日本共産党(その1)
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日本共産党
戦前の日本を口汚く罵るこの政党に、
その資格はあるのか?
革命のためには暴力をも正当化していた
本当は恐ろしい集団だったのである。
その体質は現在も垣間見える。
国民に大迷惑をかけたことに対し
「申し訳なかった」の一言もない。
自らの過ちを
「総括」してからモノを言え!
●日本共産党は、コミンテルンの日本支部として設立されたのだから、これは純粋な意味における日本の政党ではない。コミンテルンはソ連の国益を守るための組織のため、日本の内部に巣食うガン細胞である。それを封じ込めることは、わが国の国益を守るためだから、当然の処置。
●戦前の共産党というのは正式には「コミンテルン日本支部」である。彼らはコミンテルンから指示とカネをもらって、その命令のままに革命によって日本国を転覆せんと画策していた。
例えば皇室の廃止や軍隊・警察の廃止などといった指示のテーゼを受けていた。
●治安維持法で取り締まる側の警察の方は、共産党員逮捕の時に死んだり重傷を負ったり、なかには廃人になる者もいた。その数は50人はくだらないと言われている。(一方共産党側は小林多喜二の拷問死のみ)
●共産主義者たちは暴力革命を標榜していたこともあって、党の幹部らはピストルを携帯していた。それに比べ当時の警察はいまよりも穏やかで、取り押さえるのが建前なので、拳銃を使うことはせず、まず逮捕しようとした。だから警察の犠牲者も多かった。同僚の多くがそんな目にあっているから、警察での取り調べも事前厳しくなったケースもあったと考えられる。
《渡部昇一 WILL 2005/11月号》
●朝鮮戦争勃発に際して、スターリンが国際共産主義組織コミンフォルムを通じて20万日本共産党と30万在日朝鮮人総連合に武装蜂起を命じた時、選挙を経ての平和革命論だった野坂参三、徳田球一がこれに反対したにもかかわらず、暴力革命派だった国際派の宮本顕治が当時結成されたばかりの全学連を使嗾して、いわゆる「火炎ビン闘争」とよばれる武装蜂起に至ったのである。
●白鳥警部拳銃射殺事件、岩之坂上交番襲撃事件、皇居前広場メーデー騒擾事件など流血の武力闘争が続いた。
《佐々淳行 正論2012/6月号》
●あの時代(終戦直後)は、世界革命、人類解放が勢いづく時代であった。日本の革命勢力も外からの支援を受け、「日本人民共和国の樹立・天皇処刑」などと、ロシア・中国革命に次ぐ第三の世界革命---「日本革命」を目指していた。
《黄文雄 「黄文雄の近現代史集中講座」》
●世界の常識では、米国は今も日本の治安維持法より厳しい「共産主義者取締法」が存在し、十全に執行されている。英国でもドイツでも共産党は非合法である。自由な社会の文明国が共産党を存在させてはならない理由の第一は、共産党が権力掌握後、必ず自国民を大量虐殺するからである。
●共産党に1931年入党して2年後に離党した埴谷雄高が、党員であった頃、他の党員同士がいつも、何のためらいもなく「誰を殺そう」と会話しているのを聞き、次のように回想している。
「党員となってしまえば、なんらの代償なしに人を殺しうる権利をもつこと、また非党員はそのどれでも任意に取りだして殺されるべきを単なる標的として存在することの不思議なほど自然な暗々裡の承認があった」 (「埴輪谷雄高政治論集」)
●戦前の共産党員は、戦後もそうだが、スターリンの命令に絶対服従する「ソ連人」であった。
彼ら自身も「日本国民」とは意識しなかった。ソ連から日本に侵入上陸した「ソ連赤軍の一部隊」との意識が強かった。
《中川八洋 「山本五十六の大罪」》
●戦前の日本では、共産党はたえず当局の監視と取り締まりの対象であった。弾圧されて党が壊滅状態になると、コミンテルンから上海あたりに呼び出され、そこで綱領と金とピストルを受け取って帰り、党を再建するという、その程度の政党なのである。
《兵本達吉 WILL 2005/11月号》
●いま共産党は護憲をスローガンにしているが、これは平和主義的傾向の強い日本国民の歓心を買うための戦術であって、本心は護憲でも何でもない。政権を取れば、アメリカ帝国主義の侵略に備えるためとして、強大な人民軍を持とうとするのは明らかだ。改定綱領には「中立・非同盟」を謳っているが、必要とあれば中国との軍事同盟も躊躇しないだろう。
…彼らは空念仏の平和主義に酔うような「甘ちゃん左翼」ではない。筋金入りのマキャベリストなのだ。
●党内には実質的な言論の自由はなく、それが指導者の独裁を生む。だいたい党内ですら分派を許さない共産党が、国会では複数政党を認めると言っても誰が信用するだろうか。
《軽手思庵 諸君!2005/11月号》
●昭和5,6年当時の日本共産党は、資金が窮迫していた。そこで、この党は銀行強盗をはたらいた。昭和7年10月、31,000円を強奪した大森の銀行強盗事件である。
《渡部昇一 「昭和史」》
●「自主独立路線」を打ち出すまでソ連とのパイプを独占してきた共産党にも、ソ連側の資料によれば「左翼労働組織支援国際労組基金」から、51年(10万ドル)、55年(25万ドル)、61年(10万ドル)、63年(15万ドル)が支払われている。(当時は1ドル=360円) そしてそれ以降、資金は社会党へ。
《田原総一朗 「日本の戦後(下)」》
●1933年12月、日共の中央委員であった大泉兼蔵・小畑達夫の2人が、宮本顕治・袴田里見らによって「特攻警察のスパイ」の容疑をかけられて追及を受け、査問中に小畑が急死した。
その死因について、小畑の特異体質による突然死(事故)とみるか、リンチによる傷害致死ないしは殺人(殺害)であったかをめぐって今なお争われている。
●法律的には、宮本らの不法監禁致死罪がすでに確定しており、刑の執行も終わっている。今日なお争われているというのは、日共と主犯の宮本が「あれは、暗黒時代におけるデッチ上げ裁判によるものであった」と主張するのに対して、それを否定する人たちとの間で激しい議論が戦わされてきたからである。
●だがこれは、78年、その査問の場にいた当事者である袴田が週刊新潮に〈「昨日の同志」宮本顕治〉という手記を発表し、袴田が小畑の足を押さえ、宮本が右膝を小畑の背中にのせ、腕をねじり上げ、ウォーという断末魔の叫びを上げて小畑が息絶えたことを暴露している。その場にいた共犯者であり、のちに副委員長にまでなった袴田の証言はまさに決定的なものだった。
●事件当時、秋田から小畑の遺体確認のために上京してきた弟の手紙が、「秋田魁新報」(34年5月22日)に掲載されている。それによれば、発見された兄の遺体は見るも無残で、手や足は縛られ、口の中には綿を詰められ、顔には鋭利なノミで切ったような傷があり、片方の目は完全に潰され、首に残っていた縄の跡や傷など、筆舌に尽くしがたいものだったという。〈これ以上は書けない〉と、弟が記述するほどリンチは凄まじいものだったのである。
●宮本は参議院議員時代、法務委員会に所属していた。しかし通常国会が開会し、最初の法務委員会に出席する以外、国会にやってくることは殆どなかった。
たまに大きな黒塗りの車で来て、議員会館の自分の部屋で一服し、本会議などに出席して悠々帰っていく。それが宮本の議員生活だった。
《兵本達吉 週刊新潮2007/8/2》
●共産党の宮本元委員長には、殺人の嫌疑がかけられている。いくら自民党でも、そんな凶悪な犯罪の嫌疑をかけられた党首はいない。
《高山正之 「歪曲報道」》
●宮本顕治は、無実の同志にスパイ容疑をかけ、全身を針金で縛るなどして殴る蹴る、火を押し当てるといった拷問の末に死亡させ、アジトの下に埋めたとされる。
《SAPIO 2007/8/8号》
●日本共産党は昭和25年10月ごろから、所感派の地下指導部が「力には力をもってたたかう」武力革命論を唱え出す。「極左はねあがり主義」と批判されていた国際派のお株を奪うように武装闘争方針を取り始める。
●第4回全国協議会(昭和26年2月)で軍事方針が採択された。同年8月、コミンフォルム機関紙は所感派を支持し、そのもとでの統一を求めた。
●第5回全国協議会(同年10月)では平和革命が否定された。国際派は解体し、一部は自己批判し主流派に合流した。宮本もこの時、自己批判を書いて主流派に復帰した。
→時限爆弾や火焔手榴弾の製造法のパンフレットが飛び交った。
●今では、このときの日共の武装闘争は、スターリンが朝鮮戦争時の前線基地となる日本を攪乱すべく指令したものだということが知られている。
《竹内洋 諸君!2008/5月号》
●日本共産党は、昭和46年6月の全国県委員長会議において、自衛隊と警察を弱体化させ、味方に取り込まなければ革命は成功しないとの方針を示し、昭和49年頃から積極的な警察工作を開始した。その潜入工作の内訳は発覚したものだけでも…
◇昭和48年 100件 ◇49年 148件
◇50年 159件 ◇51年 211件
◇52年 253件 ◇53年 496件
…と年々増加していた。
《島袋修 「公安警察スパイ養成所」》
●1954年に米国に亡命したソ連の情報将校ラストボロフの供述から、外務省のソ連通の元職員が逮捕された。また旧関東軍航空参謀少佐・志位正二ら6人の元軍人が「保護」を求め、警視庁に出頭した。志位は終戦後、ソ連に抑留され、スパイとして訓練された。ラストボロフの亡命でスパイ網発覚を恐れたKGBは志位に自殺を強要したという。共産党の志位和夫書記局長は彼の甥に当たる。
《春名幹男 「秘密のファイル」》
●日本共産党幹部が東京のソ連代表部に呼び出されて、一般的な活動の指示を受けていた。(公安調査庁の情報)
《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》
●1949年、共産党はこれまでとやや異なった姿を見せる。1月総選挙で35議席への大躍進(前回4議席だった)となると、革命の時期到来と考えたか、6月に「九月革命説」を打ち出す。9月までに吉田内閣を打倒し、共産党中心の民主政権を樹立する、というのだ。
●これで若者が跳びはねる。共産党政権といえば議会はこぞって大反対。となれば党中央は九月に暴力革命を考えている。武装蜂起だ。「若者よ!体を鍛えておけ、その日のために…」の合唱となり、組合では右派の幹部を物陰などに引っ張り込んで、「今のうちに反省してわれわれに協力すれば許すが、さもないと九月には死刑だ」なんて脅す者まで出る。
●こういう空気を反映して、官公労の大組合、国鉄労組や全逓などでは革命論議が盛んになる…
◇国鉄労組熱海中央委員会では、地方には闘争戦術として汽車をひっくり返せという議論がある、と紹介された。
◇全逓秋田大会では、「階級的立場から武器の使用を躊躇うべきではない」という発言まで飛び出している。
◇福島権常磐地区の炭鉱労働者は共産党に煽られて、平市警察署を占領した。
●言論の自由を一番恣にしたのは共産党であろう。吉田茂を「狂犬吉田」と呼び捨てにして憚らず、「九月革命説」を唱えるのも自由、警察署占拠を煽るのも自由。都合が悪くなると「ストライキ反対!」とも叫べた。そして、そのストライキ反対の先に革命がある、とも説いていた。
《佐藤一 「松本清張の陰謀」》
●資本主義から共産主義へという「歴史発展の法則」を信奉する共産主義者の宗教的熱狂が、これまでどれだけの人間を粛清してきたことか。日本共産党だけが別だという保証はどこにもない。
《清洲橋三郎 正論2009/7月号》
●筆坂秀世が酒席で女性にセクハラしたので参院議員辞職、中央委員罷免。
志位和夫委員長は記者会見し「党幹部や本部職員が外部で酒席をもつことを禁止する規則を徹底する」と語った。仕事帰りの「ちょっと一杯」も不可という。
●後でそういう規定はない、党員の自主的な申し合わせだと訂正したが、産経新聞(03年7月8日)は1970年製の文書がちゃんと存在すると暴露した。
「飲酒は原則として家でおこない、帰宅の途中や面識のないものとは飲酒しない。とくに重要なものを持っている時には外では絶対に飲まない」がその一節。
《徳岡孝夫 「完本紳士と淑女」》
●治安維持法によって多くに人が警察に疑われたり、冤罪で拘留されたりしたのは、動かしがたい事実である。ただ、日本に共産主義を入れないという点においては、治安維持法が大きな効果を上げたことは評価すべきだと思われる。
●なぜなら、ナチスの思想が人種差別とセットになっているように、共産主義イデオロギーは常に暴力とセットになっているからである。暴力や大量殺人のない共産主義などありえないのだ。(スターリン、毛沢東、ベトナム、カンボジアのポル・ポト派、北朝鮮など)
●共産革命が起きたら日本がどうなるかは、1972年の連合赤軍事件を見ればよく分かる。わずか30人ばかりのグループが何と12人の同志男女を「総括」と称して虐殺していたのだ。これは革命のミニ版である。スターリンや毛沢東は、これと同じことを全国規模でやったと思えばいい。
《渡部昇一 「渡部昇一「日本の歴史」》
●一時、日本共産党は解党し、コミンテルンの肝煎りで再建。その再建共産党も一斉検挙や最高幹部の転向、リンチ事件などで昭和10年までに壊滅した。
●日本共産党は今も「結党以来、戦前・戦中・戦後を通じて戦争に反対した唯一の党」と宣伝しているが、戦時中に日本共産党は存在しておらず、獄中の共産党員も特に反戦活動はしていない。
そして終戦後、占領軍によって刑務所から「解放」された共産党員たちが公然と「天皇制廃止」を唱え始め、一気に「天皇制」の言葉が世に広がった。
《小林よしのり 「天皇論」》
●共産党による社会主義革命は、ソ連、中国がそうであるように暴力革命というのが「鉄則」であった。日本共産党もスターリンや毛沢東の武装闘争方針に指導され、1951年にその路線を採用して火炎瓶闘争などにのめりこんでいった。
●だがこの武装闘争は、「暴力的な共産党」「共産党は怖い」ということを国民の心に刻印させたたけであった。結果、戦後、侵略戦争に反対した政党としての期待から1949年総選挙で35議席を確保していたにも拘わらず、52年総選挙では1議席も確保できないまでに国民から見放されていった。共産党史上、最大の危機であった。
(続く)
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