだという。とても陽気で面白い男だった。どうもこの旅ではオーストラリア人の人とばかり会っている気がする。暇なのか?それともオーストラリア人というのはスペインに魅かれるのか?


彼としばらく話をし、少しだけ外に出てから戻ってみると、同室者が増えていた。2人の女の子は働いているベルギー人で、週末だけバルセロナに来ているのだという。一人の女の子は「モシモシ」という日本語だけを知っていた。なんだかおかしな言葉だけ知っているな、と思って「どうやって知ったの?」ときくと、「映画の中で」と彼女は答えた。それだけ知っててもどうかとは思うけど・・・。


もう1人男がいて、彼とはあとで話をしたのだけれど、カリフォルニア出身のアメリカ人だった。アメリカ人にしては割と物静かな男で、いつも彼女らしき女の子と一緒にいた。カップルでユースホステルに泊まるっていうのもあまり見ない話だけど。


そして急にうるさい三人組の女の子が入ってきた。と、急にジョンがそわそわした様子で彼女達にいろいろ話しかけていた。察するに、彼女達と仲良くなりたいらしい。彼女達はイタリア人で、英語はあまりしゃべれなかったがスペイン語はまあまあしゃべれるらしい。たぶん歳は僕と同じくらいだろうけれど、きゃぴきゃぴして、わりと可愛い女の子たちだった。


オーストラリア人のジョンは彼女達にタバコをすすめたり英語と片言のイタリア語とスペイン語で話をしたりしていた。僕はそれをにやにやしながら眺めていたが、そのうちに彼らが酒を飲みに行くと言うので僕もベルギー人の女の子たちと一緒に行くことにした。


イタリア人の女の子達が向かったのは小さな、洒落ているとはとても言えないバーだった。彼女達はそこの主人(ペルー人だという)と知り合いらしかった。僕はイタリア人三人組とオージーと一緒にアブセンティーをショットしたが、これはとてもきつい酒で、喉がひりひりした。味なんて全然わからん。イタリア人の女の子達は眼を白黒させている僕を見て笑っていた。


ベルギー人2人はクールにビールを飲み、それから他のところへ行くといって行ってしまった。僕ら五人はそこでしばらく酒を飲んでいた。イタリア人とオージーは3回くらいショットをしていた。大したものだな、と僕は思いながらビールを飲んだ。


そしてもう一軒のバーに行く頃にはみんなけっこう酔っ払っていた。僕も頭がぼんやりしていたが気持ち悪くはなかった。3時になるとそのバーも閉まったので僕らは外に出たけれど、女の子達がふらふらになっていたので(僕もだけど)少しそこらへんに座って休んでいくことにした。


通りには人は誰もいなかった。ジョンがタバコの火をつけ、「吸えよ」と言った。俺は吸わないんだ、とさっきは言って断ったが、なんとなく悪い気がして少しだけもらった。


なんだか不思議な感じがした。スペインに来て、知らない外人たちと一緒に酒を飲み、午前三時にタバコを吸って空を見上げたりなんかしている。俺何やってんだろ、と思った。二口くらいだけ吸って、ジョンにタバコを返した。10分くらいあとでふらふらしながら部屋に戻って、寝た。

バルセロナ(1)

2004年10月29日(金)—バルセロナ


やはり疲れていたのか、イタリア人のバカ声と香水の匂いにもケイトのアラームの音にも気がつかずにぐうぐう寝てしまっていた。


朝食をもそもそ食べながら外を見ると、素晴らしい天気だった。昨日晴れていたから、「スペイン天気の法則」に従うと今日は雨のはずだったが、いい天気なのでよかった。


10時過ぎに、同じく駅に向かうケイトと一緒にチェックアウトしようとしていると、昨夜も顔を合わせたフランス人がレセプションの人となにやら話しているのだが、このフランス人、スペイン語も英語もほとんど全く話せない。僕はかっこいいところを見せようと思って、片言のフランス語で話しかけてみたがまったく通じない


結局チェックインしようとしていたスペイン人の女の子が僕よりずっと上手なフランス語で通訳してようやく理解できたようだった。


一件落着。しかし、よく思うけれど、海外で旅行するには英語は必須だと思う。自分がそれなりにしゃべれるから言うわけではないけれど、英語さえ話せればいくら海外でもなんとかなるものだ。もっとも僕の友達のMくん はブダペストで英語もフランス語も(もちろん日本語も)理解できない警官に捕まりかけたというが。


旅行をしていると、だいたい英語が話せないのはフランス人、イタリア人、日本人が多い。僕が英語を比較的すらすらしゃべるとみんな驚く。僕も英語が上手なフランス人に会った時は感心した。どうしてこれらの国民が英語を上手に操ることができないのか?けっこう謎である。


それはともかく、てくてく駅まで歩き、ケイトと別れ、バルセロナ行きの電車に乗る。


絵に描いたようにとてつもなくいい天気だ。たっぷり寝たので気分も良い。電車からはオレンジ畑が見え、地中海がきらきら光を反射させているのが見えた。海ってこんなにきれいなものだったんだ、と僕は感動してずっと地中海を眺めていた。



バルセロナには2時少し前に着いた。ホステルまでメトロで向かい、中心地で下りて宿へ入る。日本人が経営しているので日本語の注意書きがあったけれど、受付の愛想の悪い女性は全く日本語を解さなかった。


荷物を置くと、さっそく街に出る。ホテルのすぐ近くがランブラス通りというメイン・ストリートで、土産物屋と大道芸人がわんさといた。いくつか店をのぞいたが、片言の日本語でしつこく話しかけられるのでうんざりし、何も買わなかった。


それはさておき、バルセロナの第一印象はとてもよい。いささか観光地然としていて騒がしいが、活気があってよい。スペインのどこに行っても、ラテン系特有なのかもしれないが、人懐っこく明るい人々の顔を見ていると、この国もまだまだ大丈夫だなと思う。


フランスやベルギーのフランス語圏のような、やや皮肉っぽい顔と態度はあまり見られない、というか皆無だろう。けなしているわけじゃないけどさ。バルセロナは経済も発展しているし、港町だし地理的にもイタリア・フランスに近いからさらに活気があるようだ。


この街には見所も多い。まずランブラス通りを港のほうへ向かって歩くと、コロンブス像がはるか彼方の新大陸を指差してそびえている。港にはたくさんの人がいる。日向ぼっこをしている人もいる。スペイン語をしゃべるカップルがアイスクリームを食べながら歩いている。


そこからメトロでかの有名なサグラダ・ファミリア大聖堂へ行く。何度もテレビなどで見ているが、やはりここは行くべきところだろう。やはりなかなか見ごたえがあり、上からの眺めも素晴らしかった。夕方だったので、大聖堂の影が長く街の中心部まで伸びていた。圧巻。


サグラダ・ファミリア以外にも、この街には天才ガウディが作り出した作品がいくつもある。僕は芸術にそれほど詳しい人間ではないけれど、彼の独特のデザインはとても興味深い。


次に行ったエスパニア広場からは美術館がでーんとそびえているのが見える。このあたりがモンジュイックと呼ばれているところで、1992年のバルセロナ・オリンピックのメイン会場になった地区だ。ここからのバルセロナの街の眺めも良い。


その裏にオリンピック・スタジアムがあって、そこにも行ったが午後6時ですでに閉まっていた。


あきらめて美術館の正面に戻ると、なぜか人が噴水のまわりにあつまっていた。何だろうと思いつつも、僕は坂道を下って行った。

(続く)

バレンシア、太陽の下で

2004年10月28日(木)—バレンシア


バレンシアのバスターミナルに着いたのは朝7時だった。まだ辺りは真っ暗である。やれやれようやくバレンシアに着いたか、と僕は思った。バスの揺れと体調のせいであまり気分はすっきりしなかったが、まぁこれは仕方がないだろう。


気分が落ち着くまで待合室の隣のカフェでやたらに濃いエスプレッソを飲む。飲んでいるとだんだん気分がすっきりしてきた。そして昨日予約したユースホステルに電話をかけて道順をきいた。


僕の旅はだいたいいつも行き当たりばったりだ。ホテルなんかも予約するのが面倒で、直前にならないとやらないか、気分が向かなければそのまま現地に行って探す。僕自身はホステルに泊まるのは最初はそれほど好きではなかった。安いのはいいけれど、シャワーとトイレはたいてい汚いし、同室の連中はうるさいという具合だからだ。しかしこういうバックパック旅行も、慣れてしまえばけっこう良いものである。道連れや話し相手もできるし。


しかし今回のホステルのレセプションの人の道の教え方が下手だった上に僕が道を間違えたのでぐるぐると一時間近くも街を歩き回ってしまい、ホステルに着いたときにはかなりぐったりしてしまった。しかもまだ部屋は空いていないと言われ、荷物だけ置いて街へ出た。


バレンシアという街は、正直に言って見所の少ないところである。中央市場と、ラ・レンファというイスラムのモスク以外には特に見るものはない。


市場は新鮮な野菜や果物や肉や魚でいっぱいで確かに楽しかった。おいしそうな葡萄があったので買って食べると、少し気分が良くなった。


気分が良くなったのでメトロに乗って、ビーチへ行く。実を言うとバレンシアに来たのは地中海の陽光をいっぱい浴びるためであった。それなら他の場所でもよさそうなものだけれど、バレンシアと言えばオレンジが有名である。オレンジ=地中海の陽光=バレンシア、という実に単純な方程式が僕の中で成立してしまったのだ。そこで、のこのこビーチに出かけていった。


びっくりするくらい広いビーチだった。がらんとして、人は少ない。青い海地中海だ。さすがに10月の末になって泳いでいる人はあまりいなかったけれど(それでも2,3人の酔狂な人々が泳いでいた, crazy)僕は上着を脱いでTシャツ一枚になって念願のひなたぼっこをした。


風は強かったが日差しも強く、気分は良かった。30分くらい太陽の光を浴びたあと、浜辺のタヴェルナで魚のフライを食べた。窓際の席から外を眺める。ビーチにはあまり人はいなかった。さすがにもう10月も終わりなのだから当然だろう。しかしきっとシーズン中は大勢の—きっとうんざりするくらいの—観光客とリゾート客でごったがえしていたのだろう。ともかく、気持ちのよい日光浴だった。


ホステルに戻って部屋に入ったのが4時近くで、疲れからそのまましばらく寝てしまった。昨夜あんまりよく寝ていなかったからだ。


同室の女の子が帰ってきたのが6時くらいで、それで目が覚めた。彼女がHi、と言ったので僕もHi、と言った。


彼女はカリフォルニア出身のアメリカ人だった。休みを利用してスペインに旅行に来たのだという。バルセロナに3日ほどいて、昨日ここに来て、明日コルドバに行くの。前3ヶ月ほどスペインで勉強していたとき、コルドバでホームステイしていたから、そのときのホストファミリーを訪ねるのよ。スペイン語?かなりしゃべれるわ(can speak pretty well, actually)。アクセントとか方言とかでよくわからないことはあるけれどね。


そういうような会話をした。


そのあと、僕は1人で近くのスーパーでパンとハムとチーズを買って、安上がりの夕食を食べた。安上がりでいいんだ、ふっ。どうせホステルに泊まっているほかの人だってたいしたもの食べてないんだから(たぶんね)。長く泊まっている人は別にして、だいたいみんな簡単なものしか食べていない。パンとりんごとか。今回のホステルではパスタを作っている一団がいたけれど。


ホステルのキッチンで簡単な夕食を食べていたのだが、隣のテーブルには若い—しかし僕よりは年上そうな—日本人が2人座っておしゃべりをしていた。僕は話しかけようか迷ったが、結局話しかけなかった。関西弁のアクセントだった。


その代わり、その隣のTV室で他の外国人旅行者と一緒にDVDを見た。ロバート・デ・ニーロの出てくるアメリカ映画(タイトル忘れた)とPhone Boothで、二つともなかなか面白かった。


2本見終わると11時半だったのでシャワーを浴びて寝ることにした。ケイト(というのがカリフォルニアの女の子の名前だった)ともう1人のジェロモニ(という、ブリティッシュ系の英語を話す白人の男)も寝るところだったので3人でベッドに入って電気を消した。


その直後に、3人のイタリア人の男のグループがわいわいとでかい声でしゃべりながら入ってきた。本当にでかい声なのだ。そして香水のきつい匂いがする。僕らが眠ろうとしているのにちっとも気にしていないようだ。・・・イタリア人

グラナダ2

10月27日(水)—グラナダ


スペインに来てから、まるで何かの法則ででもあるかのように、一日おきに晴れと雨の日が繰り返されている。


今日は朝から雨が降っては止み、降っては止み、を繰り返していた。昨日のうちにアルハンブラに行っておいてよかった、と僕は思った。あそこには太陽の光が絶対に必要だからだ。


まずホテルをチェックアウトして今夜のバス・チケットを買い、鉄道の駅に荷物を預けておいた。国鉄(RENFA)なんだけど、駅のたたずまいといい、遠くに山が見えるところといい、どことなく軽井沢みたいだ。ここは標高が600メートルくらいあるらしいので、意外に涼しい。


雨なのであまり気乗りはしなかったけれど他にやることもないので、グラナダの町をぶらぶら歩く。


昨夜も行ったアルバイシン(アラブ人街)にまた行く。イベリア半島というのは、そこかしこにアラブの文化が顔をのぞかせているところだけれど、ここは特にそれが感じられる。雨なのがつくづく残念だけれど、白い家々のテラスには南国っぽい花やツタがからまっていて、情緒たっぷりだ。道は入り組んでいて、迷路に迷い込んだ気もする。いいところだ、と僕は思った。僕が生まれた伊東の街もそうだけれど、僕は昔から袋小路とか狭い道とかのある場所が好きなのだ。


アルバイシンの上のほうにあるカフェで昼食をとったのは3時ごろで、雨が少し降っていた。


適当に入ったカフェだったのだけれど、料理がとてもおいしかった。本日の定食を食べたのだけれど、炒め野菜のパスタは野菜がシャキシャキしていてとてもおいしいし、カラマリのつけあわせのサラダも野菜が新鮮でおいしい。これでビールを飲んでも6ユーロというのはちょっと信じられない。丘の上にも魚屋があったけれど、ヨーロッパで北より南のほうが食材が豊かで新鮮だ。


満足してそこを出てまたゆっくりと街のほうへ戻り、疲れるとカフェに入って時間をつぶし、適当にぶらついた。


ぼんやりとしながら僕は様々なあてもない考えをめぐらした。


バスに乗り遅れたらしい1人の男が走ってバスに追いつこうとしたがバスの運転手は取り合わず、そのまま走っていった。男は悪態をついて、持っていたで—どうしてそんなものを持っていたのかは不明—バスの後ろ側を思いっきり叩いた。


大学のそばを通ると、サッカーをやっている大学生がいた。それを見ながら、僕はここ何年か、サッカーに深く関わった生活をしていたのだなぁと思った。


中学の頃は夏休みにも練習があるのが嫌だった。休みなんだから自分の好きなことをしてもいいんじゃないかと思ったが、ともかくクソ暑い中で練習をしていた。こう書いていくだけで、喉の渇きや汗の流れる感触が蘇ってくる。体が記憶しているのだ。炎天下で練習をしたあとは体中井の水分が抜けてしまって、もう何もする気が起きなかった。僕の夏休みはサッカーに始まってサッカーに終わった。


練習の無い日に、突然先輩に呼び出しをくらってサッカーをしたこともある。夕方で、僕はあまり行きたくはなかったけれど断るのも怖かったので、着替えて自転車に乗って中学校へ向かった。


校庭には何人かの先輩と何人かの同級生がいた。みんなで笑いあいながら、でもけっこう真剣に延々とミニゲームをやった。最後は三人対三人くらいのゲームになり、これで負けたほうがおしまい、ということにしても、負けたほうは必ず「もう一回!」と言うので、いつまでたってもゲームは終わらなかった。


午後10時ごろ、バスターミナルへ向かった。バレンシア行きの夜行バスが11時半に出るのだ。バスには中国人らしきカップルと日本人らしき30代の男とフランス人らしき人が2人乗っていて、あとはスペイン人のようだった。


僕の隣に座ったのはスペイン人のおばちゃんだった。雨のせいで濡れた靴を脱ぐと、そのおばちゃんは「ちっちっ」と言うようなことを言って口の前で指を横に振った。どうやら、バスの中で靴を脱いではだめだ、というようなことを言っているらしかった。そんな規則があるのかどうか疑問に思ったけれど、おとなしく従っておいた。


運転手がうるさいラジオを鳴らしているのと体調があまり良くなかったのとで僕はあまり眠れなかった。

グラナダ/アルハンブラの感動

2004年10月26日(火)—グラナダ—


朝早く起き、簡単にシャワーを浴び、ロビーで軽い朝食をとってから荷物を抱え、まだ眠っている同部屋の人々に—確かオーストラリア人の女の子、朝早く電車に乗るとか言っていたけれど、まぁいいか—小さくgood bye、と言って別れを告げ、バス乗り場までてくてく歩く。


昨日と違って、晴れてはいたが寒かった。まぁそれはそうだ。ここはハワイではないし、今は10月なのだ。バスに乗ってグラナダに向かう。窓の外はまたしてもかなり荒涼とした土地だ。テキサスあたりもこんな感じなんじゃないだろうか。行ったことないけど。


バスはほぼ3時間後の12時にグラナダに着いた。ターミナルの外に出ると、青空と、からっとしたしかしやや涼しい風が僕をとらえた。第一印象は良い街だ。


とりあえず街の中心部に向かい、宿を探す。二軒目の安オスタルに入る。18ユーロだったが、その値段にしてはかなりきちんとしたオスタルだった。シングルだし(バスは別だったが)インターネットも使える。素晴らしい。


荷物を置いて、さっそく街へ出てみる。腹が減っていたので近くの安食堂に入ってサンドイッチを食べる。そのあたりは大学があるので安い食堂がいくつもあるようだった。若者がそこかしこにいた。腹ごしらえをすますと、まずはアルハンブラ宮殿に向かう。


変な話かもしれないけれど、スペインに行ったら何をしたい、という希望はあまりなかった。だが、アルハンブラだけは何があっても見ておこうと思っていた。特に深い思い入れがあるわけではないが、イスラム文化の粋を集めた建物として高校の教科書にものっていたし、何となくその名前を覚えていたからだ。


街の東にあるその宮殿のほうへ歩いていく。坂道が少々きつかったが、緑がきれいですいすい歩いていった。アルハンブラは人気があるので夏のシーズンには朝早くから並ばないと入場チケットが買えないときいていたけれど、行ったらすんなり入れた。


中に入る。さすがに人は多いが、日本人観光客の姿はあまり見かけなかった。まぁ今は日本では観光シーズンではないし、大学もはじまっているからバックパッカーもそれほどいない。きこえてくるのは英語(イギリスが多いみたいだった)ドイツ語フランス語、そのあたり。今は欧米では観光シーズンなのだろうか?昨日のホステルでも泊まっている人はみんな英語をしゃべっていた。


まぁそれはいいとして、まずはアルカサバに行く。ここは昔要塞だったところらしく、塔がいくつも建っていてそこから街が見渡せるようになっているようだった。その塔に登ってあたりを見たとき、僕は絶句した


そこから眺めたグラナダの街の景色を、僕は一生忘れないだろう。


白い家が山の上まで連なり、その向こうには広い荒野と雪をかぶったシエラネバダ山脈。


天気は快晴で、まさに絶景とはこのことだ。僕もヨーロッパをけっこう回ったけれど、この眺めに匹敵する感動を味わったことがない。いつまで眺めていても飽きなかった。ここは一生のうち一度は行くべきところだとみんなに言わなければ、と僕は感動のため息をつきながら思った。僕はあんまり感動とかしないタイプの人間だけど、ここは真剣に感動した。スペインに行くことがあれば、ぜひここは行ってください。


そのあとナスル朝宮殿を見て、アルハンブラを一通り見た。イスラムっぽい感じが味わい深かった。


いやーよかった、とつぶやきながら街へ戻る。王室礼拝堂の近くで、アラビア語で名前を書くというのをやっていたのでちょっと立ち止まって見ていた。なかなか器用にちゃっちゃっとあの独特のアラビアのくねくねした文字を書いていく。


見ていると、その人が「1.5ユーロだからやってみないかい」と言った。1.5ユーロならやってみるかと思って、ちょっと迷ったあげく彼女の名前を書いてもらうことにした。なかなかいい具合に仕上がった。2ユーロを渡して50セントお釣りをもらった。50セントコインの裏側のマークから、ドイツのユーロセントだとわかった。


一旦オスタルに戻ってから夕食を取りに街に出たけれど、面倒くさかったので近くの食堂でまたサンドイッチを食べて、夜の街を歩いた。


通りにはびっくりするほど多くの人が出ていた。大学があるせいかもしれないけれど、スペインのほかの街と同じくここも夜の遅い街のようだった。


僕は夜のアルハンブラを見にアルバイシンまで行った。アルバイシンはアルハンブラの向かい側にあるアラブ系住民の住居だった町だ。


坂道をえっちらおっちら登り、突然のように現れた広場から夜のアルハンブラとグラナダの夜景を見た。


その美しさはとても言葉では表せない。これは幻想なんだろうか、と僕は思った。きっとそうに違いない、現実世界にこのような美しい場所があるはずがない—。それほど、イスラムの城は非現実的な美しさでたたずんでいた。

セビーリャ(2)

関係ない話だけど、これを読んでくれている人から、昨日のエントリを見て「なんだか逃げてばっかりじゃん」というご指摘を受けました。食い逃げといい、変なおばさんから逃げたことといい、確かにその通りですね。ドタバタしてました。

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2004年10月25日


セビーリャの街は緑が多かった。街のあちこちにオレンジの木があったし、桐の花のような青い花をつけた木もそこかしこにあった。あいにく天気は悪く、ときどき雨が降ったが、かえって緑が鮮やかに見えた。美しい街だ、と僕は思った。


スペイン広場に行き、ゴールデン・タワー(工事中だった)を見てしまうとぐったり疲れてしまったのでホステルへ戻ってごろんとベッドに横になっていた。そのうちに隣のベッドの女の子が戻ってきて僕に英語で話しかけてきた。彼女はオランダ人で、驚くほどきれいな英語を話した。友達がセビーリャの大学に通っていて、彼女を訪ねに来たのだという。


その隣のベッドにいた男2人も会話に加わった。彼らはアメリカ人とオーストラリア人で、彼らの友達もここの大学にいるのだという。セビーリャはスペインの中では大学の町として知られているようだ。驚いたことにこのアメリカ人はワシントンDCのジョージタウン大学の学生で、今はプラハに留学しているのだという。ジョージタウン大学は僕が通っているアメリカン大学からすぐ近くだ。


世界は狭い。


もう1人のオーストラリア人の女の子も戻ってきた。僕がブリュッセルから来た、と言うとその女の子は「私は一週間前にブリュッセルに行ったわ」と言った。彼女はプラハからスイス、ベルギー、フランスを通ってスペインにやってきたのだという。そしてこれからイタリア、さらにはアフリカに行くつもりだと言った。へえすごい、と僕は思った。沢木耕太郎の「深夜特急」みたいだ。


 

彼らはどこかで一杯飲もうよと言い出したので、僕も着いていくことにした。街をぶらぶら歩き、アメリカ人の友達2人と合流して、バル(バー)に入ってビールを飲んでみんなでいろいろな話をした。


「アメリカとイギリスの英語が違うのはよくわかるんだけど、」と僕はオーストラリア人にきいてみた、「イギリスとオーストラリアの英語はあまり違わないんじゃない?元植民地だったし」と言うと、オーストラリア人の男の子は「冗談じゃない!一緒にされちゃ困るよ、全然違うじゃない」と本当に驚いた顔で言ったけれど、その驚きぶりがおかしかったのでみんな笑った。


オランダ人の女の子はロッテルダムの近くの小さな町の出身で、今は働いている、と言った。「働いているのにこんなに長い休暇をとっていいの?」と僕がきくと、「うん、まぁ私の会社はフレキシブルなほうだけど、これから一ヶ月休暇を取れるわ。だって必要じゃない、たまには」と当然のことのように言ったけれど、日本だとこういうのは当然だとは思われないだろうなぁと思った。それにしてもずいぶん英語がうまいなと思ってきいてみると、特に勉強したわけではないけれど、と彼女は言った。英語の他にドイツ語もだいたい理解できる、オランダ語によく似ているから、と彼女は言った。

 結局僕らは3時間近くもそのバーにいて、一旦宿に戻ってから他の人たちは今度はフラメンコを見に行くといって出て行ったが、僕は値段が高い(31ユーロ)のと疲れているので遠慮し、ベッドで横になってそのうち眠ってしまった。